なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ322 信じる構図

2021年07月11日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第322回。7月11日、日曜日。

9日は和田みさ子さんの1周忌、命日でした。
河北町環境を考える会の代表、副代表として20年一緒に活動してきた仲間でした。
その存在の大きさを改めて思いました。
ご自宅の仏壇に掌を合わせ読経させていただきました。お経が読めることをありがたいと思います。
今でも毎日、散歩先の観音様で戒名を唱えてお参りしていますよ。そうすることで、私が落ち着いてきているように思います。
本当に楽しい20年だったね。お疲れ様でした。

アメリカのキリスト教徒の55%は「創造論」を信じ「進化論」を排斥している、という2004年の調査があります。以降急激にその割合は減り2015年の調査では40%に減退しているそうですが。それでも4割の人は「進化論」を信じないのですね。
「創造論」とは、神が自身に似せてアダムとイヴを造ったというもの。
「進化論」はダーウィンの説から、人間は猿から分かれて進化したとするもの。
当然、旧約聖書を信じるキリスト教徒は創造論を信じ、進化論が事実として証明されようともそれには耳を貸さないということでしょう。
人間は、信じたものをそう簡単に捨てることはできないものです。それが事実であろうとなかろうと。
「信じる」というのは、その対象が不確かであるということを条件としています。
つまり、証明された事実、真実であるならば信じるもなにもありません。不確かであるからこそ、そこに「信じるか、信じないか」という問いが現れるわけです。それが「信じる」という構図のはずです。
しかし、一旦信じたものに対しては、なかなかそれを覆すことができないことも事実です。
トランプ前大統領を信じる人々は、その言動に対する反証が現れたとしても、それをこそ疑い、陰謀論などを信じたりします。
Qアノンのように、裏社会の陰謀を信じ、表社会が全て噓であるかのように信じてしまうことにもなります。
自分が信じたものに対しては、信じた自分を信じ、信じてきた自分を裏切れないのです。
宗教まがいの人、セミナーなどの指導者、詐欺師、宗教でなくとも信じてしまえば同じです。
「信」は自分自身の中にあり、生きる拠り所でもありますから、それを失うのには大きな喪失感と苦しみを伴います。
なので、そこから抜け出すにはそれ以上の信じるもの、あるいは人の出現を待つ以外にありません。そして時間がかかります。

日本の今にも、「ワクチン陰謀論」のようなものがあります。
「ワクチンにマイクロチップが埋め込まれている」「人類を絶滅させようとしている」等の情報がまことしやかに流され広まっています。
この場合も、事実かそうでないかはあまり意味がありません。
事実は嘘だ、と言ってしまえばどんな事実も不確かなものになってしまうからです。
コロナによる社会的な大きな不安と継続的な不満、さらには孤立感によって、それを解消する憂さ晴らしのような情報にワクワクする状況が生まれてきているのでしょう。
「一部の人間しか知らない」という情報は、それを知っている人間に優越感をもたらします。自分は「選ばれた人間」のように思い込んでしまうのです。
しかし、そういう情報を流して喜んでいる人がいるということも事実だと思われます。
自分の流した情報で人々が右往左往し、パニックになったり暴力的になったり、情報がどんどん変異して補完され、それが事実のようにネットで話題になる様子を見て、ゲラゲラと笑っている愉快犯のような人がいるだろう、と私は思います。それで稼いでいる人もいるとういう情報もあります。
信じる人に「信じるな」とか「それはデマだ」などと諭しても、かえって反発して信じる力に油を注ぐだけです。
「バックファイヤー現象」と言われます。
好きな人と別れさせようとされると余計に燃え上がるようなものです。

お釈迦様は「自分を拠り所にせよ、法を拠り所にせよ」と教えました。
人を拠り所にすることに慣れてしまうと、誰かに頼らないではいられなくなります。
まず自分自身をしっかり立てる、それにはお釈迦様の教えを実践することです。手っ取り早いのは坐禅です。
私は1回目のワクチンを打ちました。
これまでインフルエンザの予防接種を受けたことはなく、できれば打ちたくない方です。
しかし今回は、高い割合でワクチン接種をしなければ感染を止めることができないと判断し打つことにしました。
まあ、多くの人が打てば打たない人も感染する確率が低くなるでしょう。
それによって「信じた通り打たなくてもよかった」と信じるのも勝手です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。