なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ424 聞思修の慧

2023年07月09日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
写真は、暑い日が続きますので、一服の涼をと思いお届けしました。

三ちゃんのサンデーサンライズ。第424回。令和5年7月9日、日曜日。

各地で大雨の被害が出ているようです。
被災された方にはお見舞いを申し上げます。

6月の中頃からメダカが産卵をはじめ、次々と孵化しました。「針子」と呼ばれる稚メダカが元気に餌を食べています。
7月に入り池の鯉も産卵をはじめ、慌てて産卵床の杉の葉を投入して卵をとり、発泡の箱で孵化しました。
孵化したばかりの鯉は針子ではなく「毛仔(けご)」と呼ぶようです。
メダカは丈夫なので針子からどんどん育ち、増えていきますが、鯉は孵化しても死んでしまうものも多く、育て方も悪かったのでしょうが、これまで成魚まで育ったことはありません。
今年は毛仔まではたくさん生まれたので、何とか育ててみたいと思いますが果たしてどうでしょうか。
メダカも鯉も、やはり小さな命の誕生は可愛くて、ピクピクと泳ぐ姿はいつまで見ていても飽きません。
これだけの数が全て育ったら、それはそれでどうしようかと思いますが、カミさんは「甘露煮にするのか」と残酷なことを考えているようです。
まあ、困るぐらいには育たないと思いますが。
6月もバタバタしていましたが、7月も色々用事が入っています。
頭を使う業務が多く、智慧を絞り出しています。
メダカなどながめて癒されているところです。

「智慧」と「慈悲」は仏教の両輪と言われる重要な言葉、教えです。
慈悲は、仏性と同じく我々に生まれながらに内包されているものです。
自らの慈悲に気づかない人もいますが、他人の痛みを感じて自らも痛みを覚え、「何とかできないか」と思うような事柄に出逢ったとき、「こんな心が自分にもあったんだ」と「気づいて」いくものでしょう。
一方智慧は、「育てて」いくものだと言えます。
智慧の育て方を「三慧」と言い、聞、思、修の三種だと言われます。
「聞」は、文字通り聞くこと。真実を知るためには人の話を聞いたり、本や情報を読んで学ぶ必要があります。
「思」は、その知識を元に自分でしっかり考えること。
「修」は、聞いて考えて行動に移すこと。仏の教えに従って修行することです。

智慧と慈悲の両方が必要だという例を一つあげれば、次のようなことがありました。
各地で災害が起こったとき、多くの人が「自分に何かできないか」と思ってくれるに違いないと思います。
その初期に一番手っ取り早い支援として行動に移されることに「炊き出し」があります。
東日本大震災の際も、多くの方々が被災地に温かい食べ物を届けてくれました。
私の息子も永平寺の修行を終えて、すぐに気仙沼に入り、避難所の調整にあたりました。
炊き出しの調整もその一つでした。
南から被災地へ向かう炊き出しの情報が入ります。
「何日の昼に300食の炊き出しを行いたい。どこに行けばいいですか」という情報です。
その情報を受けて300食の避難所を探します。数量のマッチングです。
「メニューは何ですか?」
「豚汁です」
そこで調整役は頭を悩ませます。
豚汁は、初期の炊き出しとして最も多いメニューです。温かく、おいしく、栄養価もあり、最初の食べ物として最適だと言えます。
ところが、どれほどおいしくても、毎日毎食べ続ければ誰でも飽き飽きしてきます。
しかし、何とかどこかに受け入れてもらいたい。
そんな時調整役は、その数に合う避難所を探しだし、責任者に頭を下げて「今回だけ豚汁を受けてもらえませんか、次は別のものを持ってきますので」と頼み込むのだと言っていました。
炊き出し支援をしたい、というのは苦しんでいる人を助けたいという慈悲心からの思いです。
ただ、現地の状況をよくよく聞かないと、かえってその行為が迷惑になってしまうこともあるということです。
そこに必要となってくるのが智慧なのです。
よく知り、よく考えて行動することが大事です。
私は、慈悲は車のエンジン、智慧はそのハンドルのようなものだと思っています。
慈悲がなければ車は動きません。行動の推進力になるのが慈悲です。
しかし、適切にコントロールできなければ暴走してしまうことにもなるでしょう。
物事を進めるには慈悲と智慧が欠かせないという実例です。

智慧を育てる「修」としては、坐禅が一番だと思います。
心を静め、頭を軽くすることで、正しく見、正しく聞き、正しく判断することができます。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。