哲学とは何かを、「哲学とは、私たちの生の土台や前提となっている基本的なものごとの本質が何であるかを論理的に考えることである」という著者が示した定義を出発点に検討し、論ずる本。
哲学について、宗教は反証可能性がない非科学的なもの(158ページ)で、現象予測が実際と一致しないときにはつじつま合わせが行われたり不一致自体が無視される「退行的」なものである(174~175ページ、177ページ)のに対し、哲学は科学と並んで「真の知を求める知的な探究」「前進的なプログラム」だ(183~185ページ)と称揚しています。宗教と並んでフロイトの精神分析論について、反証不可能であり「それゆえ科学的な仮説とは言えません」(156ページ)、「退行的プログラムに属する疑似科学の理論」(171ページ)と評価しています。フロイトかフロイト系列の人に何か恨みでもあるんでしょうか。
さまざまにテーマを変えながら、哲学の議論の仕方を紹介して行くのですが、否定/批判したい相手(主張・論)に対しては抽象化してある種極端な例も一体と扱った上で完全には一貫できないことを問題視し、守りたい主張(論)については「本質」という名で典型的なところでは成り立つ、すみからすみまで極端なものまで一律に考える必要はないと論じているような印象を私は受けました。現実世界では、また私の業務分野の法律実務のような実学の世界では、すべてのことに一律に当てはまる原理や「真理」なんてものはないのが当然で、そんなもの求めること自体に無理があると思います。それを求めるのが哲学だというのならそれはそれでいいですが、そういう議論と姿勢が、芸術の定義で論じたような(46~52ページ)哲学の世界の構成員に哲学として認められればいいんだというムラ社会独自の文化に繋がっていくなら広がりを持てなくなっていくことでしょう。もちろん、「著者がつじつまの合わないことや、あからさまに間違ったことを書いているように思えるのは」私のような素人が「誤った枠組みで文献を読み、理解してしまっているから」(247ページ)なのでしょうけれども。
金杉武司 ちくまプリマー新書 2022年7月10日発行
哲学について、宗教は反証可能性がない非科学的なもの(158ページ)で、現象予測が実際と一致しないときにはつじつま合わせが行われたり不一致自体が無視される「退行的」なものである(174~175ページ、177ページ)のに対し、哲学は科学と並んで「真の知を求める知的な探究」「前進的なプログラム」だ(183~185ページ)と称揚しています。宗教と並んでフロイトの精神分析論について、反証不可能であり「それゆえ科学的な仮説とは言えません」(156ページ)、「退行的プログラムに属する疑似科学の理論」(171ページ)と評価しています。フロイトかフロイト系列の人に何か恨みでもあるんでしょうか。
さまざまにテーマを変えながら、哲学の議論の仕方を紹介して行くのですが、否定/批判したい相手(主張・論)に対しては抽象化してある種極端な例も一体と扱った上で完全には一貫できないことを問題視し、守りたい主張(論)については「本質」という名で典型的なところでは成り立つ、すみからすみまで極端なものまで一律に考える必要はないと論じているような印象を私は受けました。現実世界では、また私の業務分野の法律実務のような実学の世界では、すべてのことに一律に当てはまる原理や「真理」なんてものはないのが当然で、そんなもの求めること自体に無理があると思います。それを求めるのが哲学だというのならそれはそれでいいですが、そういう議論と姿勢が、芸術の定義で論じたような(46~52ページ)哲学の世界の構成員に哲学として認められればいいんだというムラ社会独自の文化に繋がっていくなら広がりを持てなくなっていくことでしょう。もちろん、「著者がつじつまの合わないことや、あからさまに間違ったことを書いているように思えるのは」私のような素人が「誤った枠組みで文献を読み、理解してしまっているから」(247ページ)なのでしょうけれども。
金杉武司 ちくまプリマー新書 2022年7月10日発行