なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ240 成道とジグソーパズル

2019年12月08日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第240回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

12月8日、日曜日。

一部
3日に南米から帰国し、そのまま東京で「シャンティの日」に出席。
シャンティ国際ボランティア会の設立記念日集会です。
さすがに疲れて、4日は何も用事がなかったため一日寝ました。
時差が12時間で、昼夜逆転の体内時計を戻すのは結構しんどいです。
待っていたかのように雪が降り、5日は雪を片付け、午後から東根で講演。終わってもがみ地産地消エネルギー「もっちい」のセミナー懇親会。
6日は雪かきと英会話。
7日法事と河北町環境を考える会忘年会とあっという間の1週間でした。
これで今年の大きな予定は終了という感じです。
今年も結構動きました。
「忙しそうにすることで何かを成していると勘違いしてはならない」というような言葉があったように思いますが、まったくです。バタバタしているだけという自嘲があります。
例えば、12月1日から8日は、宗門では成道会に因んでの接心、坐り詰めの期間とされています。
国内に限らず、南米北米、ヨーロッパ、ブラジルの道場でも接心が行じられます。
それぞれの寺で、誰にも知られず黙って一人坐っている僧もいるのです。
それなのに、講演だ忘年会だと走り回って落ち着かないことを恥じねばなりません。

二部
今日はお釈迦様のお悟りの日、成道会です。
松林寺では梅花講の総会と合わせてお勤めをします。
お釈迦様のお悟りとは何か。
お釈迦様は、「生死の苦悩からの解脱」つまり、生きる苦しみからの解放を求めて出家し、その果てに、苦しみの原因は何かを探り当て、その原因から解き放たれる方法論を発見した、それがお釈迦様の大いなる気づき、悟りだとされます。
現象的には、菩提樹の木陰に坐り7日7晩、8日目の朝の明星を見て「我と大地有情と同時成道す」と言葉を発した、それがお悟りの内容だとされます。
それはどういう意味か。
この世の生きとし生けるものすべてが自分が悟ると同時に悟った、という意味なのでしょう。
それを私なりに説明するのに、ジグソーパズルのたとえがいいかなと思いつきました。
我々は、命のありようを組み合わせ前のジグソーパズルのピースのように見ているのではないか。
一つ一つのピースはそれぞれバラバラに存在し、他の命との関係性が見えない。
出っ張ったりへこんだりして、互いにぶつかり、他の出っ張りを邪魔だと憤ったり、へこみを「足りない」とさげすんだり、他を牽制し、排除し、無関心を装っている。
しかしお釈迦様は、命が全て組み合わさった完成したジグソーパズルとして見えたのでしょう。
出っ張りやへこみは、それぞれの足りないところを補い合っていたのだ。何ひとつ要らないピースはなく、また不足のピースもない、すべての存在が一枚の絵のように過不足なく美しく収まっている。
そのように見えれば、既に命と命の境界すら存在せず、自分の命も絵の一部に過ぎなかった、それがこの世界のありようなのだと見えたのだと思います。「諸法無我」。
全体で一つの命だとすれば、右手と左手がジャンケンするようなもので、争うことの無意味さが見える。他を傷つけることは自らを傷つけることであり、他の幸せが自らの幸せと感じる。
しかも、その絵は静止画ではなく常に動き続ける動画であった。「諸行無常」。
だとするならば、一つが動けばすべてが動く、すべてが変わる、別の絵になる。
お釈迦様一人が悟れば、全体が悟りの絵になる。
それが「同時成道」の意味だろうと、そんな気がしたのです。
そんな話を、ブラジルでさせていただきました。

三部
ブラジルと日本。地球の真裏で坐っても、同じ大地に坐っている。
そのことに不思議な感慨を覚えました。当につながっているのです。
現実問題、他と争わないで生きる社会の実現は簡単なことではないでしょう。
「個を大切にせよ」「自分をしっかり持て」などとも言われます。
しかし、その延長線上に自分ファーストがあるでしょう。
お釈迦様が気づかれた世界のありようは「無我」なのであり、その気づきに近づこうとするのが仏教徒なのだろうと思います。
その気づきに体ごと投げ出そうというのが坐禅です。悟りの姿そのものになろうとするのです。
ブラジルでは今もこの時間坐っていることでしょう。
さて、こちらからも今朝の一チュウ(火ヘンに主)坐りましょう。成道の朝です。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。