日本とアメリカの裁判官と裁判制度を比較して論じた本。
タイトルにあるように裁判官の個性についての考えと裁判官や裁判の公開についての考えが違うことを軸として論じています。アメリカでは裁判官に個性がありそれが裁判の進め方などに現れることを前提とし、裁判官の任命の手続が公開され、陪審制度を通じて市民が裁判と裁判官を直に知る機会があり、そういった情報の公開を通じて市民の裁判への信頼が高まるのに対して、日本では誰が裁判をしても同じ結果となることがよしとされ、裁判官の任命や個性についての情報はほとんど知られず市民と接触することもほとんどない。アメリカは透明性(公開と批判による誤りの修正)を重視し、日本は統一性を重視する制度と評価され、著者は日本の裁判制度が透明性を高めることが必要だと論じているわけです。日本の裁判所は判例法主義のアメリカよりも先例を重視している(17~18頁)という指摘もあります。
さらにアメリカと同様に直接主義・口頭主義(法廷で証言されたことで判断するということ)を標榜しながら審理途中で裁判官が交代できることはアメリカ人には衝撃的(252頁)とか、裁判員制度導入に当たってアメリカで報道の影響排除のために取られている方策が日本では準備されていないことやアメリカでは陪審員に示すことが禁止されている被害者の意見や被告人の前科・性格についての証拠が裁判員は(陪審と異なり)量刑も判断するがために裁判員に示され事実認定の判断にも影響を与える危険等への懸念が示されています(306~310頁)。有罪・無罪の判断段階での被害者の積極的参加がアメリカでなら違憲審査で認められるとはまず考えられない(310頁)とも。
著者の立場は穏健で比較的保守的と見え、視点はごく実務的なもので、弁護士の目からはやや政治や裁判所への遠慮ないし目配りが感じられはしますが、説得的な内容に思えます。司法改革と裁判員制度をめぐって考えるときの、少し全体からの視点を得るのにいいかなと思いました。
ダニエル・H・フット 訳:溜箭将之
NTT出版 2007年11月20日発行
タイトルにあるように裁判官の個性についての考えと裁判官や裁判の公開についての考えが違うことを軸として論じています。アメリカでは裁判官に個性がありそれが裁判の進め方などに現れることを前提とし、裁判官の任命の手続が公開され、陪審制度を通じて市民が裁判と裁判官を直に知る機会があり、そういった情報の公開を通じて市民の裁判への信頼が高まるのに対して、日本では誰が裁判をしても同じ結果となることがよしとされ、裁判官の任命や個性についての情報はほとんど知られず市民と接触することもほとんどない。アメリカは透明性(公開と批判による誤りの修正)を重視し、日本は統一性を重視する制度と評価され、著者は日本の裁判制度が透明性を高めることが必要だと論じているわけです。日本の裁判所は判例法主義のアメリカよりも先例を重視している(17~18頁)という指摘もあります。
さらにアメリカと同様に直接主義・口頭主義(法廷で証言されたことで判断するということ)を標榜しながら審理途中で裁判官が交代できることはアメリカ人には衝撃的(252頁)とか、裁判員制度導入に当たってアメリカで報道の影響排除のために取られている方策が日本では準備されていないことやアメリカでは陪審員に示すことが禁止されている被害者の意見や被告人の前科・性格についての証拠が裁判員は(陪審と異なり)量刑も判断するがために裁判員に示され事実認定の判断にも影響を与える危険等への懸念が示されています(306~310頁)。有罪・無罪の判断段階での被害者の積極的参加がアメリカでなら違憲審査で認められるとはまず考えられない(310頁)とも。
著者の立場は穏健で比較的保守的と見え、視点はごく実務的なもので、弁護士の目からはやや政治や裁判所への遠慮ないし目配りが感じられはしますが、説得的な内容に思えます。司法改革と裁判員制度をめぐって考えるときの、少し全体からの視点を得るのにいいかなと思いました。
ダニエル・H・フット 訳:溜箭将之
NTT出版 2007年11月20日発行