なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ132

2017年11月05日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

11月5日日曜日。

11月に入っています。
今日から2泊3日で、霊場高野山と大和・滋賀の古寺巡りの旅です。
高野山から長谷寺、一休寺、平等院、三井寺、石山寺をまわる予定ですが、紅葉はまだちょっと早いですかね。
ま、どうせバスの中は、酒で紅葉した顔が咲き乱れていることでしょうが。

先に「燃えろ!老人」という話をして、歳をとることは決して悪くないと言いました。もちろんその通りだと思っていますが、歳をとることには若干の寂しさをはらんでいることは否定できません。
秋は、燃えながら寂しい季節です。

最近感じることは、後輩というか、若い人たちが次々と表舞台に登場して活躍していく姿を見て、「頑張って活躍してくれ」と思う余裕の一方、相対的に自分が表舞台から退いていくことを認めざるを得ない寂しさです。
夏の陽に照らされてキラキラと輝くような緑の葉は、紅葉から見れば、まぶしくも羨ましくもあることです。
感じているのは「置いて行かれ感」です。
更に歳を重ねれば「置いて行かれ感」はとてつもない寂寞となるに違いないと思うこの頃です。

小さいころにこんな経験があります。

来春小学校に上がるという年の暮れだったと思います。
父と母と姉と4人で隣駅の向町(当時)まで、私のランドセルを買いに行くという話になりました。
親子で出かけることなどめったにない時期のことですから、とても楽しみにしていたと思います。
保育所に勤めていた母と小学2年の姉、そして保育園児の私が、放課後羽前赤倉駅(当時)から汽車に乗り、父親が立小路駅から乗り込み、家族4人で向町に向かう予定でした。たった1駅のお出かけでした。
その頃、近所の保育園児は、夏分は約2キロの道を歩いて赤倉駅近くの保育所に通っていましたが、冬季間は汽車で通所していました。
その日の朝、「立小路で降りんなよ」と約束していたはずなのに、忘れてしまったのです。
家族で出かけるなんてことが何となく恥ずかしい時代で、母親も同じ汽車に乗っていながら傍についているということをしていませんでした。
私は、約束を忘れて、友達と立小路駅で降りてしまいました。
ドアが閉まってから、ドアの向こうで何かを叫んでいる両親と姉の顔を見て、忘れたことに気づいたのです。
その時の「置いて行かれ感」は今でも鮮明に覚えています。
自分だけ置いて行かれた寂しさとくやしさ、忘れてしまった自分への怒り。
私は、無人駅の白い木の柵にぶら下がり、誰にもぶつけようのない思いをぶつけるように、柵を思いっきり揺さぶりながら、ありったけの声で泣きました。
いつまでもいつまでも泣き続けました。
近所の人が心配して寄ってきて、慰めながら柵から離そうとしても、抵抗して、問いかけにも応えず、いつまでも柵にぶら下がって泣き続けていました。

子どもが親に置いて行かれる寂しさと、老人が若者に置いて行かれる寂しさは、近いのかもしれないと思ったところです。
若いころには常に銀幕の中心にいた往年の女優俳優が、若い役者に主役の座を譲って脇役を演じているようなシーンを観る時、やはり彼彼女らも置いて行かれる寂しさを感じているのではないかと想像します。
しかし、いつまでも主役でいたいというのはある意味、欲ですね。

主役ではなく「主人公」と考えるべきでしょう。
自分の人生は常に、自分が主人公です。
傲慢でもなんでもなく、自分の人生は自分が主人公で演じる以外にありません。
自分以外の人々は全てが脇役です。そして、常に本番です。
ドラマの終盤は、少し寂しさを感じる主人公のシーンです。
寂しさに打ちひしがれる場面があるかもしれません。悲しみに胸かきむしるシーンがあるかもしれません。
真っ暗闇の中、顔も見えず、声も聞こえず、一人取り残される場面がやってくるかもしれません。
そんな時は、自分が問い自分が答え、一人芝居をしっかりと演じましょう。
主人公として。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。