原子力推進側の研究者の立場から原子炉の暴走について解説した本。
基本的には原子力開発時代の暴走事故とその後の研究の進展、その結果として近年の原発・原子炉はとても安全で暴走事故など起こそうとしても起きない、仮に起きても大事には至らない、マスコミは過剰反応で非科学的という視点で貫かれ、北陸電力・東京電力の臨界事故隠しはもちろん、JCO臨界事故やチェルノブイリ原発事故までマスコミの過剰反応を諫める論調で書かれています。
著者がJCO臨界事故の際の安全委員会や政府の対応に怒っている様子が報じられていたので、この第2版ではもう少し業界側の問題も指摘する方向になるかと思ったのですが、初版と同じ路線ですね。
まずは単純な読後感としては、第1章の暴走の正体と題する基本的な説明は私もほぼ同じ意見ですし、この種の本としてはわかりやすく書けていると思います。
第2章の反応度事故の研究の歴史は、なかなか興味深く読ませていただきました。大雑把には知っていましたが経験を交えて流れで語られているので、前に勉強したときより頭に入りました。
第3章については、立場上、単純な読後感で済ませるわけに行きませんので後で述べます。第4章の加圧水型原発については私は詳しくは知りませんのでコメントしません。
第5章の日本の臨界事故は、いくら何でも偏った評価というしかないでしょう。北陸電力の臨界事故隠しに際して「反応度投入事象が何の痕跡も残さない通り魔である事を知悉し、隠し覆せると腹を決めた度胸と技術的知識は大したものだ。(略)隠匿を褒めているのではない。技術者である僕には、隠せると判断した人(達)の持つ技術的力量が今後使われることなく捨て去られてしまうのが惜しまれてならないのだ。」(208頁)というのはあんまり。私の感覚では、むしろ原子力の世界では、東京電力のひび割れ隠し等の際を見ても、トップのクビは代わっても不正行為をした技術者達は名前も明らかにされず処分も受けず相変わらず原子力業界で生き続けていて、そういうことをしているからいつまでたっても不正行為がなくならないのだと思います。臨界事故隠しをしたような連中が原子力業界で生きながらえればその技術的力量がより巧妙でより重大な不正行為となって再現されることになるでしょう。
この本の初版を関係者が一読してくれていればこれらの(臨界)事故は未然に防ぎ得たかも知れない(195頁)というのはどうでしょう。臨界事故など起こそうとしてもなかなか起きない、起きても大したことはないという論調の本を読んでも、臨界事故への警戒感など起きないと思います。むしろ、著者の主張とは逆に、北陸電力の臨界事故が直ちに公表されマスコミが大騒ぎしていれば、JCOの関係者に、少なくとも臨界事故など起こせばえらい騒ぎになるという警戒感・緊張感を与え、それにより事故を防ぎ得た可能性の方がよほど高いでしょう。
第6章のチェルノブイリ事故の真相についての著者の推理については、私はその当否を論ずるだけの知識がありません。このような論を展開する著者の一徹ぶりは、私は嫌いではありません。その推理の指向するところが暴走事故そのものの大きさ・影響を少しでも小さく評価しようという方向なのがちょっと気になりますが。
さて、この本で「難解な技術用語を混えた間違いだらけの解説を、臆面もなく雑誌や単行本で発表する」(47頁)、「チェルノブイリ事故の発生原因に刺激されて、負のボイド効果を持つBWRでも、ボイドが急減少するような場合、反応度事故が生じるとの懸念を巷間撒き散らす人達がいる」(167頁)、「間違いだらけの解説記事が堂々と掲載されていた。臆面もなく単行本として出版されたものまである」(366頁)と執念深く文句を言われている人達の1人(というよりも、これらの表現、特にボイドの話からすると私が主要なターゲットかとも思われます)としては、そのことについても述べておかざるを得ないでしょう。
原発訴訟、特に東海第二原発訴訟と柏崎刈羽原発訴訟で、日本の原発の過半数を占めるBWR(沸騰水型軽水炉)において炉心に運転中大量に存在するボイド(泡)が急減する事態となったときの暴走事故の危険性を論じた私の主張(それは、1990年段階のものが「原発暴走事故」:三一書房にまとめられて出版されました)に対して、国側から直接の反論材料として出されたほぼ唯一の書証がこの本の初版でした。その意味で私には思い出深い本です。
確かに著者が指摘するように初期の(「原発暴走事故」段階の)私の主張では、暴走に至るかどうかの判断を原子炉出力急上昇レベルで止めていて、そこは中途半端でした。
その後、しかし、この本の初版が出るよりずいぶん前に、私の/原発訴訟の住民側の主張も、著者の指摘する反応度投入量と燃料の発熱によるエントロピ量(実質的には燃料の熱量と考えてください)、さらにはそれによる水蒸気爆発の成否まで論じるようになっていました(それは出版はしていませんが・・・そこまで一般人が読める/興味が持てるように書けませんでしたから)。それに対して国側は、私の主張する事態が起きても暴走事故に至らないとは一度も述べませんでしたし、私が主張する事態が起こる可能性がないとも一度も述べませんでした。かなり挑発的な求釈明をしても、国側の主張は、「安全審査ではそのような事態は想定する必要がない」とするのみで、なぜ想定しなくていいのかと問いつめてもそれには一切答えませんでした。
私が指摘する事態が起こっても暴走事故に至らないという答は、著者のこの本でしかなされていません。その答も、主蒸気隔離弁の閉止に限定され、しかも安全審査ではその効果を度外視している「PMH効果」(燃料の発熱が冷却材に伝わるのではなく核分裂による中性子が冷却材に衝突すること自体による冷却材の温度上昇の効果)を入れて初めて私の主張をつぶせるというものでした(171頁:171頁の図3.1で「ボイド効果」と書かれているPMH効果を除けば投入反応度が1ドルを超え著者の主張に沿っても暴走に至ることがわかる)。また、著者の選んだ主蒸気隔離弁の閉止は4~5秒かかりますから反応度投入がゆっくりだという著者の批判が当たるのですが、私が挙げたケースの中には主蒸気止め弁や主蒸気加減弁の閉止という、申請書上では0.1秒で全閉止するという弁もあります。
著者は制御棒落下事故について安全審査の想定を無理に無理を重ねたミステリーで過剰な想定だと評価しています。私も、著者のように制御棒落下事故が起こるストーリーだけを採り上げれば、それは同意できます。しかし、それを言い出せば、事故が起こる前に、スリーマイル島原発事故やJCO臨界事故のストーリーを示せば誰もがそんなことは起こるはずがない、漫画だと言うに違いありません。それでも現実にはそれが起こってしまう、それが事故なのです。
そして安全審査では、推進側で選んだ事故パターンでは多少無理でも想定するけど、それ以外はありそうなことでも、住民側がこれも想定すべきだと言っても、想定する必要はないとはねつけます。緊急停止系の遅れは私が暴走事故の危険性を指摘するケースについては実に0.06秒とか0.09秒までしか想定していません。安全審査ではその種の信号系の故障(信号が出なくなる事態)はほとんど想定しません。六ヶ所ウラン濃縮工場では信号喪失で中央操作室から操作も状況把握もできない状態が1時間以上も続いた事故も現実にあったのですが。
もっとも、私としては、この本は私の暴走事故に関する主張に対して、初めて歯ごたえのある反論でしたので、知的な好奇心・興奮を覚え、著者に対しては尊敬の念を持っています。裁判では結局国側は、この本は証拠として出しただけで、それを国の主張のベースにはしませんでしたし、私はあくまでも裁判を前提として主張し、著者は/この本は一般向けの啓蒙が目的ですから、上で述べた以上にはかみ合わずに終わっています。
ただ著者は臨界や実験炉での専門家で、商業用原発についての記述には少し不安を感じます。例えばBWRの炉心支持板に制御棒を通すための十字型の孔が開いている(138~139頁)というのは初耳でした。炉心支持板自体は制御棒案内管を通す丸い孔が開いていて制御棒案内管の上(炉心支持板の上)の燃料支持金具に十字型の孔と燃料集合体の下側を差し込む孔があるのが普通です。また北陸電力の臨界事故の解析の説明で炉心上部であるからボイドが多く中性子分布が少ないという趣旨の説明をしています(211~212頁)。通常運転時ならその通りですが、この事故の時のように停止状態の原子炉で上側の一部だけ制御棒が引き抜かれたときには、下側では沸騰は起こっておらず下からボイドは上がってきません。ですからこの事故の時には上部だからボイドが多いということはありません。それに安全審査資料では企業秘密のため具体的には公開されていませんが、上部でボイドが多いために出力分布が小さくなるのを是正するためにメーカーは燃料の濃縮度や中性子吸収物質の濃度の調整をしていますから、こういう上部だけの臨界でボイドが少ない場合に上部は中性子分布が少ないと無前提に言えるかは疑問です。
う~ん、経緯が経緯なもので、一般人が付いて来れないマニアックな論評になってしまいました。私の方は、東海第二原発訴訟は終わりましたし、柏崎原発訴訟も最高裁ですし、それに近年は原発訴訟の主要テーマは地震問題にシフトしていて暴走問題を改めて論じることもなかったので、少しノスタルジーに浸りながらの楽しい読書でした。
石川迪夫 日刊工業新聞社 2008年3月20日発行(初版は1996年)