三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第329回。9月5日、日曜日。
9月に入り、パラリンピックも佳境に入ってきました。今日が最終日です。
病院の待合室のテレビで競技を見ていると、知り合いが近づいてきて「こんなの意味ないよね、あんな姿見たいと思わないだろ」と同意を求めてきました。
即座に否定しましたが、彼のような思いでパラリンピックを見ている人は、おそらく少なくない割合でこの国にいるのだろうなと思っていました。
この国では昔から、障害者を隠そうとする社会的風潮がありました。徐々に変わってきているとは思いますが、それでも、長年の観念からなかなか変われない人もいるでしょう。
参加している他の国の選手は、テレビの解説によると、その国のヒーローやスター的存在の選手だったりする人もいるようです。
それだけ、その国ではパラスポーツが盛んだということでしょうし、国の支援も行き届き、またテレビなどでの露出が多くあるということだろうと思います。
日本人が日本の選手をどれだけ知っていたでしょうか。世界ランク2位のボッチャの杉村選手を私も知らなかった一人です。
今回日本でパラリンピックが開催されて、テレビなどでずーっと報道されて、見るつもりのない人もついつい見てしまい、引き込まれ、それが当たり前のことと受け止められる人が増えてくれば、それはオリンピックをやるより意味があったことと思います。
しかしすごいですよね、選手たち。
自分の体の機能を最大限活用する術を知っているだろうことに感動を覚えます。
そろそろ「障害者」という言葉は何とかならないものでしょうか。
「障害」は障害者側にあるのではなく、社会の側にあるという読み替えがあることは承知しています。ではあっても誤解される言葉に変わりはないでしょう。
別の言い方をすることも考えたらいいと思いますが、そもそもその言葉は必要なのかと思います。
「パラリンピック」は並行するという意味の「パラレル」から「もう一つのオリンピック」という造語だそうですが、もう、もう一つではなくオリンピックの種目として開催してもいいのではないだろうか。
最近耳にする「ダイバーシティ」は多様性のことですが、それが当たり前の社会であれば、違いがある人をあえて区別する必要もないわけで、「障害者」という言葉自体なくなる社会が理想的と言えます。
このブログは、その時に強く頭に浮かんだことを吐露しているのですが、常に新しいものが次から次へと浮かんでくるわけでもなく、同じことを何度も繰り返し想念しているので、当然「またその話か」という内容も現れてきます。
という前振りをして、記憶についてです。
これまでも何度か繰り返している話ですが、また最近嫌な記憶が浮かんできて気が滅入っています。
同じ記憶ではなく、いろんな記憶が次々と連鎖反応のように浮かんでくる、そういう時期があるのかもしれません。
過去の記憶にとらわれ、振り回され、苦しめられるのはバカバカしいことです。
江戸時代の臨済宗の盤珪禅師は「記憶がにくい」と言いました。
あなたがあのときこう言った、こんなことをなさったという記憶がにくい
そういう記憶で見るから、良い人悪い人の区別が出てくる
みな、記憶を捨てよ
いやな記憶など何の役にも立ちません。それでも記憶は甦り過去が今を苦しめます。
記憶のために今の時間が奪われ、今に足をつけて生きることができないのは残念です。
忘れようとしても忘れられない記憶をどうすればいいのか。
別のことを思い出したり、もっと刺激のある出来事で紛らわしたりするのも一時しのぎです。
そこで盤珪禅師の言うのが「記憶を捨てよ」です。
記憶を捨てるのは自分の意思によってです。
過去の記憶がふいに甦ってくるのを、私は記憶の釣り堀と名付けています。
過去の嫌な記憶が、深海魚のようにいくつも静かに池の底に眠っています。
それが何かをきっかけに、音楽や映像や匂いや言葉や出来事を餌としてふらふらと釣り上げられてきます。
思い出したくもない嫌な顔がゆらゆらと目の前に現れます。
その度に自己嫌悪に陥ったり、怒りがこみ上げてきたり、暗い気持ちになります。
その時に私は、釣り上げる前にリリースするように頭を振ります。
思い出してしまう前に振り払うのです。
うつむいた頭を強制的に上げて、正面を向きます。そうすると少し深呼吸ができます。
腹式呼吸ができると頭に上った血が下がり頭が軽くなります。
そうなると、さっきまでの記憶が薄れてきます。
また甦ってきたら同じことを繰り返します。
私にとって「記憶を捨てる」方法はそれです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
9月に入り、パラリンピックも佳境に入ってきました。今日が最終日です。
病院の待合室のテレビで競技を見ていると、知り合いが近づいてきて「こんなの意味ないよね、あんな姿見たいと思わないだろ」と同意を求めてきました。
即座に否定しましたが、彼のような思いでパラリンピックを見ている人は、おそらく少なくない割合でこの国にいるのだろうなと思っていました。
この国では昔から、障害者を隠そうとする社会的風潮がありました。徐々に変わってきているとは思いますが、それでも、長年の観念からなかなか変われない人もいるでしょう。
参加している他の国の選手は、テレビの解説によると、その国のヒーローやスター的存在の選手だったりする人もいるようです。
それだけ、その国ではパラスポーツが盛んだということでしょうし、国の支援も行き届き、またテレビなどでの露出が多くあるということだろうと思います。
日本人が日本の選手をどれだけ知っていたでしょうか。世界ランク2位のボッチャの杉村選手を私も知らなかった一人です。
今回日本でパラリンピックが開催されて、テレビなどでずーっと報道されて、見るつもりのない人もついつい見てしまい、引き込まれ、それが当たり前のことと受け止められる人が増えてくれば、それはオリンピックをやるより意味があったことと思います。
しかしすごいですよね、選手たち。
自分の体の機能を最大限活用する術を知っているだろうことに感動を覚えます。
そろそろ「障害者」という言葉は何とかならないものでしょうか。
「障害」は障害者側にあるのではなく、社会の側にあるという読み替えがあることは承知しています。ではあっても誤解される言葉に変わりはないでしょう。
別の言い方をすることも考えたらいいと思いますが、そもそもその言葉は必要なのかと思います。
「パラリンピック」は並行するという意味の「パラレル」から「もう一つのオリンピック」という造語だそうですが、もう、もう一つではなくオリンピックの種目として開催してもいいのではないだろうか。
最近耳にする「ダイバーシティ」は多様性のことですが、それが当たり前の社会であれば、違いがある人をあえて区別する必要もないわけで、「障害者」という言葉自体なくなる社会が理想的と言えます。
このブログは、その時に強く頭に浮かんだことを吐露しているのですが、常に新しいものが次から次へと浮かんでくるわけでもなく、同じことを何度も繰り返し想念しているので、当然「またその話か」という内容も現れてきます。
という前振りをして、記憶についてです。
これまでも何度か繰り返している話ですが、また最近嫌な記憶が浮かんできて気が滅入っています。
同じ記憶ではなく、いろんな記憶が次々と連鎖反応のように浮かんでくる、そういう時期があるのかもしれません。
過去の記憶にとらわれ、振り回され、苦しめられるのはバカバカしいことです。
江戸時代の臨済宗の盤珪禅師は「記憶がにくい」と言いました。
あなたがあのときこう言った、こんなことをなさったという記憶がにくい
そういう記憶で見るから、良い人悪い人の区別が出てくる
みな、記憶を捨てよ
いやな記憶など何の役にも立ちません。それでも記憶は甦り過去が今を苦しめます。
記憶のために今の時間が奪われ、今に足をつけて生きることができないのは残念です。
忘れようとしても忘れられない記憶をどうすればいいのか。
別のことを思い出したり、もっと刺激のある出来事で紛らわしたりするのも一時しのぎです。
そこで盤珪禅師の言うのが「記憶を捨てよ」です。
記憶を捨てるのは自分の意思によってです。
過去の記憶がふいに甦ってくるのを、私は記憶の釣り堀と名付けています。
過去の嫌な記憶が、深海魚のようにいくつも静かに池の底に眠っています。
それが何かをきっかけに、音楽や映像や匂いや言葉や出来事を餌としてふらふらと釣り上げられてきます。
思い出したくもない嫌な顔がゆらゆらと目の前に現れます。
その度に自己嫌悪に陥ったり、怒りがこみ上げてきたり、暗い気持ちになります。
その時に私は、釣り上げる前にリリースするように頭を振ります。
思い出してしまう前に振り払うのです。
うつむいた頭を強制的に上げて、正面を向きます。そうすると少し深呼吸ができます。
腹式呼吸ができると頭に上った血が下がり頭が軽くなります。
そうなると、さっきまでの記憶が薄れてきます。
また甦ってきたら同じことを繰り返します。
私にとって「記憶を捨てる」方法はそれです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。