♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
1月8日。今日は東根温泉からです。
高校のクラス会で、還暦は過ぎましたが、年度内ということでその一環でしょうね。
高校時代もこのクラスも好きだったので大変楽しい一夜を過ごしました。
「♪クラス仲間はいつまでも~」
さてさて。
当地の方言で言えば「すらんねごどはすらんね」あるいは「するらんねごどはするらんね」。
河北町では「さんなねごどはさんなね」。
関西方面では「せなあかんことはせなあかん」「せんならんことはせんならん」などでしょうか。
標準語で言えば、「しなければならないことはしなければならない」ですね。
それぞれ、その地の言葉で言われることだと思いますが、その心の大事さを思います。
「それはどういう意味なの」「なぜそうしなければならないの」
などと聞いて、納得がいかなければやらない、というような傾向があるように感じられますが、あまりにも薄っぺらな考えだと言わなければなりません。
伝統文化のようなものは、理屈や理由などを超えた儀礼として伝えられてきたものでしょう。
理屈を超えた「形」を大事にしなければ、祭礼や神事、伝統芸能などは数百年の歴史を重ねてこられなかったと思います。
例えば「なぜ朝起きてすぐに顔を洗わなければならないの」「どうして仏壇に手を合わせなければならないの」
などと聞かれて、その意義を語れば語れないこともないのかもしれませんが、それよりも「しなければならないことはしなければならないの!」と一言で言い切ることの方が意味があると思うのです。
親の法事や葬式さえもしないで済まそうとする人がいるようです。
「なぜそんなことをしなければならない」「それにどんな意味がある」
などと理屈を並べて何でも簡単に済まそうとすることで、アイデンティティや人間の深みのようなものはどんどん失われていくでしょう。
宗教や伝統文化は、長い時間をかけて「形」をつくってきたもので、その形そのものに意味があると言っても過言ではありません。
その形をかたくなに守ることに、理由は必要ありません。
理由もなく形を守ろうとする姿とその心に、むしろ人間の深み厚みを感じたりします。
深みのない人間には魅力がありません。
「せんならんことはせんならん」
「さんなねごどはさんなね」
それだけで済ませることを失ってはならないと思います。
同じようなことで、有名な会津の「什の掟(じゅうのおきて)」に語られる言葉に
「ならぬことはならぬものです」があります。
それはもう、問答無用、言語道断、理屈を思うことさえ許さぬという態度でしょう。
それでいいと思います。
繰り返しますが、宗教・伝統文化を失った者には人間の深みがありません。深みのない人間は魅力がないと言い切ってしまいましょう。
現代社会がどういう未来に進もうとしているのか分かりませんが、いわゆる進歩と人間の深みは矛盾しないことです。
AI、ロボットに人間の深みを求めることはもちろん無理でしょう。
だとするならば、それはそれに任せて、人間は人間にしかできない人間らしい深みと魅力を追求していくことはできるはずです。
今年、これから、理屈も理由も度外視した、
「しなければならないことはしなければならない」
ことを求めていきたいと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
1月8日。今日は東根温泉からです。
高校のクラス会で、還暦は過ぎましたが、年度内ということでその一環でしょうね。
高校時代もこのクラスも好きだったので大変楽しい一夜を過ごしました。
「♪クラス仲間はいつまでも~」
さてさて。
当地の方言で言えば「すらんねごどはすらんね」あるいは「するらんねごどはするらんね」。
河北町では「さんなねごどはさんなね」。
関西方面では「せなあかんことはせなあかん」「せんならんことはせんならん」などでしょうか。
標準語で言えば、「しなければならないことはしなければならない」ですね。
それぞれ、その地の言葉で言われることだと思いますが、その心の大事さを思います。
「それはどういう意味なの」「なぜそうしなければならないの」
などと聞いて、納得がいかなければやらない、というような傾向があるように感じられますが、あまりにも薄っぺらな考えだと言わなければなりません。
伝統文化のようなものは、理屈や理由などを超えた儀礼として伝えられてきたものでしょう。
理屈を超えた「形」を大事にしなければ、祭礼や神事、伝統芸能などは数百年の歴史を重ねてこられなかったと思います。
例えば「なぜ朝起きてすぐに顔を洗わなければならないの」「どうして仏壇に手を合わせなければならないの」
などと聞かれて、その意義を語れば語れないこともないのかもしれませんが、それよりも「しなければならないことはしなければならないの!」と一言で言い切ることの方が意味があると思うのです。
親の法事や葬式さえもしないで済まそうとする人がいるようです。
「なぜそんなことをしなければならない」「それにどんな意味がある」
などと理屈を並べて何でも簡単に済まそうとすることで、アイデンティティや人間の深みのようなものはどんどん失われていくでしょう。
宗教や伝統文化は、長い時間をかけて「形」をつくってきたもので、その形そのものに意味があると言っても過言ではありません。
その形をかたくなに守ることに、理由は必要ありません。
理由もなく形を守ろうとする姿とその心に、むしろ人間の深み厚みを感じたりします。
深みのない人間には魅力がありません。
「せんならんことはせんならん」
「さんなねごどはさんなね」
それだけで済ませることを失ってはならないと思います。
同じようなことで、有名な会津の「什の掟(じゅうのおきて)」に語られる言葉に
「ならぬことはならぬものです」があります。
それはもう、問答無用、言語道断、理屈を思うことさえ許さぬという態度でしょう。
それでいいと思います。
繰り返しますが、宗教・伝統文化を失った者には人間の深みがありません。深みのない人間は魅力がないと言い切ってしまいましょう。
現代社会がどういう未来に進もうとしているのか分かりませんが、いわゆる進歩と人間の深みは矛盾しないことです。
AI、ロボットに人間の深みを求めることはもちろん無理でしょう。
だとするならば、それはそれに任せて、人間は人間にしかできない人間らしい深みと魅力を追求していくことはできるはずです。
今年、これから、理屈も理由も度外視した、
「しなければならないことはしなければならない」
ことを求めていきたいと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。