三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第270回。7月5日、日曜日。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
3日金曜日、葬儀
というような1週間でした。
熊本の皆さんには度重なる災害でお声のかけようもありません。
亡くなられた方々に心より哀悼の真を奉げます。
密接を避ける中でどのような支援ができるのか心配です。
昨日はこちらも雨でお休みですが、朝散歩をしているといろんなことを考えます。
たとえば自分を客観的に見ること。
たいがい人は、内から外を見ます。
自分というものがここに確実に存在して、そのことを少しも疑わずに外を見てあれこれと考えます。
逆に言うとそれは、自分の存在を意識していないということでもあります。
ここに在って当たり前を前提としているということです。
自分の存在を外から見てみようとすると、変わります。
砂利道を、三部義道と名付けられた1個の人間が歩いています。
自分の顔は見えませんが、前後する腕が見えます。少し出た腹とその下に交互に右足左足が見えます。
砂利を踏む足音が聞こえます。頬をこすっていく風を感じます。
耳を過ぎる風の音が聞こえます。息をする音が聞こえます。
ここに自分という個体が存在し生きて動いています。それが実感されます。
いつまで自分はいるんだろう。
この手やこの足、この息の音もいつかは消えてしまうのに、今ここにある。
そう思うと、自然に深呼吸をしてしまいます。
そういう目で周りを見ると、急に眼の幕が剥がれたような、すっきりさわやかに見えてきます。
青い空、白い雲、緑の草に黄色い花。残雪の残る峰々。
水の音。鳥の声。線路の音。
同じ景色なのに、さっき見ていたとは違う見え方。
空気に色がついて動いているような、空気に質感を感じるような気がします。
鳥や草と同じようにここに存在して動いている物体。それが自分。
わずかな時間ここに存在し、こちゃこちゃと動いて消えていく存在。
そんな取るに足らないものがここにあり、砂利を踏んで歩いている。
実に不思議です。
それでも鳥は鳴き風は動いている。その中を歩く。
心にかかるあれこれも、外から見ればたわいもないことです。
小さいことにとらわれている人間が一人歩いているだけです。些細なことです、なんということもありません。
歩くのはいいですね。考えるリズムが歩調にあっているのだと思います。
何かの手段ではなく、歩くために歩くのがいいと思います。
そして、少し外からながめてみようとするだけで、深呼吸が生まれ、内で考えていたことがどうでもいいことに思えてきます。
人間は小さい。
内から内を見ると小さいことも大きく見えたりしますが、小さい人間の悩みなど小さいに決まっています。
小さい人間がここに存在していることは大きなことです。実に不思議なことです。
空気や水や太陽の光や砂利や草を集めて丸めてこねて形にしたものが自分という存在のようなものです。
縁が終わればまたバラバラになり元に戻るだけです。質量保存の法則です。過不足ありません。
私が消えれば私にとっての世界が消えます。全ての世界は私と同体です。
all in 1,1 in all.
だからこそ。
今ここに動いている間に、やるべきことをやったらいいのです。どうせ大したことはできません、砂利を1個動かすぐらいでしょう。
それでも、1個動かせば1個分変わるのですから、それは存在した意味があったということでしょう。
『ナイルの一滴』(志賀直哉)のように、大河の中で過去にも未来にも存在しないたった一滴のような私という存在が、それでも私の手足で何かを一つ動かせば一滴分大河を動かすことができる。
人間とはこういうものだとか、それは哲学だとか、それを何と呼ぶとか、何に分類されるだとか、そんなことは学者や専門家が考えることであり、彼らはそれが仕事ですから勝手に分析すればいいことで、自分には関係ありません。
そうではなく、自分は自分の感じたこと、気づいたこと、思ったことを自分なりの言葉で自分なりに納得すればいいだけのことです。
誰に承認してもらう必要もなく、誰に批判される必要もない。だって、気づきは自分のものなのですから。
自分という人間がここに存在し、何だか右往左往していつの間にかいなくなった、ただそれだけのこと。外から見ればかわいいものじゃないですか。時折頑張ったりして。けなげなものです。
自分もそんなものですから、誰かを批判している余裕はありません。
人様のことをとやかく言っている暇がないのです。自分のやるべきことで精いっぱい。
右足と左足を交互に前に出し、手なんか振ったりして、歩けば前から風が吹いてきます。それを肌で感じながら、大地の上でもぞもぞ動いている自分をながめて見てください。きっと何か気づくことがあると思いますよ。
生きるって、実に不思議で楽しいですね。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
3日金曜日、葬儀
というような1週間でした。
熊本の皆さんには度重なる災害でお声のかけようもありません。
亡くなられた方々に心より哀悼の真を奉げます。
密接を避ける中でどのような支援ができるのか心配です。
昨日はこちらも雨でお休みですが、朝散歩をしているといろんなことを考えます。
たとえば自分を客観的に見ること。
たいがい人は、内から外を見ます。
自分というものがここに確実に存在して、そのことを少しも疑わずに外を見てあれこれと考えます。
逆に言うとそれは、自分の存在を意識していないということでもあります。
ここに在って当たり前を前提としているということです。
自分の存在を外から見てみようとすると、変わります。
砂利道を、三部義道と名付けられた1個の人間が歩いています。
自分の顔は見えませんが、前後する腕が見えます。少し出た腹とその下に交互に右足左足が見えます。
砂利を踏む足音が聞こえます。頬をこすっていく風を感じます。
耳を過ぎる風の音が聞こえます。息をする音が聞こえます。
ここに自分という個体が存在し生きて動いています。それが実感されます。
いつまで自分はいるんだろう。
この手やこの足、この息の音もいつかは消えてしまうのに、今ここにある。
そう思うと、自然に深呼吸をしてしまいます。
そういう目で周りを見ると、急に眼の幕が剥がれたような、すっきりさわやかに見えてきます。
青い空、白い雲、緑の草に黄色い花。残雪の残る峰々。
水の音。鳥の声。線路の音。
同じ景色なのに、さっき見ていたとは違う見え方。
空気に色がついて動いているような、空気に質感を感じるような気がします。
鳥や草と同じようにここに存在して動いている物体。それが自分。
わずかな時間ここに存在し、こちゃこちゃと動いて消えていく存在。
そんな取るに足らないものがここにあり、砂利を踏んで歩いている。
実に不思議です。
それでも鳥は鳴き風は動いている。その中を歩く。
心にかかるあれこれも、外から見ればたわいもないことです。
小さいことにとらわれている人間が一人歩いているだけです。些細なことです、なんということもありません。
歩くのはいいですね。考えるリズムが歩調にあっているのだと思います。
何かの手段ではなく、歩くために歩くのがいいと思います。
そして、少し外からながめてみようとするだけで、深呼吸が生まれ、内で考えていたことがどうでもいいことに思えてきます。
人間は小さい。
内から内を見ると小さいことも大きく見えたりしますが、小さい人間の悩みなど小さいに決まっています。
小さい人間がここに存在していることは大きなことです。実に不思議なことです。
空気や水や太陽の光や砂利や草を集めて丸めてこねて形にしたものが自分という存在のようなものです。
縁が終わればまたバラバラになり元に戻るだけです。質量保存の法則です。過不足ありません。
私が消えれば私にとっての世界が消えます。全ての世界は私と同体です。
all in 1,1 in all.
だからこそ。
今ここに動いている間に、やるべきことをやったらいいのです。どうせ大したことはできません、砂利を1個動かすぐらいでしょう。
それでも、1個動かせば1個分変わるのですから、それは存在した意味があったということでしょう。
『ナイルの一滴』(志賀直哉)のように、大河の中で過去にも未来にも存在しないたった一滴のような私という存在が、それでも私の手足で何かを一つ動かせば一滴分大河を動かすことができる。
人間とはこういうものだとか、それは哲学だとか、それを何と呼ぶとか、何に分類されるだとか、そんなことは学者や専門家が考えることであり、彼らはそれが仕事ですから勝手に分析すればいいことで、自分には関係ありません。
そうではなく、自分は自分の感じたこと、気づいたこと、思ったことを自分なりの言葉で自分なりに納得すればいいだけのことです。
誰に承認してもらう必要もなく、誰に批判される必要もない。だって、気づきは自分のものなのですから。
自分という人間がここに存在し、何だか右往左往していつの間にかいなくなった、ただそれだけのこと。外から見ればかわいいものじゃないですか。時折頑張ったりして。けなげなものです。
自分もそんなものですから、誰かを批判している余裕はありません。
人様のことをとやかく言っている暇がないのです。自分のやるべきことで精いっぱい。
右足と左足を交互に前に出し、手なんか振ったりして、歩けば前から風が吹いてきます。それを肌で感じながら、大地の上でもぞもぞ動いている自分をながめて見てください。きっと何か気づくことがあると思いますよ。
生きるって、実に不思議で楽しいですね。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。