ニューヨーク州弁護士で現在は日本の法科大学院教授の著者が、アメリカ弁護士の立場からアメリカの陪審と日本の裁判員制度の違いを説明した本。
著者の主張は、裁判員制度は、国民の司法参加を余儀なくされた裁判所が裁判所に都合のいいように修正した、裁判所のための制度で、裁判の結果や制度の失敗を裁判員のせいにできて、裁判員は守秘義務のために真実を明らかにできないということにあります。法律が誰のためにあるかはその法律が誰に義務を課し誰に自由(裁量)を広く認めているかを見ればわかるとして、法律上も裁判官に都合がよくできていることを論じています。
著者が最も危惧するのは、裁判員制度では、陪審と違って裁判官が評議に加わり、しかも裁判官と裁判員のやりとりが公開の法廷ではなく密室で行われ、裁判員には評議の内容について守秘義務が課され、その結果裁判官が密室でどのように不公平なことを言って裁判員を誘導してもそれは公にならず誰も検討さえできないということです。アメリカの陪審ならば、有罪無罪の決定は陪審のみで行われ、裁判官が陪審に行う法律の説明(説示)は公開の法廷で行われ、陪審員には守秘義務もないということです。
著者の思いは、「陪審制度は個人を公権力から守る最後の砦であるのに対して、率直にいって、私が見る限り、裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度である。」(10頁)という表現に端的に表れています。
半分以上が、日本の法制度が役所に都合よく役所のために作られていることと裁判所も役所であることの説明と、アメリカの陪審制度の歴史と制度趣旨の説明に費やされていて、裁判員制度について書かれているのは後ろの3分の1くらいです。著者の主張を説明するために前半の議論が必要なのはわかりますが、前半をもっとコンパクトにして裁判員関係をもう少し詳しく書いてくれた方が、タイトルにはマッチすると思います。
裁判員制度が裁判所・裁判官に都合よくできていることと、陪審制度とはかなり違う制度だということについて理解するのには、わかりやすい本だと思います。
コリン P.A.ジョーンズ 平凡社新書 2008年11月14日発行
著者の主張は、裁判員制度は、国民の司法参加を余儀なくされた裁判所が裁判所に都合のいいように修正した、裁判所のための制度で、裁判の結果や制度の失敗を裁判員のせいにできて、裁判員は守秘義務のために真実を明らかにできないということにあります。法律が誰のためにあるかはその法律が誰に義務を課し誰に自由(裁量)を広く認めているかを見ればわかるとして、法律上も裁判官に都合がよくできていることを論じています。
著者が最も危惧するのは、裁判員制度では、陪審と違って裁判官が評議に加わり、しかも裁判官と裁判員のやりとりが公開の法廷ではなく密室で行われ、裁判員には評議の内容について守秘義務が課され、その結果裁判官が密室でどのように不公平なことを言って裁判員を誘導してもそれは公にならず誰も検討さえできないということです。アメリカの陪審ならば、有罪無罪の決定は陪審のみで行われ、裁判官が陪審に行う法律の説明(説示)は公開の法廷で行われ、陪審員には守秘義務もないということです。
著者の思いは、「陪審制度は個人を公権力から守る最後の砦であるのに対して、率直にいって、私が見る限り、裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度である。」(10頁)という表現に端的に表れています。
半分以上が、日本の法制度が役所に都合よく役所のために作られていることと裁判所も役所であることの説明と、アメリカの陪審制度の歴史と制度趣旨の説明に費やされていて、裁判員制度について書かれているのは後ろの3分の1くらいです。著者の主張を説明するために前半の議論が必要なのはわかりますが、前半をもっとコンパクトにして裁判員関係をもう少し詳しく書いてくれた方が、タイトルにはマッチすると思います。
裁判員制度が裁判所・裁判官に都合よくできていることと、陪審制度とはかなり違う制度だということについて理解するのには、わかりやすい本だと思います。
コリン P.A.ジョーンズ 平凡社新書 2008年11月14日発行