なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ330 正しさは道具じゃない

2021年09月12日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第330回。9月12日、日曜日。

酒米出羽燦燦がいい感じなってきました。来週19日に刈り取り予定です。自分で収穫した米で造った酒の味は格別でしょうね。稲刈り、いかがですか?

正しさという武器で人を責める人がいます。
自分の信じる正しさは普遍的であり誰にとっても正しいことなので、それさえ言っておけば誰も反論できないだろうというような思い込みによってです。
しかし、普遍的な正しさと言えば、「生まれたものは必ず死ぬ」ぐらいなもので、それ以外の正しさは時代と状況により、また見る方向によっても違ってきます。
まず、自分は正しいという思い込みが問題です。
一人の人のある一部分が正しいとしても、そのことのみでその人全体が正しいとは言えないのに、その人が説く正しさを全人格として信じてしまうことで盲目的に正しさの考え方も追随してしまうことは危険なことです。
人も宗教も、信じてしまうとそれ以外の考えは全て間違いであるかのように思い込みたくなります。間違いは正すべきだという正義感、あるいは無邪気なやさしさで他を批判したりします。時には攻撃的にもなります。
正しければ人を攻撃してもいいということにはなりません。
たとえば、アメリカ軍がアフガニスタンに侵攻した理由の一つは同時多発テロへの報復、そして、民主主義という正義をアフガンに持ち込むことを大義としていました。
確かに、女性の自由の迫害という事実はありました。民主主義社会ではなかったことは確かです。だからと言って武器をもって攻めてもいい理由にはならないでしょう。
アフガニスタンにはその地域なりの長い歴史による文化と、ロヤジルガなどの意思決定制度があります。たとえそこに問題があろうとも、他国にとやかく言われることはプライドを傷つけられることで、ましてや正義の下に武器をもって攻めてくることは受け入れられることではなかったでしょう。
もちろん、人権問題は見過ごすことはできないので、注視し内発的な変革を望みたいと思います。

いや、言いたいのはそんな大きな話ではなく、身近な一人ひとりの正しさです。
正しさが絶対的なものではないという時点で、武器にはなりません。
大事なのは、それぞれが正しいと信じるものを受け入れる寛容さです。そして、自分の正しさが相手にとっても正しいとは限らないということを知ることです。

中島みゆきは歌います。
 争う人は正しさを説く  正しさゆえの争いを説く
 その正しさは気分がいいか
 正しさの勝利が気分いいんじゃないのか
 ・・・
 正しさは 道具じゃない
 (『Nobody is Right』)

このところ特に、出かけることもないので娑婆服(業界では法服以外の衣類を娑婆(しゃば)服と呼びます)を着ることもなく毎日作務衣で過ごしています。
子どもが小さい頃、お坊さんが似合わない遊び場に連れて行ったりするときは、娑婆服を着ていました。
団体の業務で正式な場に臨むときはスーツなどに身を包んだこともありました。
ここ数年はそれもタンスの中でぶら下がったままです。
近所に食事や買い物に出かけたり、病院に行ったりするときには作務衣から着替えたりしていましたが、それも面倒になりました。今はどこに行くにも作務衣ばかりです。
お坊さんが娑婆服を着たいと思うのは、お坊さんと見られたくない時です。帽子などもかぶったりして。
それは、お坊さんと一般人とに自分自身を使い分けるということです。お坊さんも人間だという訳です。
確かに、お坊さんの用事ではなく出かけることもあります。でも、その時もお坊さんでなくなるわけではないでしょう。
お坊さんは、法服を着てお寺の務めをしている時だけがお坊さんなのではなく、お坊さんとして生きるという生き方の姿ですから、出家した後はお坊さんでないときはないはずなのです。
それでも、TPOというか、病院の見舞いは行きにくいとか、飲み屋はまずいのではないかとか、作務衣もはばかれるケースを考えることはありました。
年齢ですかね、それもどうでもよくなりました。
お坊さんと見られるかどうかの大きな違いは、服だけでなく頭もあります。
娑婆服にスキンヘッドもそう珍しくなくなってきましたが、お坊さんには匂いがあります。お香の匂いではなく、やはり雰囲気に職業臭が漂います。また、そうでなければいけないでしょう。もっとも、ヤクザ臭の同業者がいないわけでもありませんが。
なので、頭をきれいにしているお坊さんは、娑婆服を着てもそうだろうなと見破られることは多いです。お坊さんと見られたくないという意図で娑婆服を着ても意味がないということです。
それならばむしろ、堂々ときれいに頭を剃って作務衣で歩いた方が、格好がいいし、布教にもなり、自分を律することにもなると思うのです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。