刑法総論の教科書。
刑法における「違法性」の概念に行為者の行為態様や内心(意図)に対する評価を取り込むことを避けて、違法性を裏付けるのは「法益侵害」であることを貫こうとする「結果無価値論」をかなり純粋に貫く立場で論じています。結果無価値論は、違法性については客観的に、つまり法益(生命・身体・健康・財産・名誉等)を侵害する結果やその具体的危険があったかどうか、違法性阻却事由では優越する法益の保護等があるかによって判断し、責任の議論で行為者の主観的事情を考慮することになり、結果的には処罰すべきパターンが狭くなります。主観説や「行為無価値論」が処罰すべきでないものをできる限り「違法性がない」として排除しようとするのに対して、結果無価値論は違法と評価しても責任で救えばいいじゃないかという姿勢をとることになります。
昔、学生時代に、当時少なくとも教科書を出していた刑法学者の中で最も徹底した結果無価値論の立場をとる中山研一先生と自主ゼミを持ち議論させていただいた経験では、中山先生でさえ、結果無価値論の立場をとりつつ主観的違法要素を認めるやや妥協的な立場で有力説でありながら実務では無視ないし敵視されていた平野龍一説に誘惑されがちでした。一学生として刑事実務とか学会のことなど考慮する気も必要性もなく、単純に理論的一貫性から、もっと純然たる結果無価値論を貫くべきではないかと論じていた私の議論と、この著者の説はほぼ同じに思えます(私自身、学生の頃隅々の論点でどう言っていたか、今や忘却の彼方なので、厳密には言えませんが)。当時中山先生が逡巡した論点でもあっさり結果無価値論の必然的帰結と説明する著者の姿勢には一種の悟りの境地さえ感じてしまいました。
刑法学者として1991年にこの本の初版を刊行した後に一時は大阪地裁で裁判官となり、現在の研究テーマとして学説と実務の架橋を挙げる立場でこの学説を維持することは大変だと思います。健闘をお祈りします。
大越義久 有斐閣 2012年12月5日発行(初版は1991年)
刑法における「違法性」の概念に行為者の行為態様や内心(意図)に対する評価を取り込むことを避けて、違法性を裏付けるのは「法益侵害」であることを貫こうとする「結果無価値論」をかなり純粋に貫く立場で論じています。結果無価値論は、違法性については客観的に、つまり法益(生命・身体・健康・財産・名誉等)を侵害する結果やその具体的危険があったかどうか、違法性阻却事由では優越する法益の保護等があるかによって判断し、責任の議論で行為者の主観的事情を考慮することになり、結果的には処罰すべきパターンが狭くなります。主観説や「行為無価値論」が処罰すべきでないものをできる限り「違法性がない」として排除しようとするのに対して、結果無価値論は違法と評価しても責任で救えばいいじゃないかという姿勢をとることになります。
昔、学生時代に、当時少なくとも教科書を出していた刑法学者の中で最も徹底した結果無価値論の立場をとる中山研一先生と自主ゼミを持ち議論させていただいた経験では、中山先生でさえ、結果無価値論の立場をとりつつ主観的違法要素を認めるやや妥協的な立場で有力説でありながら実務では無視ないし敵視されていた平野龍一説に誘惑されがちでした。一学生として刑事実務とか学会のことなど考慮する気も必要性もなく、単純に理論的一貫性から、もっと純然たる結果無価値論を貫くべきではないかと論じていた私の議論と、この著者の説はほぼ同じに思えます(私自身、学生の頃隅々の論点でどう言っていたか、今や忘却の彼方なので、厳密には言えませんが)。当時中山先生が逡巡した論点でもあっさり結果無価値論の必然的帰結と説明する著者の姿勢には一種の悟りの境地さえ感じてしまいました。
刑法学者として1991年にこの本の初版を刊行した後に一時は大阪地裁で裁判官となり、現在の研究テーマとして学説と実務の架橋を挙げる立場でこの学説を維持することは大変だと思います。健闘をお祈りします。
大越義久 有斐閣 2012年12月5日発行(初版は1991年)