日本大学文理学部を構成する人文系6学科(哲学、史学、国文学、中国語中国文化学、英文学、ドイツ文学)、社会系6学科(社会学、社会福祉学、教育学、体育学、心理学、地理学)、理学系6学科(地球科学、数学、情報科学、物理学、生命科学、化学)から各1人の教員が書いた文章を並べ、「この現実世界は、大学や学問分類によって切り取りやすくはできていない」「そこでは、文系・理系の区別も、どちらが役に立つかで評価されることもない。それぞれの学問領域から見える世界の違いをふまえつつ、世界を生きぬくための多様な知恵を身につける--それを文理的思考と呼びたい。」「本書は、この18学科で活躍している教員18名の知を結集したものである。それぞれ18の学問領域の専門的なトピックをわかりやすく説明し、研究の最先端の一部を紹介している。」(はじめに:10~11ページ)とする本。
大仰な紹介とタイトルですが、実質は様々な学問分野の教員が各パートの関連性も特に考えず統一テーマもなく(あるとすれば、学生向けに自分の研究分野をアピールする、くらいでしょう)書いた文章を配列も全く工夫せず羅列したという、作る側にはお手軽な出版物で、通し読みしても、個別の読者の関心で引っかかるものは出てくるでしょうけれども(なんせ18ものバラバラの領域ですから、いくつかは関心がある領域があるはず)、1冊の本全体としては、いろいろな研究領域がありいろいろな教員(読者がわかりやすいように努力した跡がある人も、衒学趣味的な専門/特殊用語を並べて煙に巻こうとしている人も・・・)がいるのねという程度にとどまる感じがします。
はじめにで「哲学研究の第一人者・永井均が自分の存在を追求し」(11ページ)と紹介されている「第1講 自分とは何か--存在の孤独な祝祭」では、前段で自分を識別する基準は何かと問い、「その体をくすぐられると実際にくすぐったく、その人の人生の苦しみが実際に苦しく、その人の思い出すことが実際に思い出される人」という基準を立て(24ページ)た上で「ここから1頁ほどの記述は少々高度な問題に触れている」などとした挙げ句、「だれもがこの基準を使って自分を他人たちから識別しており、それでうまくいっているのだとすると、だれもがこの基準を満たしてることになる。だれもがこの基準を満たしているのだとすると、そのだれもたちのうちから、あなたはどうやって自分を識別できているのだろうか。」(25ページ)と問うています。前段でした基準作りが観察者・判断者=知覚・感情・記憶の主体である場合が自分、観察者・判断者にとって知覚・認識の客体であるだけで主体でない場合が他人という、個別の観察者・判断者を前提とし基準としたものであったのに、後半ではそれを捨象ないし超越した(個別の観察者・判断者を前提としない)立場での問いかけをするというのでは、問題の立て方の次元が違います。そのように問いかけるのであれば、基準作りの時点で、観察者・判断者に依存しない、指紋とか、顔(顔認証システムが十分に個人を識別できるのであれば・・・)、DNAなどの客観的な識別指標を用いるべきでしょう。こういう議論は、哲学では、「アキレスは亀に追いつけない」などの「詭弁」の1つとして紹介すべきではないかと思います。他の専門分野との総合、編集する力をいうのなら、ニュートン力学の絶対時間・絶対空間などの概念に対し、観察者という視点を持ち込んだことで相対性理論へと議論が進んだ、観察者という視点を持つか捨象するかでパラダイムが変わる、くらいのことも指摘するべきなんじゃないでしょうか。
日本大学文理学部編 ちくま新書 2017年2月10日発行
大仰な紹介とタイトルですが、実質は様々な学問分野の教員が各パートの関連性も特に考えず統一テーマもなく(あるとすれば、学生向けに自分の研究分野をアピールする、くらいでしょう)書いた文章を配列も全く工夫せず羅列したという、作る側にはお手軽な出版物で、通し読みしても、個別の読者の関心で引っかかるものは出てくるでしょうけれども(なんせ18ものバラバラの領域ですから、いくつかは関心がある領域があるはず)、1冊の本全体としては、いろいろな研究領域がありいろいろな教員(読者がわかりやすいように努力した跡がある人も、衒学趣味的な専門/特殊用語を並べて煙に巻こうとしている人も・・・)がいるのねという程度にとどまる感じがします。
はじめにで「哲学研究の第一人者・永井均が自分の存在を追求し」(11ページ)と紹介されている「第1講 自分とは何か--存在の孤独な祝祭」では、前段で自分を識別する基準は何かと問い、「その体をくすぐられると実際にくすぐったく、その人の人生の苦しみが実際に苦しく、その人の思い出すことが実際に思い出される人」という基準を立て(24ページ)た上で「ここから1頁ほどの記述は少々高度な問題に触れている」などとした挙げ句、「だれもがこの基準を使って自分を他人たちから識別しており、それでうまくいっているのだとすると、だれもがこの基準を満たしてることになる。だれもがこの基準を満たしているのだとすると、そのだれもたちのうちから、あなたはどうやって自分を識別できているのだろうか。」(25ページ)と問うています。前段でした基準作りが観察者・判断者=知覚・感情・記憶の主体である場合が自分、観察者・判断者にとって知覚・認識の客体であるだけで主体でない場合が他人という、個別の観察者・判断者を前提とし基準としたものであったのに、後半ではそれを捨象ないし超越した(個別の観察者・判断者を前提としない)立場での問いかけをするというのでは、問題の立て方の次元が違います。そのように問いかけるのであれば、基準作りの時点で、観察者・判断者に依存しない、指紋とか、顔(顔認証システムが十分に個人を識別できるのであれば・・・)、DNAなどの客観的な識別指標を用いるべきでしょう。こういう議論は、哲学では、「アキレスは亀に追いつけない」などの「詭弁」の1つとして紹介すべきではないかと思います。他の専門分野との総合、編集する力をいうのなら、ニュートン力学の絶対時間・絶対空間などの概念に対し、観察者という視点を持ち込んだことで相対性理論へと議論が進んだ、観察者という視点を持つか捨象するかでパラダイムが変わる、くらいのことも指摘するべきなんじゃないでしょうか。
日本大学文理学部編 ちくま新書 2017年2月10日発行