三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第365回。5月15日、日曜日。
生きる目的は何なのか。
生きることに目的など必要ないのか。
生きることに目的のようなものを求めるのは人間だけでしょう。
それも、一定の期間、限られた時期。
人間として生まれても、ある時期までは、「なぜ生きる」とか「生きる目的は何か」などとは考えなく「ただ生きて」います。
また、高齢になり、脳が委縮していく病気などになれば、家族の顔さえ忘れてしまい、「生きる意味」などは考えずにすむ「ただ生きて」いる状態になるでしょう。
意味を考えないで生きることが「無意味な生」であったり、「無駄な生」であることではないはずです。
無為無作為に「ただ生きる」、それが命の姿だと思います。
動物、植物、昆虫、爬虫類、微生物、ウィルスまで含めて、自ら生の目的を考える命は人間以外ないですね。
草原のライオンが、重ねた腕に顎を乗せて草原を眺めています。
物思いに耽っているように見えますが、おそらく「オレはなぜ生まれたのか、何のために生きているのか」を考えている訳ではないと思われます。
なぜ人間だけが、生きる意味を考え、それを必要とするのでしょうか。
そんなこと考えたこともないだろう、とおぼしき人もいます。
そういう人は、生きることに苦痛を感じることもないのではないかと思われます。
もちろん、生きていくためにお金が欲しい、お金がないことは苦しい、という苦痛はあるかもしれませんが、それは「意味」を考える苦痛とは異質なものでしょう。
「生きていくだけで精一杯で余計なことを考えてる余裕はなかった」と苦しい生活を物語ることがあります。
「余計なこと」の中には、「意味」や「目的」なども含まれるかもしれません。
だとすれば、「何のために生きる」などを考えるのは生活に余裕があるからと言えるのでしょうか。
意味や目的を考えようが考えまいが、生きていることに変わりはありません。
ただ、生きてさえいければ、意味などどうでもいいのだ、ただぼんやりと、その日その日息をしていればそれでいい、というのであれば、なぜ人は、生きるため以外に努力をしたり、あるいは厳しい修行をしたりするのでしょうか。
ただ生きているだけでは満足できず、その意味を考えてしまう人間。
そして、その意味を考えるがゆえに悩み、生きることを楽しめない人間。
意味に責められ、意味に振り回され、意味に苦しむ人間。
時折、意味から離れ解放されたいと思う。
人生が旅ならば、目的のない旅に出ることで束縛から解放され、癒され、楽になることができる。
そんな時間が必要なのかもしれません。
禅寺の修行は、目的も意味も捨てることを強いるプログラムです。
もっと言えば、考えることすら捨てることを強要されます。
「お前たちはまだ、『はい』と『いいえ』しか言えないんだ」などと言われました。
頭で考えている間は、「なぜこんなことをしなければならないのだ、こんなことに何の意味があるのだ」と考え苦しみます。
古参修行僧から見れば、自分も体験しているだけに、その心の動きが手に取るように分かり、素直に「はい」と言えるようになるまで「考え」を打ち砕かれます。
修行は、意味や目的を打ち砕くための装置、場所と時間だったのです。
そして、それが打ち砕かれたとき、素直に淀みなく「はい」という言葉が出てきて、束縛から解放されるのです。
その究極が坐禅です。
坐禅は、無作為、無目的の行為です。
坐禅は、お釈迦様の悟りの姿を自らの体で現すことです。
頭で考えること、理解することではありません。
体に意識を預けると言ってもいいです。
目的や意味を考えて苦しむ人間の頭の働きを休止する。
無目的の旅のようなものです。
自然の流れの風景、出会いをそのまま受け止め、そこに留まらず、流れにまかせて去っていく。
ゆっくり走る列車の車窓から眺める景色に例えてもいいかもしれません。
手前の木々は急流のように流れ去っていきますが、遠くの山はほとんど動きません。
流れているのは自分だと知ることでしょう。
流れを止めようとすればそこに無理がかかります。素直に「はい」という言葉が出てこないのはそのためです。
人間は意味や目的を考えてしまう動物です。
その能力で、理論を構築しこの世になかったものを創り出してもきたでしょう。
また経済という概念を生み出し、自然界とは離れた価値を生み出してきたのでしょう。
ただ、同時に、その能力によって悩みや心の苦しみも抱えてきてしまったのですね。
今さら人間以外の動物にはなれないので、その能力を抱えたまま心の解放を図っていく以外にありません。
草原のライオンのように、流れる雲のような心で物思いに耽れればいいですね。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
生きる目的は何なのか。
生きることに目的など必要ないのか。
生きることに目的のようなものを求めるのは人間だけでしょう。
それも、一定の期間、限られた時期。
人間として生まれても、ある時期までは、「なぜ生きる」とか「生きる目的は何か」などとは考えなく「ただ生きて」います。
また、高齢になり、脳が委縮していく病気などになれば、家族の顔さえ忘れてしまい、「生きる意味」などは考えずにすむ「ただ生きて」いる状態になるでしょう。
意味を考えないで生きることが「無意味な生」であったり、「無駄な生」であることではないはずです。
無為無作為に「ただ生きる」、それが命の姿だと思います。
動物、植物、昆虫、爬虫類、微生物、ウィルスまで含めて、自ら生の目的を考える命は人間以外ないですね。
草原のライオンが、重ねた腕に顎を乗せて草原を眺めています。
物思いに耽っているように見えますが、おそらく「オレはなぜ生まれたのか、何のために生きているのか」を考えている訳ではないと思われます。
なぜ人間だけが、生きる意味を考え、それを必要とするのでしょうか。
そんなこと考えたこともないだろう、とおぼしき人もいます。
そういう人は、生きることに苦痛を感じることもないのではないかと思われます。
もちろん、生きていくためにお金が欲しい、お金がないことは苦しい、という苦痛はあるかもしれませんが、それは「意味」を考える苦痛とは異質なものでしょう。
「生きていくだけで精一杯で余計なことを考えてる余裕はなかった」と苦しい生活を物語ることがあります。
「余計なこと」の中には、「意味」や「目的」なども含まれるかもしれません。
だとすれば、「何のために生きる」などを考えるのは生活に余裕があるからと言えるのでしょうか。
意味や目的を考えようが考えまいが、生きていることに変わりはありません。
ただ、生きてさえいければ、意味などどうでもいいのだ、ただぼんやりと、その日その日息をしていればそれでいい、というのであれば、なぜ人は、生きるため以外に努力をしたり、あるいは厳しい修行をしたりするのでしょうか。
ただ生きているだけでは満足できず、その意味を考えてしまう人間。
そして、その意味を考えるがゆえに悩み、生きることを楽しめない人間。
意味に責められ、意味に振り回され、意味に苦しむ人間。
時折、意味から離れ解放されたいと思う。
人生が旅ならば、目的のない旅に出ることで束縛から解放され、癒され、楽になることができる。
そんな時間が必要なのかもしれません。
禅寺の修行は、目的も意味も捨てることを強いるプログラムです。
もっと言えば、考えることすら捨てることを強要されます。
「お前たちはまだ、『はい』と『いいえ』しか言えないんだ」などと言われました。
頭で考えている間は、「なぜこんなことをしなければならないのだ、こんなことに何の意味があるのだ」と考え苦しみます。
古参修行僧から見れば、自分も体験しているだけに、その心の動きが手に取るように分かり、素直に「はい」と言えるようになるまで「考え」を打ち砕かれます。
修行は、意味や目的を打ち砕くための装置、場所と時間だったのです。
そして、それが打ち砕かれたとき、素直に淀みなく「はい」という言葉が出てきて、束縛から解放されるのです。
その究極が坐禅です。
坐禅は、無作為、無目的の行為です。
坐禅は、お釈迦様の悟りの姿を自らの体で現すことです。
頭で考えること、理解することではありません。
体に意識を預けると言ってもいいです。
目的や意味を考えて苦しむ人間の頭の働きを休止する。
無目的の旅のようなものです。
自然の流れの風景、出会いをそのまま受け止め、そこに留まらず、流れにまかせて去っていく。
ゆっくり走る列車の車窓から眺める景色に例えてもいいかもしれません。
手前の木々は急流のように流れ去っていきますが、遠くの山はほとんど動きません。
流れているのは自分だと知ることでしょう。
流れを止めようとすればそこに無理がかかります。素直に「はい」という言葉が出てこないのはそのためです。
人間は意味や目的を考えてしまう動物です。
その能力で、理論を構築しこの世になかったものを創り出してもきたでしょう。
また経済という概念を生み出し、自然界とは離れた価値を生み出してきたのでしょう。
ただ、同時に、その能力によって悩みや心の苦しみも抱えてきてしまったのですね。
今さら人間以外の動物にはなれないので、その能力を抱えたまま心の解放を図っていく以外にありません。
草原のライオンのように、流れる雲のような心で物思いに耽れればいいですね。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。