居住地の町(舞坂町)がとなり町との戦争を始め、町から一方的に偵察業務従事者に任命されて戦争に巻き込まれた主人公北原君と、ともに戦争推進室分室勤務となる公務員香西さんの戦争下の日常を描いた小説。
2005年の文学界を席巻した「となり町戦争」、図書館で寝ているのを見つけて、読んでみました。
確か、昨年あちこちで見た書評類では、「戦争」というタイトルに引きづられてか、リアリティのない戦争、ヴァーチャルな戦争の不気味さみたいな書き方が多かったような記憶があります。
でも、実際に読んでみると、行政・役場の救いのなさ・怖さがテーマなのだと私は思います。戦争、多数の戦死者を出すことさえ、まるで道路の拡張工事のように予算を立て計画し、汚れ仕事はすべてアウトソーシングして自らは手を汚すことなく着実に淡々と実行してしまう役人たちの懲りない、非人間的な姿。となり町との間での戦争を、となり町との間で協力して戦争を遂行していこうと協定書を結び定期的な勉強会をしながら遂行していく両町の役人たち(147頁)。ほとんどの住民が戦争を知らず参加せず関心も持っていないのに「今の時代はやはり地域住民の意向を無視しては戦争や工事はできないんですよ」(141頁)と住民の意向で戦争をしているという誤った使命感。分室での「性的な欲求処理に関する業務」の分担のために週1回北原君の部屋を訪れて必ず自分が上になって性交する香西さん(それがわかった後も淡々と続けられる北原君も、ちょっとすごいけど)。住民への説明会で「なぜ、となり町の人間と殺し合いをしなければならないのか」と問われて、「なぜ」には答えずに「我々はとなり町と“殺し合い”は行っておりません。殺し合うことを目的に戦争をするわけではありませんし、戦争の結果として死者が出る、ということですからお間違えのないようにお願いします。」と説明する戦争推進室長(89頁)。
しかも、こういうテーマだと役人が何か利得している姿を書きがちですが、この作品では役人たちは何か利益があるわけでもありません。
ただただ業務だから計画したからそれを実行することが自己目的化したものとして、自己満足的な使命感だけで淡々と続けているわけです。そういった役人の業というか性というか、そういうものを戦争という極端な素材を用いることでアイロニカルに自嘲的に描いたものだと、私は読みました。その意味では、「戦争」でなくてもよかったのだと思います。
戦争というテーマで見ると、リアリティのなさよりも、共同体の喪失というか、愛国心も高揚感もなく(せいぜい26~28頁の小学校での軍事教練のシーンくらいですね、そういうのは)連帯感もなく住民の関心もほとんどなく、それでも戦争が行われ多数の死者が出ていくということの不気味さを感じました。でもそれは、たぶん、より小さなテーマかなと。
終章に入って、淡々とした叙述が少し観念的・修辞的になり、少し高級に・グレードアップしたいという作者の気取りを感じます。主人公の北原君をどこか冷めたリアリティのない人物に造形して、役人たち・香西さんの胸ぐらをつかんで責めたりするシーンを1つとして設けない、そういう描き方を選択したのですから、むしろ第5章までの淡々としたスタイルで最後まで書ききった方が凄みがあったように、私には思えましたが。
作者が男性なのにペンネームで女性っぽく見せているのはちょっと残念。香西さんの描き方なんて女性がこういう書き方をしていると思って読むから、ギョッとしつつ許せるかなと思える面もありますからね。
それにしても、無名の新人のデビュー作ということを考えると、すごいですね、これは。読んでから作者が公務員というのを知って、それはむべなるかなと思いましたが。
三崎亜記 集英社 2005年1月10日発行