三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第312回。5月2日、日曜日。
5月に入りました。
自分の誕生月であるからだけでなく、新芽が芽吹くこの月は一年で一番好きな月です。
新緑の緑は幼児のような純粋さで、見るだけで心が洗われるようです。
マスク習慣で気がついた、自分のゲップのにおい。
せっかく心が洗われたのに変な話ですみません。
口臭は時々確かめたりして分かっていたが、ゲップのにおいまで意識したことはなかった。
ガッカリする匂い。
あとはくしゃみのにおいもね。
普段気がつかないことはあるものです。
考えてみれば、口臭、汗のにおい、加齢臭、自分が発する匂いというものを、何の意識もせずにまき散らしていたんですね。
そのことに、マスク生活で気がつかされました。
母親の介護をして抱き上げたときに母のにおいがします。
風呂の前に自分の服を脱ぐときににおうにおいと同じにおいです。
親子だから体質も似てるだろうから体臭も同じなのだろう。それともこれが加齢臭というものか。
介護は全てのにおいを発散し受け止めなければなりません。
そこでもにおいというのを意識しています。
いわゆる「におい」だけではありません。
言葉や、顔つきや、態度でも、臭いことはあるでしょう。
マスクでにおいには気づきましたが、それ以外の自分の臭さはどうやって気づけばいいでしょうか。
自分を観るのは鏡という方法もありますが、自分が自分を観るときはもはや自然ではないでしょう。そこにはすでに自意識が介在しているはずです。
言葉は見えないし。
誰かが隠し撮りしたビデオでも観ない限り、自分の自然な臭さは観れないように思います。
ただ、自分のおならのにおいは実は嫌いじゃないんですよ。
すみません、ほんとに臭い話で。
布団の中から漏れ上がってくるにおいには、何か懐かしいような、牧歌的な心地よさを感じることは否定できません。
もちろん自分の分身だからであり、人に嗅がせてみるものではありませんが。
「かわいそうだよズボンのおなら、右と左に泣き別れ」つまらないものを思い出してしまいました。
着物から洋服に変わる頃の都々逸ですかね。
確かに着物だと、左右に分かれずに襟元から湧き上がってくるのは確かです。
都々逸といえば好きなのがいくつかあります。
・酒飲み男花ならつぼみ 今日もさけさけ明日もさけ
・色でまどわすすいかでさえも なかにゃくろうの種がある
・恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす
そんなことを言いたいのではありません。
気を取り直して。
混んでいる電車などで立っているとき、誰かに寄りかかっていると、その人が倒れれば一緒に倒れることになります。
自分の足でしっかり踏ん張ることがまず大事ですが、それでも大きな揺れの場合は耐えられなくなります。
つかまるなら人よりも吊革、それよりも手すりです。
人生も同じようなもので、自分の力だけでは立っていられないとき、何につかまるのかが大事です。
しっかりした柱を拠り所にすることで安心が得られるでしょう。それが心の柱、宗教です。
手すりよりも安全なのは座ることです。「帰家穏坐」家に帰ってどっかりと座るような落ち着きと安心を得られる宗教を持ちましょう。
宗教の必要性を普段は感じなくとも、思わぬ病気や災難に遭遇したとき、何かにすがりたいと思うのが人間です。
しかし、普段から心の柱を持たない人がその時になって慌てて求めることで宗教まがいのものを頼りにしてしまい余計に苦しみを抱えてしまうこともないわけではありません。
全てを誰かに委ねてしまうことは危険です。
一端委ねてしまうと、一から十まで頼らないではいられない不安に駆られ、どんどん依存していくことになります。
先だってもそんなニュースがありました。そういう例をたくさん見てきました。
いわゆる、人の弱みにつけ込む宗教のふりをした貪欲な輩です。
まず自分の足でしっかり立つ、誰かではなく自分を頼りにする、その上で揺るぎない心の柱を拠り所とする。
揺るぎない心の柱は、自分の外にあるのではなく自分自身の中に立てるものです。
それは毎日の行いから育っていくもの。家に仏壇があればそこに毎日手を合わす。そういうことです。
暗闇に一筋の光が差し込むと、今まで見えなかったほこりが舞っていることに気づきます。
宗教はほこりを気づかせてくれる光です。
マスクと宗教を一緒にすることはできませんが、マスク生活の中で自分に気づくことはあるはずです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
5月に入りました。
自分の誕生月であるからだけでなく、新芽が芽吹くこの月は一年で一番好きな月です。
新緑の緑は幼児のような純粋さで、見るだけで心が洗われるようです。
マスク習慣で気がついた、自分のゲップのにおい。
せっかく心が洗われたのに変な話ですみません。
口臭は時々確かめたりして分かっていたが、ゲップのにおいまで意識したことはなかった。
ガッカリする匂い。
あとはくしゃみのにおいもね。
普段気がつかないことはあるものです。
考えてみれば、口臭、汗のにおい、加齢臭、自分が発する匂いというものを、何の意識もせずにまき散らしていたんですね。
そのことに、マスク生活で気がつかされました。
母親の介護をして抱き上げたときに母のにおいがします。
風呂の前に自分の服を脱ぐときににおうにおいと同じにおいです。
親子だから体質も似てるだろうから体臭も同じなのだろう。それともこれが加齢臭というものか。
介護は全てのにおいを発散し受け止めなければなりません。
そこでもにおいというのを意識しています。
いわゆる「におい」だけではありません。
言葉や、顔つきや、態度でも、臭いことはあるでしょう。
マスクでにおいには気づきましたが、それ以外の自分の臭さはどうやって気づけばいいでしょうか。
自分を観るのは鏡という方法もありますが、自分が自分を観るときはもはや自然ではないでしょう。そこにはすでに自意識が介在しているはずです。
言葉は見えないし。
誰かが隠し撮りしたビデオでも観ない限り、自分の自然な臭さは観れないように思います。
ただ、自分のおならのにおいは実は嫌いじゃないんですよ。
すみません、ほんとに臭い話で。
布団の中から漏れ上がってくるにおいには、何か懐かしいような、牧歌的な心地よさを感じることは否定できません。
もちろん自分の分身だからであり、人に嗅がせてみるものではありませんが。
「かわいそうだよズボンのおなら、右と左に泣き別れ」つまらないものを思い出してしまいました。
着物から洋服に変わる頃の都々逸ですかね。
確かに着物だと、左右に分かれずに襟元から湧き上がってくるのは確かです。
都々逸といえば好きなのがいくつかあります。
・酒飲み男花ならつぼみ 今日もさけさけ明日もさけ
・色でまどわすすいかでさえも なかにゃくろうの種がある
・恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす
そんなことを言いたいのではありません。
気を取り直して。
混んでいる電車などで立っているとき、誰かに寄りかかっていると、その人が倒れれば一緒に倒れることになります。
自分の足でしっかり踏ん張ることがまず大事ですが、それでも大きな揺れの場合は耐えられなくなります。
つかまるなら人よりも吊革、それよりも手すりです。
人生も同じようなもので、自分の力だけでは立っていられないとき、何につかまるのかが大事です。
しっかりした柱を拠り所にすることで安心が得られるでしょう。それが心の柱、宗教です。
手すりよりも安全なのは座ることです。「帰家穏坐」家に帰ってどっかりと座るような落ち着きと安心を得られる宗教を持ちましょう。
宗教の必要性を普段は感じなくとも、思わぬ病気や災難に遭遇したとき、何かにすがりたいと思うのが人間です。
しかし、普段から心の柱を持たない人がその時になって慌てて求めることで宗教まがいのものを頼りにしてしまい余計に苦しみを抱えてしまうこともないわけではありません。
全てを誰かに委ねてしまうことは危険です。
一端委ねてしまうと、一から十まで頼らないではいられない不安に駆られ、どんどん依存していくことになります。
先だってもそんなニュースがありました。そういう例をたくさん見てきました。
いわゆる、人の弱みにつけ込む宗教のふりをした貪欲な輩です。
まず自分の足でしっかり立つ、誰かではなく自分を頼りにする、その上で揺るぎない心の柱を拠り所とする。
揺るぎない心の柱は、自分の外にあるのではなく自分自身の中に立てるものです。
それは毎日の行いから育っていくもの。家に仏壇があればそこに毎日手を合わす。そういうことです。
暗闇に一筋の光が差し込むと、今まで見えなかったほこりが舞っていることに気づきます。
宗教はほこりを気づかせてくれる光です。
マスクと宗教を一緒にすることはできませんが、マスク生活の中で自分に気づくことはあるはずです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。