三ちゃんのサンデーサンライズ。第501回。令和7年1月12日、日曜日。
大切な人が亡くなりました。
八木澤克昌、シャンティ国際ボランティア会理事、66歳。
改歳を祝ったばかりの7日、訃報が飛び込んできました。
急遽タイに飛び、10日11日、葬儀並びに火葬に参列しました。
出会いは年が明けたので45年前、1980年8月でした。
サケオ・カンボジア難民キャンプの近くバンキャンに借りていたボランティアの宿舎。
22歳の八木澤青年でした。
以来人生の3分の2を同じ方向を向いて歩いてきました。
同志、仲間、心友、真友、畏友、善友、悪友、同胞、師匠、兄弟・・・・・・
どれも当てはまる相手でした。
例えば中島みゆきの『二隻の舟』のような。
以下は彼が還暦を迎えた時のお祝い会に寄せた文章。
ミパドの男
「八木沢克昌23歳ボランティア」と、カンボジア難民キャンプの活動記録映画『祖国なき人々』に紹介された青年は、還暦を過ぎて尚社会の底辺に暮らす人々と共に生きている。
この男を動かすのは、熱い思いと、酒。口にするのは「ミパド」。ミッション・パッション・ドリームの略だが、この男こういうキャッチフレーズがすこぶる好きだ。酒を飲んでは永遠に握手を繰り返し熱い思いで体当たりする。時には熱苦しいほどだ。
絶滅危惧種のようなこんな男と同じ時代に生きてこられたことを生涯の喜びと感じる。
この男を評するエピソードや功績は枚挙にいとまはないが、その一つとして「アジア子ども文化祭」を挙げたい。
タイのバンコクスラムで始まったこの事業。普段は底辺に埋もれて浮かぶことのない子どもたちにスポットライトを当て、ステージに上げて主役に仕立てていく。
私が初めて立ち会ったのはラオス開催の時だった。
タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、ミャンマーからやってきたそれぞれ困難な事情を抱える子どもたち。国籍をシャッフルしてグループ分けされ、言葉も通じないまま音楽を共通言語にして数日間を過ごす。
ステージではそれぞれの国を代表した伝統舞踊を嬉々として披露する。その晴れやかさ。どれほど誇らしく自信につながったことだろう。
フェアウェルパーティでは、「また会おうね」と言い合うのだが、自分の環境を考えればそれがほとんど不可能だと分かっている。だから、涙を流し、抱き合い、いつまでも別れを惜しむ子どもたち。
八木沢は言った「虹は別々の色が集まり一つになるから美しいのだ」と。
自らの根差した文化を大切にするからこそ、他の存在も大切なのだと気づいていく。平和の礎はそこにあるのではないか。それを肌で感じさせ、気づかせてくれるのが「アジア子ども文化祭」だった。
こんな発想ができ、実行ができるのはこの男しかいない。ミパドの男。
草創期から現在まで、自分の嗅覚で発見し、自分の肌で感じ、自分の体で動く。まさに、SVAシャンティの体現者。八木沢克昌の足跡がそのままシャンティの足跡となるだろう。
ただ心配なのは、男の体調だ。酒を飲まない八木沢の魅力は半減するが、ほどほどということもそろそろ身に着けて長持ちするように願いたい。まだまだ杯を交わしたいからだ。
三部義道(八木沢の還暦を祝う会パンフレット用)
45年間、アジアの子どもたちに寄り添い続け、スラムの中に住み、「共に生き、共に学んで」きた生涯。
その姿は日本の道徳の教科書に載り、外務大臣賞も受賞しています。
大学の時は山岳部で、ヒマラヤの山も登ってきた体力に自信のある男でした。
ところが、2021年に脳の痙攣のような症状で倒れ数日間意識のない状態が続き、家族には「覚悟しておいてください」と告げられました。
八木澤ももうダメかと半分あきらめかけましたが、驚異的な回復で全く病気を忘れてしまうような状態まで戻っていました。
もしかして、この男不死身なのではないかと思わせるほどでした。
しかし、それは外見で、体の内部では静かに病気が続いていたのだと思われます。
7日朝、バンコクの自宅で倒れたままの状態で発見されました。亡くなったのはその前の晩かもしれません。
昨日の葬儀にはタイの要人、日本大使、アジア各国、日本からもたくさんの人々が参列し別れを惜しみました。
シャンティファミリーの中心にあなたはいました。
彼の関係の広さ、つき合いの深さ、人を感動させる熱意を、改めて肌で感じました。
年齢とともに別れが増えるのは当然のことであり、仕方のないことですが、それにしても大きな存在、心の支えを失ってしまいました。
しばらくは放心状態が続くと思われます。
ヤギちゃん、ありがとうございました。楽しい想い出をたくさん作りましたね。これからもあなたと一緒に生きていきます。さようなら。
今週の一言
「別れは突然にやって来る、だから今日」
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。