なあむ

やどかり和尚の考えたこと

見捨てられる

2012年08月14日 07時59分26秒 | ふと、考えた

人間にとって一番寂しいことは見捨てられること、あるいは見捨てられたと感じてしまうことでしょう。

病院や施設にいる老人にとって、家族の来訪がだんだん減っていく、しばらく誰も訪ねてくれなくなる、「自分はもう家族から見捨てられてしまった」と思うとき、寂しさは極致になるのではないか。

いじめを受けている子どもが絶望してしまうのは、いじめの暴力そのものだけではなく、いじめられていることを知りながら、同級生や先生が見て見ぬ振りをする。誰も感心を寄せてくれない。何事も起きていないような無邪気な笑い声が聞こえる。そんなとき、「自分は見捨てられてしまった」と感じるのではないか。それが最もつらい絶望の瞬間なのではないか。

震災で注目を浴びていた被災地がどんどん忘れ去られていき、小さな集落や仮設住宅には誰も来てくれないというところもあるのだろう。問題は何も解決されず、さらに複雑に深刻になってきているのに、被災から免れた人々の視線が次第に冷ややかになっていくのを感じる。あの暖かな眼差しや言葉は何だったのか。そう思うとき、置いてきぼりにされる不安が迫ってくるのではないか。

原発が再稼働したり、そのニュースも忘れ去られたり、県外に避難している人が福島出身であることを語れなかったり、被害者でありながら長期化することによって非難の対象になったり。福島そのものが日本国から切り離されてしまうような不信感がつのるとき。

見捨てられた、と感じる寂しさは絶望に変わっていくでしょう。

オリンピックのお祭り騒ぎが華やかであるほど、相対的に寂しさを増していた人もいたに違いありません。

マザーテレサの言葉、「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、『自分は誰からも必要とされていない』と感じることなのです。」

亡くなった方々も同じ。誰からも掌を合わせられることもなく、お供え物もなく、供養を受けることのない精霊はたくさんあることでしょう。

そんな全ての精霊に供養しようというのが「施食(施餓鬼)会」です。施食会の法要は営まなくても、どのお寺でも、お盆には「施食棚」を設え、山海の珍味を供えて萬霊を供養します。

仏様は決して見捨てませんよ、という供養です。

生きている人も亡くなられた人も、誰一人、見捨てられていい存在などありません。

しかし、そう感じてしまう人がいるとすれば、それは私たちの行動が足りないということでしょう。体を運び、言葉に出し、心を寄り添っていかなければなりません。

あなたの周りに寂しさを感じている人はいませんか。20120710_155712