三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第268回。6月21日、日曜日。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
17日水曜日、シャンティZOOMミーティング
18日木曜日、娘の退院、もっちい例会
というような1週間でした。
娘が女児と共に退院しました。
予定日ジャストでしたし、ハイパー安産だったので、母子ともに健康で帰ることができました。
毎朝観音様にお参りし安産祈願してきたじいちゃんのおかげもあるんだぞ。富沢馬頭観音、霊験あらたかかもしれませんよ。
2か月以上前から二人で名前は決めていたようで、「はな」にするのだそうですが、たまたま朝ドラの主人公の娘と同じになってしまいました。そこからとったようでと気にしていましたが、気持ちは変わらないようです。
以前も話しましたが、人間は二足歩行になってから難産になりました。
四足歩行の時には骨盤が開いていて、胎児がほぼ成長してから無理なく出産ができました。
その後二足歩行ができるようになると、骨盤が狭まった上、手を使うようになって能が発達し頭が大きくなってきたのです。その結果難産になるようになりました。人間はその矛盾をどのよう乗り越えてきたのでしょうか。
それは、胎児を未熟な状態で出産し生んでから育てるという方法でした。
ですから、他の動物のように、生まれてすぐに立ち上がり歩き出すことができません。なんと自分の足で歩くまでほぼ1年も要するのです。そんな動物は他にいません。
自分でお乳を探すこともできません。着せてもらい、寝かせてもらい、下の世話までしてもらってようやく歩き出すのです。
さらに、成人となるまで20年もかかる。なんと手間のかかる動物でしょうか人間は。
でも、未熟で生まれることが悪いことばかりではないようです。
どんな動物も、子どもの頃は遊ぶのが大好きです。色んな事に興味を持ちチャレンジして遊びながら生きる術を身につけていきます。そして、成体となるとともに遊びには興味を示さなくなります。
人間が未熟で生まれて20年子どもでいるために、いろんなことに興味を失わずチャレンジして、爆発的な成長を遂げてきたのです。
しかし、それは成人までです。いつまでも子どもでは困ります。
成人、つまり大人となったからには、子どもではないのです。いつまでも遊び心を持ち続けるのは結構なことですが、大人には子どもと違った責任がついてくることを自覚しなければなりません。自覚と自律ができることを大人というのでしょう。
おしめを替えてもらって食べさせてもらったことを忘れてはなりません。親の面倒を見る動物は人間だけなのですから、人間の大人として責任ある行動をとならければなりません。
先週、食べることで命を取り込んで生きるという話をしました。
食べるとは口から命を摂取するということですが、今の私の命がここにあるのは、決して口からの取り込みだけではありません。
例えば、鼻から空気を吸い込みます。空気には酸素もあれば他の気体も含まれています。
いい香りや臭い匂いを吸い込むこともあります。匂いがあるということは何らかの成分が含まれているということでしょう。無意識のうちに色々な成分を取り込んできました。その結果がこの私です。かたじけなくも、私の吐いた息さえ他の命に取り込まれます。
さらには目。これまでどれほどの映像をこの目から取り込んできたでしょう。人生の3分の1を寝ているとしても、60歳では40年間分の映像がアーカイブスとして記憶に保管されていることになります。喜んだり、笑ったり、怒ったり、泣いたり、見たことでいろんな感情が湧いてきました。それらの情報によって人生は左右されてもきました。
耳も同じです。人の言葉や話、講演や落語などに学んだことはたくさんありました。音楽に感動の涙を流したことも数限りなくあります。音も取り込んで命を成してきたのです。
肌で受け取る気持ちあります。握手やハグは心の交換です。テレビ電話では伝わらない思い、深い喜びや悲しみは抱き合わなければ分け合うことができません。肌の触れ合いは共感の大事な受容機関です。
赤ん坊の柔らかい肌に触れるだけで喜びが感じられます。私の母親にとってひ孫の肌に触れることは薬です。
眼耳鼻舌身から取り込んだものを、意ー心が受け止め記憶し、行動を催します。それによって命がここに形成されてきました。
私の周囲には命が充満しています。命の中を泳いでいるようなものです。その水に身をまかせれば水と一体となり、水と自分の境界が分からなくなります。元々境界はなかったのです。それを「空」といいます。
境界のないものに無理くり境界線を引こうとすることで苦しみが生まれます。
裸で生まれた赤ん坊が握る手の中には全てが含まれています。
「放てば手に満てり」です。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
17日水曜日、シャンティZOOMミーティング
18日木曜日、娘の退院、もっちい例会
というような1週間でした。
娘が女児と共に退院しました。
予定日ジャストでしたし、ハイパー安産だったので、母子ともに健康で帰ることができました。
毎朝観音様にお参りし安産祈願してきたじいちゃんのおかげもあるんだぞ。富沢馬頭観音、霊験あらたかかもしれませんよ。
2か月以上前から二人で名前は決めていたようで、「はな」にするのだそうですが、たまたま朝ドラの主人公の娘と同じになってしまいました。そこからとったようでと気にしていましたが、気持ちは変わらないようです。
以前も話しましたが、人間は二足歩行になってから難産になりました。
四足歩行の時には骨盤が開いていて、胎児がほぼ成長してから無理なく出産ができました。
その後二足歩行ができるようになると、骨盤が狭まった上、手を使うようになって能が発達し頭が大きくなってきたのです。その結果難産になるようになりました。人間はその矛盾をどのよう乗り越えてきたのでしょうか。
それは、胎児を未熟な状態で出産し生んでから育てるという方法でした。
ですから、他の動物のように、生まれてすぐに立ち上がり歩き出すことができません。なんと自分の足で歩くまでほぼ1年も要するのです。そんな動物は他にいません。
自分でお乳を探すこともできません。着せてもらい、寝かせてもらい、下の世話までしてもらってようやく歩き出すのです。
さらに、成人となるまで20年もかかる。なんと手間のかかる動物でしょうか人間は。
でも、未熟で生まれることが悪いことばかりではないようです。
どんな動物も、子どもの頃は遊ぶのが大好きです。色んな事に興味を持ちチャレンジして遊びながら生きる術を身につけていきます。そして、成体となるとともに遊びには興味を示さなくなります。
人間が未熟で生まれて20年子どもでいるために、いろんなことに興味を失わずチャレンジして、爆発的な成長を遂げてきたのです。
しかし、それは成人までです。いつまでも子どもでは困ります。
成人、つまり大人となったからには、子どもではないのです。いつまでも遊び心を持ち続けるのは結構なことですが、大人には子どもと違った責任がついてくることを自覚しなければなりません。自覚と自律ができることを大人というのでしょう。
おしめを替えてもらって食べさせてもらったことを忘れてはなりません。親の面倒を見る動物は人間だけなのですから、人間の大人として責任ある行動をとならければなりません。
先週、食べることで命を取り込んで生きるという話をしました。
食べるとは口から命を摂取するということですが、今の私の命がここにあるのは、決して口からの取り込みだけではありません。
例えば、鼻から空気を吸い込みます。空気には酸素もあれば他の気体も含まれています。
いい香りや臭い匂いを吸い込むこともあります。匂いがあるということは何らかの成分が含まれているということでしょう。無意識のうちに色々な成分を取り込んできました。その結果がこの私です。かたじけなくも、私の吐いた息さえ他の命に取り込まれます。
さらには目。これまでどれほどの映像をこの目から取り込んできたでしょう。人生の3分の1を寝ているとしても、60歳では40年間分の映像がアーカイブスとして記憶に保管されていることになります。喜んだり、笑ったり、怒ったり、泣いたり、見たことでいろんな感情が湧いてきました。それらの情報によって人生は左右されてもきました。
耳も同じです。人の言葉や話、講演や落語などに学んだことはたくさんありました。音楽に感動の涙を流したことも数限りなくあります。音も取り込んで命を成してきたのです。
肌で受け取る気持ちあります。握手やハグは心の交換です。テレビ電話では伝わらない思い、深い喜びや悲しみは抱き合わなければ分け合うことができません。肌の触れ合いは共感の大事な受容機関です。
赤ん坊の柔らかい肌に触れるだけで喜びが感じられます。私の母親にとってひ孫の肌に触れることは薬です。
眼耳鼻舌身から取り込んだものを、意ー心が受け止め記憶し、行動を催します。それによって命がここに形成されてきました。
私の周囲には命が充満しています。命の中を泳いでいるようなものです。その水に身をまかせれば水と一体となり、水と自分の境界が分からなくなります。元々境界はなかったのです。それを「空」といいます。
境界のないものに無理くり境界線を引こうとすることで苦しみが生まれます。
裸で生まれた赤ん坊が握る手の中には全てが含まれています。
「放てば手に満てり」です。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。