三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第331回。9月19日、日曜日。
日本語というか、和語がいつ頃どこから来たのかは、日本人がどこから来たかと関係があります。
ユーラシア大陸の東の端の島国ということから、南方から今の台湾、沖縄などの島伝いに来た人々。北方のアムール川、樺太経由で来た人々。中国、朝鮮半島から渡ってきた人々。長い年月の間に、それぞれの時代にそのぞれの経路をたどって、幾度も幾度もやって来たのだろうと言われています。
どこか一方からだけの流入であれば、元の言語がそのまま伝わり使われた可能性が高いわけですが、日本語にはそのようなはっきりとした語源が見られなく、または、大きな力が攻めてきて先住民族を全滅した歴史があれば、攻めた国の言葉になりそうですが、そのような歴史もなく。様々なの由来の人々が隣り合って、あるいは混ざり合って暮らす中で、共通の言語を作り上げていった、それが日本語だという説のようです。
縄文時代の人々が使っていたと思われるアイヌ語系の言葉は、東北から北海道いわゆる当時の蝦夷地に残りましたが、次第に西の方から侵攻した和語に置き換えれれていきました。
しかし当時も、弥生時代に入っても、和語に文字はありませんでした。記録するのは口承、口伝えだけでした。それだけで十分な社会だったのでしょう。
この国で文字が見つかったのは1世紀ごろですが、それはいわば渡来した金印や銅銭などに刻まれたもので和語の文字ではありませんでした。5世紀ごろになって地名や人名を漢字で表記するようになりました。
その後、仏教や道教が入って来て大量の漢字が持ち込まれました。でも当時はそのまま漢語として読んでいたものと思われます。
奈良時代になって万葉集が編まれるとき、和語に漢字の音をあてて記録しました。「万葉仮名」と呼ばれるものです。
その時の漢字の使い方は、漢字そのものの意味を表したものではなく、アルファベットのように音だけ借用したのでした。漢字は漢字、和語は和語だったのです。
平安時代になり、平仮名と片仮名が生み出されます。漢字を早く書くための草書体が簡略化して平仮名が、漢文を読むためのメモとして片仮名が生まれたとされます。
大学の時「菩薩」の文字を略して草冠を二つ書くのを見て驚きました。よく使う文字を符丁のように略すことはそれぞれの業界にあるのかもしれません。
また、漢字が訓読みされるようになります。つまり、もともと和語としてあった言葉を同じ意味の漢字にあてはめて読むという方法です。
和語を文字にするだけなら、仮名があればそれだけで漢字はなくてもよさそうなものですが、やはり漢字に対するあこがれがあったのでしょうか、平仮名、片仮名が生み出された後も漢字は使われました。平仮名は女性の文字、漢字は男性の文字というような使い分けがされていたようです。なので、紀貫之の『土佐日記』は女性の作者という装いで平仮名で書かれたのです。
仮名ができたのになぜ漢字が残ったのか。
「山」を「やま、ヤマ」と書くより、漢字を書いて「やま」と読ませた方が格好いいと思ったのではないでしょうか。
ということで、意味を含んだ漢字を書き、それを和語で読む、というのが訓読みとなったのです。
因みに、漢字の脇に小さい文字で仮名を書くのを「振り仮名」と言いますが、これは漢字に詳しくない人のために訓読みを添えて意味が分かるようにしたものです。さらに因みに、振り仮名を「ルビ」と言いますが、元は印刷用語で、活字の大きさを表す英語の「ルビー」から来たようで、英語に振り仮名を表す「ルビ」の意味はないとのこと。
すごいですよね、和語は和語のままで文字だけ漢字を借りてきて、漢字の意味を残したままそれを和語で読み記録する仮名を発明するとは。
そして、片仮名を使用することで外国から輸入した言葉までそのまま和語として記録することができるとは。
たとえば今の中国語では、「〇〇center」を「〇〇中心」と表記するのを見かけます。「center」という言葉を音で表記するのではなくその意味の漢字で表記するのです。
一方日本では、ポルトガル語由来のあの食べ物を「天婦羅」と表記した歴史もありますが、「center」は「センター」と表記してその意味をとらえることができます。
まあもっとも、そのように英語を自分たちの言葉のように使うことによってかえって英語の発音ができないということかもしれませんが。
なにはともあれ、文字を持たなかった和語が、漢字を借用して仮名を作り自分たちの文字形態を作り上げた。さらに外国語をどんどん取り入れていく。それが「日本語」なのです。
今回は、聞き書きのような内容で終始してしまいましたが、ふと頭に浮かんだ日本語についての疑問から調べてみたかった事柄です。
そうそう、今日は酒米の稲刈りです。うまい酒になりますように。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
日本語というか、和語がいつ頃どこから来たのかは、日本人がどこから来たかと関係があります。
ユーラシア大陸の東の端の島国ということから、南方から今の台湾、沖縄などの島伝いに来た人々。北方のアムール川、樺太経由で来た人々。中国、朝鮮半島から渡ってきた人々。長い年月の間に、それぞれの時代にそのぞれの経路をたどって、幾度も幾度もやって来たのだろうと言われています。
どこか一方からだけの流入であれば、元の言語がそのまま伝わり使われた可能性が高いわけですが、日本語にはそのようなはっきりとした語源が見られなく、または、大きな力が攻めてきて先住民族を全滅した歴史があれば、攻めた国の言葉になりそうですが、そのような歴史もなく。様々なの由来の人々が隣り合って、あるいは混ざり合って暮らす中で、共通の言語を作り上げていった、それが日本語だという説のようです。
縄文時代の人々が使っていたと思われるアイヌ語系の言葉は、東北から北海道いわゆる当時の蝦夷地に残りましたが、次第に西の方から侵攻した和語に置き換えれれていきました。
しかし当時も、弥生時代に入っても、和語に文字はありませんでした。記録するのは口承、口伝えだけでした。それだけで十分な社会だったのでしょう。
この国で文字が見つかったのは1世紀ごろですが、それはいわば渡来した金印や銅銭などに刻まれたもので和語の文字ではありませんでした。5世紀ごろになって地名や人名を漢字で表記するようになりました。
その後、仏教や道教が入って来て大量の漢字が持ち込まれました。でも当時はそのまま漢語として読んでいたものと思われます。
奈良時代になって万葉集が編まれるとき、和語に漢字の音をあてて記録しました。「万葉仮名」と呼ばれるものです。
その時の漢字の使い方は、漢字そのものの意味を表したものではなく、アルファベットのように音だけ借用したのでした。漢字は漢字、和語は和語だったのです。
平安時代になり、平仮名と片仮名が生み出されます。漢字を早く書くための草書体が簡略化して平仮名が、漢文を読むためのメモとして片仮名が生まれたとされます。
大学の時「菩薩」の文字を略して草冠を二つ書くのを見て驚きました。よく使う文字を符丁のように略すことはそれぞれの業界にあるのかもしれません。
また、漢字が訓読みされるようになります。つまり、もともと和語としてあった言葉を同じ意味の漢字にあてはめて読むという方法です。
和語を文字にするだけなら、仮名があればそれだけで漢字はなくてもよさそうなものですが、やはり漢字に対するあこがれがあったのでしょうか、平仮名、片仮名が生み出された後も漢字は使われました。平仮名は女性の文字、漢字は男性の文字というような使い分けがされていたようです。なので、紀貫之の『土佐日記』は女性の作者という装いで平仮名で書かれたのです。
仮名ができたのになぜ漢字が残ったのか。
「山」を「やま、ヤマ」と書くより、漢字を書いて「やま」と読ませた方が格好いいと思ったのではないでしょうか。
ということで、意味を含んだ漢字を書き、それを和語で読む、というのが訓読みとなったのです。
因みに、漢字の脇に小さい文字で仮名を書くのを「振り仮名」と言いますが、これは漢字に詳しくない人のために訓読みを添えて意味が分かるようにしたものです。さらに因みに、振り仮名を「ルビ」と言いますが、元は印刷用語で、活字の大きさを表す英語の「ルビー」から来たようで、英語に振り仮名を表す「ルビ」の意味はないとのこと。
すごいですよね、和語は和語のままで文字だけ漢字を借りてきて、漢字の意味を残したままそれを和語で読み記録する仮名を発明するとは。
そして、片仮名を使用することで外国から輸入した言葉までそのまま和語として記録することができるとは。
たとえば今の中国語では、「〇〇center」を「〇〇中心」と表記するのを見かけます。「center」という言葉を音で表記するのではなくその意味の漢字で表記するのです。
一方日本では、ポルトガル語由来のあの食べ物を「天婦羅」と表記した歴史もありますが、「center」は「センター」と表記してその意味をとらえることができます。
まあもっとも、そのように英語を自分たちの言葉のように使うことによってかえって英語の発音ができないということかもしれませんが。
なにはともあれ、文字を持たなかった和語が、漢字を借用して仮名を作り自分たちの文字形態を作り上げた。さらに外国語をどんどん取り入れていく。それが「日本語」なのです。
今回は、聞き書きのような内容で終始してしまいましたが、ふと頭に浮かんだ日本語についての疑問から調べてみたかった事柄です。
そうそう、今日は酒米の稲刈りです。うまい酒になりますように。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。