Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「老いの深み」

2024年07月05日 21時49分34秒 | 読書

   

 買い物をする前に涼んでいた喫茶店で短時間の読書。「老いの深み」(黒井千次、中公新書)の最後の4編、「鮮度の異なる〈老後の自由〉」、「行事か事件か、転倒問題」、「歳上女性からのいたわり」「西日に感じた宇宙」を読み終えた。

六十代以降の「自由」は、前から自由業を営んできた人の自由と、新しくそれを手に入れた人の自由とでは質が異なる。・・・・定年を迎える人の手に入れる自由は新鮮であるのに対し、長く自由業生活を送った人の自由はもうかなり草臥れているような気がする。・・・・長く自由業を営んで来た人の自由はもう十分に古びており、次第に無為と似たものになってきている。老齢化という変化に助けられ、自由の中にあった危険な棘は失われつつある。老人こそ、自由に気をつけるべきなのかもしれない。」〈鮮度の異なる〈老後の自由〉〉

 この視点は新鮮である。学生時代の友人とつき合う時、やはりサラリーマンであった私などの意識ばかりでつき合おうとすると、会話が成り立たなかったり、意志の疎通に齟齬をきたすことがあった。その原因のひとつがこういうことだったのかもしれない。この指摘も大切な指摘として覚えておきたい。


「西行」から 3

2024年07月04日 10時42分35秒 | 読書

   

 昨日西行の歌で今回惹かれたものを引用した。追加で3首。西行の述懐の歌に惹かれる時もあるが、今回は自然詠に惹かれている。

★横雲の風に別るゝしのゝめに 山飛び越ゆる初雁の声    (新古今集)
 この1首が定家の有名な「春の夜の夢の浮橋とだえして 峯に分かるる横雲の空」に影響を与えた、という指摘がかかれている。

★白雲をつばさにかけて行く雁の 門田の面の友したふなる  (新古今集)
 この1首は記憶に残っていなかった。

★古畑の岨の立つ木にゐる鳩の 友呼ぶ声のすごき夕暮    (新古今集)
 荒れた畑の傍に立つ多分異様な姿の木、そこで鳩が不気味な声で「友」を呼ぶ。荒涼とした寂しい風景と声に「友」が配され、人との関係を求める西行の孤独感が醸し出される。自然詠でありながら、述懐・感傷と一体。このあたりが西行の魅力とされるのであろう。

 


「西行」から 2

2024年07月03日 11時40分27秒 | 読書

   

 「西行 歌と旅と人生」を読んでいる。「5.西行と旅」、「6.山里の西行」、「7.自然へのまなざし」まで読み進めた。

 今回は「桜」や「旅」の歌よりも、山里での生活で詠んだ歌や自然詠にどういうわけかとても惹かれている。著作者の引用の仕方にもよるのだろうか。「旅」の歌が少し感傷に過ぎるように思えた。

★きりぎりす予寒に秋のなるまゝに 弱るか声の遠ざかりゆく  (新古今集)
★岩間とぢし氷も今朝は解けそめて 苔の下水道もとむらむ   (新古今集)
★ほととぎす深き峰より出にけり 外山のすそに声の落ちくる  (新古今集)

 どういうわけか新古今集に取られている歌が多くなっている。とくに「弱るか声の遠ざかりゆく」という歌の、秋の深まりとキリギリス(コオロギ)の生命の弱まりを「遠ざかりゆく」という物理的距離に転換していることが新鮮に感じられた。
 一方で山里での生活や、自然詠でも

★山里にうき世いとはむ友もがな くやしく過ぎし昔かたらむ  (新古今集)
★心から心に物を思わせて 身を苦しむる我が身なりけり    (山家集)

などの西行らしい感傷の勝った歌も多数あるのだが、今回はあまり惹かれなかった。


「老いの深み」から 5

2024年07月02日 11時30分07秒 | 読書

   

 黒井千次の「老いの深み」を読んでいて、不思議でもあり、「そうだな」と同意する視点でもある箇所に出会った。「遠景への関心を忘れず」という題がついている。

 欅の巨樹に夕刻に群れる小鳥の大群の描写と、電線に止まる鳥の並び方の決まりを類推する描写があり、次のように結んでいる。
(鳥の並び方は)いわば遠景の中での出来事であり、近景とは切り離された外界の事情で動くものである・・。離れた光景は見るのが面倒で近づきたくないから、その眼を自分のすぐ足もとの衣類や紙屑籠などに向けてしまうのではあるまいか。この面倒臭さ、対象との距離の遠近の感覚が、遠景を遠ざけ、近景ばかりでことをすませようとしているのではないか――。近くの自分が見えなくなるのは困るけれど、しかし遠くの自分が見えなくなるのもまた困る。遠景の中の自分はどこに居て何をしているのか――。せめてその関心くらいはどこかにそっと育てていたい。

 引用の後半部分が何とも不思議な視点である。「外界の事情で動く」「遠景の中の自分」とは何を指しているのか、ふとわからなくなりながら、惹かれた箇所である。遠景・近景の距離を、自己と社会との距離感に置き換えてみてもいいだろう。「遠景」に社会との葛藤にもがく自己を投影すれば良い。
 年齢とともに人の関心は、内向きになりがちである。他からの強い働きかけがないと、社会に対して視線は向けられなくなる。
 私は「そっと育てていく」のではなく、「人との交わりを通して、身の動く限り、近景に目配りしつつ、遠景の中でもおおいに泳ぎ続けたい」と思っている。もがき続ければ、身が動かなくなっても、見続けることはできる。

 私は欲張りすぎるのであろうか。


読了「図書7月号」

2024年07月01日 21時53分09秒 | 読書

 今月号で目を通したのは以下の8編。いつものとおり覚書。

・【表紙】天神来遊図           加藤静允

・あとがきの告白             小山内園子

・近代の宿業を生きた作家         安藤 宏
太宰治は不思議な作家で、世の中が平和なときは自殺未遂を繰り返し、戦時中は明るく健康的な作風を貫いている。戦時体制は太宰の自己卑下のスタイルとある種、奇妙な親和性があり、・・いかに「自分」がダメであるかを強調しながらしたたかに時代に対応していく姿が浮かび上がってくる。・・・戦中を戦後に接ぎ木しようとし、それが無残に破綻し、絶望を深めていく様相を読み取りたい。

・「鵲の渡せる橋」と日本の七夕伝説    冨谷 至
日本における七夕説話であるが、私には腑に落ちないことがある。七夕を題とする歌を多く載せる「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」などには、橋渡しの役を担う鵲は登場せず、彦星が舟で、もしくは浅瀬を徒歩で銀河を渡るのである。・・・理由は日本列島への七夕の伝説伝来が二つの流れを持っていたことに起因するのではないか。一つの水流が朝鮮半島であり、「懐風藻」の詩である。(もう一つの水流は遣唐使による)多くの漢籍が日本に将来される。
かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける(大伴家持)。この歌は「新古今和歌集」「冬歌」の部に入っており、配列に疑問があるとされる。低下を初めとした「新古今和歌集」の編者たちには、もはや七夕と鵲橋は結びつかなかった。

・扇の話、裏おもて(上)          福井芳宏

・ツェッペリン飛行船の戦争と平和     清水 亮
ローカルな地域の歴史のかけらを集めて掘り下げる実践は、単に日本史というナショナルな歴史の一部を保管する作業ではない。グローバルな世界史を、生活する地域から捉え直す可能性をもつ。・・地域に息づく歴史のかけらを拾い集める街歩きは、歴史を〈自分ごと〉として経験し想像する方法のひとつだ。

・ショックドクトリンとアメリカ例外主義  西谷 修

・台湾にいったい何があるというんですか?  清水チャートリー
数えきれない「物語」が取り繕うこの世界に疲弊した人がいるのであれば、「言葉を紡がない音の世界」で少しの間、自分の心と向きあい、ごまかしなく生きてみるのも良いのではないだろうか。

・佐藤正午さんの孤高           田中裕樹

・じゃじゃ馬の結婚            前沢浩子
近代の資本主義はすべて商品化し、人々を欲望に従って自由に売買をする契約者へと変貌させていく。その価値観のン課は市民階級から始まる。「じゃじゃ馬ならし」のような笑劇にさえも近代市民社会の胎動は感じられるのだ。

 


本日から「西行」

2024年06月30日 21時02分42秒 | 読書

   

 午後になって雨が降らないうちに、ということで横浜駅まで歩いた。湿度が高く、半分ほどの所でポツリポツリと降り始めた。弱い雨で、濡れても問題ない程度であったので、そのまま横浜駅まで4000歩ほど歩き、オフィス街にあるいつもの喫茶店へ。帰宅時も小雨が止まなかった。今夜のウォーキングは断念せざるを得ないようだ。

 喫茶店で読み始めたのは、「西行 歌と旅と人生」(寺澤行忠、新潮選書)。西行の入門書で、読みやすいので早めに読み終わりそう。

 昔から西行の歌に接する機会は多かった。たまにはその世界に浸りたくなるものである。
 懐かしい歌が並んでいる。

 「はじめに」、「1.生い立ち」から「4.西行と桜」まで読んだ。

★はるかなる岩のはざまに独りゐて 人目思はでもの思はばや  新古今和歌集
★花に染む心のいかで残りけむ 捨て果ててきと思ふ我が身に  千載和歌集
★あくがるゝ心はさても山桜 散りなむ後や身に変えるべき

 ただし「日本の文化は、かくして優しさと同時に勁さや厳しさを併せ持つことになった。そして優美を記帳とする美意識とこの厳しい「道」の思想がいわば表裏をなして、日本文化の根幹が形成されていく」(3.西行と蹴鞠)

 こういうところは保留しておきたい。


本日から「予告された殺人の記録」

2024年06月26日 22時18分01秒 | 読書

 本日から読み始めた本は、「予告された殺人の記録」(G・ガルシア=マルケス、野谷文昭訳、新潮文庫)。まったくの衝動買いであるが、1982年のノーベル賞作家であることや、大江健三郎との交流などの知識はある。
 久しぶりに小説を読みたくなった。数ページを読んだだけなので、感想はまだ先にしたい。

 明日も10時には出かけて、午後も会議。明日は一日中曇りで最高気温は本日よりは少し低いようだ。

 


強大は下に拠り、柔弱は上に拠る(老子)

2024年06月25日 14時28分28秒 | 読書

 老子の第76章。「人は生きているときは柔らかくしなやかであるが、死んだときは堅く強張っている。草や木など一切のものは生きている時は柔らかくてみずみずしいが、死んだときは枯れて堅くなる。・・・武器は堅ければ相手に勝てず、・・・強くて大きなものは下位になり、柔らかくてしなやかなものは上位になる。」(蜂屋邦夫訳、岩波文庫)とある。

 保立道久訳では「人が生まれたときは柔らかく弱々しいが、死ねば筋肉と靭帯が硬直する。草木が生えるときは柔らかでなよなよしているが、死ぬと枯れてかさかさになる。・・・兵が強くとも勝ち続けることはできない。・・・強大なものは地下にいき、柔弱なものが地上に生き残る」(ちくま新書)と訳されている。

 ここに加島祥造の「タオ 老子」(ちくま文庫)がある。最近購入してみた。この76章では次のように「意訳」している。
 「剣もただ固く鍛えたものは、折れやすい。/木も堅くつっ立つものは、風で折れる。/元来、強くこわばったものは/下にいて、/しなやかで柔らかで/弱くて繊細なものこそ/上の位置にいて/花を咲かせるべきなのだ。」としている。

 人は他者の意見を聞くときに、自分の意見というフィルターを通して聞く。特に意見の違いが大きいと思われる人の意見に対するときはそのフィルターは、ほとんど閉ざされてしまい、堅い壁のようになる。
 人の意見を聞くときは、特に異なる意見や文句をいう人に対するときこそ、まずは意見を十分に聞くゆとりを自分に持たせたい。常にそれが出来たとは言えないが、心掛けてはきた。
 相手の意見は、同意する箇所からまず整理する。その次に異なる部分を整理する。さらにその意見の基本となっている部分を想定してみる。
 反論するときは、同意意見から述べ、相手の意見の基本を確認する。自分の意見と異なる部分は最後に述べる。こうすれば対話となって議論ができる。

 自分で練り上げていない意見は、他人の思想や意見の借り物でしかない。それは剛直で柔軟性がない。一見強大で強く見えても、応用力はない。そして権力者にすり寄る政治家や組織に寄りかかる政治家に見られる論理性のない人は、一方的で強引にものごとを進めて異論を認めない。そういう人に、多くの人は沈黙してしまう。

 一方で私たちの仲間内にも人の意見を聞くことが不得手な人はいる。ちょっとでも違う意見を聞くと、端から否定することから対話を始めようとする。人の意見を最後まで聞こうとしない。意見を抑圧されてきたものほど、その傾向があるのかもしれない。
 少数意見として抑圧されてきたものほど、したたかで柔軟な思考力を身につけて欲しいのだが。

 しなやかで、したたかで、繊細で、柔軟な思想こそが生き残る。そういう思考を私たちは身につけたいものである。老子の言葉では、世の中の上・下という概念だが、時間軸でものごとを判断したい。


読了「春画のからくり」

2024年06月23日 21時39分48秒 | 読書

 

   

 「春画のからくり」(田中優子、ちくま文庫)を読み終えた。

文学や歌舞伎や浄瑠璃を見ていれば・・これらの消費者に多くの女性が含まれていることから考えても、男の幻想だけで物語を作り出すわけにはいかないはずなのだ。江戸時代における女の好色や性の心理的規制の緩やかさを、男の幻想のように考えるとしたら、そこには近代管理社会への忠誠心が見え隠れするだけだろう。」(「春画における覗き」)

遠眼鏡による覗きという画中の見る者と見られる者とを隔てる距離の設定であった。こうした距離が設定されなければ、覗きとは両者の馴れ合いによる共犯関係にしかならない。そこでのエチケットとは互いに素知らぬ振りをすることであり、そうでなくては覗きそのものが一つの茶番劇と化してしまう。画中からの「見返す目」すなわち絵を見る者への語りかけによって、覗きという行為の心理的葛藤を白日の下に曝した歌麿は、その趣向に一大変革をもたらした。」(同)

春画は布に満たされている。布の王国である。布と襞は、見る者の高まりを邪魔するどころか、さらに刺激している節がある。この傾向は18世紀には入ってから次第に強くなり、春信において甚だしくなり、歌麿において頂点を迎える。そのあとは次第に布地を描きこむことが単なる様式となり、仕方なく描いているように見え。布地はエロティシズムの一部ではなくなり、邪魔者になり始めるのである。これは明らかに時代の特徴であり、エロティシズムに時代的変遷があるといわざるを得ないだろう。それは歴史的であるとともに普遍的でもある。春画に限らず浮世絵一般のなかにも、西欧の絵画や彫刻の中にも見出される。エロティシズムに限らない。布とその文様や色彩の組み合わせは男女ともにその人のあり様を表現する一部として、明治初期に至るまで、日本の物語文学の中では頻繁に語られてきた。」(「エロティックな布」)

 私にとっては参考になった論考であった。「春画」を江戸時代全体の文化状況を見極めながら、そこに位置付ける手法は魅力的であった。江戸と「文明開化以降の明治」との間のつながりと継続の側面も参考になる。
 


「沖縄全戦没者追悼式」の「平和の詩」

2024年06月23日 17時06分09秒 | 読書

 平和祈念公園で「沖縄全戦没者追悼式」が営まれ、県立宮古高校3年の仲間友佑(ゆうすけ)さん(18)が「これから」と題した「平和の詩」を朗読する。全文はこちら。

    平和の詩「これから」
              沖縄県立宮古高校3年 仲間友佑

短い命を知ってか知らずか
蟬(せみ)が懸命に鳴いている
冬を知らない叫びの中で
僕はまた天を仰いだ
あの日から七十九年の月日が
流れたという
今年十八になった僕の
祖父母も戦後生まれだ
それだけの時が
流れたというのに
あの日
短い命を知るはずもなく
少年少女たちは
誰かが始めた争いで
大きな未来とともに散って逝った
大切な人は突然
誰かが始めた争いで
夏の初めにいなくなった
泣く我が子を殺すしかなかった
一家で死ぬしかなかった
誰かが始めた争いで
常緑の島は色を失(な)くした
誰のための誰の戦争なのだろう
会いたい、帰りたい
話したい、笑いたい
そういくら繰り返そうと
誰かが始めた争いが
そのすべてを奪い去る
心に落ちた
暗い暗い闇はあの戦争の副作用だ
微(かす)かな光さえも届かぬような
絶望すらもないような
怒りも嘆きも失くしてしまいそうな
深い深い奥底で
懸命に生きてくれた人々が
今日を創った
今日を繋(つな)ぎ留めた
両親の命も
僕の命も
友の命も
大切な君の命も
すべて
心に落ちた
あの戦争の副作用は
人々の口を固く閉ざした
まるで
戦争が悪いことだと
言ってはいけないのだと
口止めするように
思い出したくもないほどの
あの惨劇がそうさせた
僕は再び天を仰いだ
抜けるような青空を
飛行機が横切る
僕にとってあれは
恐れおののくものではない
僕らは雨のように打ちつける
爆弾の怖さも
戦争の「せ」の字も知らない
けれど、常緑の平和を知っている
あの日も
海は青く
同じように太陽が照りつけていた
そういう普遍の中にただ
平和が欠けることの怖さを
僕たちは知っている
人は過ちを繰り返すから
時は無情にも流れていくから
今日まで人々は
恒久の平和を祈り続けた
小さな島で起きた
あまりに大きすぎる悲しみを
手を繋ぐように
受け継いできた
それでも世界はまだ繰り返してる
七十九年の祈りでさえも
まだ足りないというのなら
それでも変わらないというのなら
もっともっとこれからも
僕らが祈りを繋ぎ続けよう
限りない平和のために
僕ら自身のために
紡ぐ平和が
いつか世界のためになる
そう信じて
今年もこの六月二十三日を
平和のために生きている
その素晴らしさを嚙(か)みしめながら


沖縄「慰霊の日」

2024年06月23日 13時17分48秒 | 読書

 本日、6月23日は沖縄戦が終結して79年となる「慰霊の日」

 沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園で県と県議会主催の「沖縄全戦没者追悼式」が営まれ、玉城デニー知事が「平和宣言」を読み上げた。平和宣言の全文は次の通り。

 あの忌まわしい悲惨な戦争が、かつて、この美しい島で繰り広げられました。
 鉄の暴風といわれるおびただしい数の砲弾による空襲や艦砲射撃により、私たちの島は、戦火に焼き尽くされ、多くの尊い命が失われました。
 私たちは、あの悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さ、平和の大切さという教訓を学びました。

 あの戦争から79年の月日が経(た)った今日、私たちの祖先(うやふぁーふじ)は、今の沖縄を、そして世界を、どのように見つめているのでしょうか。
 広大な米軍基地の存在、米軍人等による事件・事故、米軍基地から派生する環境問題など過重な基地負担が、今なお、この沖縄では続いています。
 加えて、いわゆる、安保3文書により、自衛隊の急激な配備拡張が進められており、悲惨な沖縄戦の記憶と相まって、私たち沖縄県民は、強い不安を抱いています。
 今の沖縄の現状は、無念の思いを残して犠牲になられた御霊(みたま)を慰めることになっているのでしょうか。
 かつて、沖縄の本土復帰にあたり、日本政府は、「沖縄を平和の島とし、わが国とアジア大陸、東南アジア、さらにひろく太平洋圏諸国との経済的、文化的交流の新たな舞台とすることこそ、この地に尊い生命を捧(ささ)げられた多くの方々の霊を慰める道であり、沖縄の祖国復帰を祝うわれわれ国民の誓いでなければならない。」との声明を出しました。
 この声明を想(おも)い起こし、沖縄県民が願う、平和の島の実現のため、在沖米軍基地の整理・縮小、普天間飛行場の一日も早い危険性の除去、辺野古新基地建設の断念など、基地問題の早期解決を図るべきです。
 世界に目を向けると、今なお、争いは絶えることなく、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエル・パレスチナ情勢など、戦争という過ちを繰り返し続けています。
 東アジアでは、米中対立や中国の軍事力の強化、台湾や朝鮮半島を巡る問題など、自国の軍事増強により、抑止力の強化がかえって地域の緊張を高めている一方、経済面での緊密な結びつきが併存するなど、安全保障環境が複雑化しています。
 世界の平和と安定に向けて、各国・各地域に求められているのは、それぞれの価値観の違いを認め合い、多様性を受け入れる包摂性と寛容性に基づく平和的外交・対話などのプロセスを通した問題解決です。
 私たち沖縄県民は、万国津梁(しんりょう)の精神で、近隣諸国との交流により、信頼関係を築いてきた歴史があり、また、「命(ぬち)どぅ宝」「ユイマール」「チムグクル」など多様な価値観の受容、相互扶助といった精神文化を継承しています。
 「新たな建議書」「平和の礎(いしじ)」「沖縄平和賞」は、人類普遍の価値である平和を願う「沖縄のこころ」の表れであり、世界の恒久平和は、沖縄県民の切なる願いです。
 私は、沖縄が国際平和創造拠点となり、万国津梁の精神をもって、「沖縄のこころ」を国内外に発信し、世界の平和構築や相互発展、国際的課題の解決に向け地域外交を展開していくことが、地域の緊張緩和と信頼醸成に貢献し、世界の恒久平和に繋(つな)がっていくものと確信しています。
 国連ピース・メッセンジャーであり、自然保護や人道問題へ取り組む世界的な環境活動家でもあるジェーン・グドールさんは、「私たちの行動は、毎日必ず何かしらの影響を世界に与えています。どんな行動を取るかが“違い”を生み、どのような“違い”を生み出したいのかを決めなければなりません。」と語っています。
 一人ひとりの思いや行動は、たとえ微力でも、確実に世の中を変えていく力があると、勇気を与えてくれる言葉です。
 今こそ、私たち一人ひとりに求められるのは、不条理な現状を諦めるのではなく、微力でも声をあげ、立ち上がる勇気、そして、行動することです。
 先人から受け継いだ精神文化をもって、他者を尊敬し、思いやり溢(あふ)れる社会を造り上げ、核兵器の廃絶、戦争の放棄、恒久平和の確立に向けて、共に絶え間ない努力を続けてまいりましょう。

 わったー元祖(ぐゎんす)んかい誇(ちむふくい)ないる沖縄(うちなー)あらんとーないびらん。
 わったーや近隣(けーとぅない)ぬ諸国(くにぐに)とぅ交流(とぅぃふぃれー)っしちゃるたみ、信頼関係(どぅしびれー)ぬ仲までぃ積(ち)み上ぎてぃちゃる歴史(でー)ぬあいびーん。
 わったーや平和(ゆがふーゆー)大切(てーしち)にする精神(たまし)ぬあいびーん。
 わったーや価値観(ありましくりまし)ぬ違(ち)げーぬあてぃん互(たげー)に容認合(ちむあーし)ぬないる精神文化(ちむだまし)ぬ継承(ふぃちちじ)さっとーいびーん。
 沖縄県(わったーしま)が世界(しけー)ぬ恒久平和(ながゆがふーゆー)ぬ架橋(はしわたし)ないるぐとぅ一緒(まじゆん)っし目標(みやてぃ)んかい向(ん)かてぃいちゃびらな。

 本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全ての御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、戦争に繋がる一切の行為を否定し、人間の尊厳を重く見る「人間の安全保障」を含めた、より高次の平和を願い続け、この島が世界の恒久平和に貢献する国際平和創造拠点となるよう、全身全霊で取り組んでいくことをここに宣言します。

 私たちの祖先に対して誇れる沖縄でありたい。
 私たちは近隣諸国との交流により信頼関係を築いてきた歴史があります。
 私たちは平和を大切にする心があります。
 私たちは価値観の違いを認め合う精神文化を継承しています。
 沖縄県が世界の恒久平和の架け橋となるよう、ともに目指してまいりましょう。


次の読書は・・・

2024年06月22日 22時48分41秒 | 読書

 夕食後には「春画のからくり」(田中優子)を読み終えた。引用なり感想は明日以降に。

 美術関係の本をここ何年も続けて読んできたが、しばらくここから離れてみたくなった。歴史や宗教や社会学的な分野の本も美術関係からの視点で選択して読んできた。
 美術については引き続き作品そのものの鑑賞を中心に移行していきたい。しばらくは他の分野に重点をおいて読んでみたい。他の分野が何にするかはまだ決めていない。

 今手もとにあるのは、「西行 歌と旅と人生」(寺澤行忠、新潮選書)、「予告された殺人の記録」(G・ガルシア=マルケス、新潮文庫)、「石垣りんエッセイ集 朝のあかり」(石垣りん、中公文庫)、「鬼の研究」(馬場あき子、ちくま文庫)、読みかけの「永瀬清子詩集」(岩波文庫)、「楽天の日々」(古井由吉、草思社文庫)、そして棚にあるのが目に付いた「平家物語」(上・中・下、新潮日本古典集成)。とばらばらで方向性も一致していないものばかり。これ以外にも選択肢はある。
 今のところ「西行」と「鬼の研究」、「予告された殺人の記録」に惹かれている。石牟礼道子の「苦海浄土」全体を読みたいのだが、果たして手に入るだろうか。

 悩みつつ、これより入浴準備。


「老いの深み」 4 老いと無為

2024年06月22日 19時42分34秒 | 読書

 昼間は、昨日とは打って変わってとても過ごしやすい良い天気となった。湿度も低く、気温も50%台。
 夕方になり湿度は上がってきた。また雲も多くなり、現在は全天厚い雲に覆われてしまった。

 お昼まで団地のボランティア活動で汗を十分に流した。昼食休憩を長めにとって、15時近くにいつものとおり、横浜駅近くのオフィス街にあるいつもの喫茶店でコーヒー&読書タイム。室内は満席だったので、テラス席。本日の陽気ならばこれで十分。少し風が強かったが、29℃ほどの暑さを和らげてくれた。

   

 「老いの深み」(黒井千次)と「春画のからくり」(田中優子)をかわるがわる。

 「老いの深み」に収録してある「仕事机の前で無為の時間」は身につまされた。

何か仕事をするために、机の前に坐っていた。そこで果たすべき仕事を持たぬ人間は、そこに坐ってはいけてないのかもしれない。・・「仕事机」の反対語は「安楽椅子」であろうか、などと考えたりする。

 現役の時は、家に帰ると妻や娘には申し訳ないと思いつつも、ひたすら自分の机の前に座り込んで組合の資料の作成などに追われていた。時々は仕事の持ち帰り残業もしていた。机の前に座れば仕事であった。読書は電車のなかか、居酒屋へ一人で息抜きに入るときにむさぼるように読書時間を確保した。
 現在、パソコンを設置したデスクの前に座ると、隔月の退職者会ニュースの原稿づくりやら毎月の会議の資料づくりなどの作業はあるが、さいわい事務局長ではないので、それほどの事務量ではない。読書は喫茶店で毎日30分から1時間。夜ベッドの中で1時間程度は確保している。
 空いた時間にパソコンの前に座って、無為の時間を過ごしている自分に驚くことがある。ただ座ってボーッとしている時間があることに驚くのである。パソコンの前に座る姿勢では読書ができない。
 「老いの深み」の筆者は、「〈無為〉という言葉があと頭の後ろに浮かぶ。それに呼び出されたかのように〈老い〉という言葉が頭の裏に浮かぶ」と表現している。〈ムイ〉と〈オイ〉の共鳴に筆者はそれは「〈オイ〉を生み出す」「興覚めする」という。
 私もその〈ムイ〉が耐えられなくなると、リビングルームの椅子に座りテレビを見るともなく眺めているが、それでも落ち着かなくなり、ベッドで読書を始める。そういう時に限って、読書に身が入らず、いつの間にか寝ている。

 あれも読みたい、これも読みたいという焦る気持ちばかりがつのり、もがいているものの、居眠りという空回りをしてしまう自分に呆れ、「興覚め」してばかりである。
 辛辣な私の友人はきっと、それが〈オイ〉そのものであると冷たく言い放つと思われる。

 


雨後の空

2024年06月21日 20時55分54秒 | 読書

   

 先ほどのブログの中で、「梅雨らしい雨」と表現したが、梅雨の雨にしては少し強い雨だったような気がする。もう少し弱い雨が長く降るイメージだった。思ったよりも強い雨であったので、少々戸惑った。一時は洪水注意報も出ていた。
 強風注意報も出され、気温は19℃に満たなかった。半袖では二の腕が寒いくらいであった。
 15時前に出かけたときはすでに弱い雨に変わり、帰宅しようとした17時には雨が上がっていた。

 横浜駅近くの家電量販店や書店で若干の買い物をしたのち、地下街の喫茶店で30分ほどの読書タイム。「春画のからくり」(田中優子)の「春画における覗き」をほぼ読み終えた。喫茶店内はかなりの混雑。バスも行き・帰りとも雨のためか気温が低いためか、混雑していた。

 強風注意報も解除となり、雲はすっかり雲が上がっていた。特に東西の空は青空が美しかった。

 


「老いの深み」から 3

2024年06月19日 22時53分51秒 | 読書

   

 「老いの深み」(黒井千次)のⅢ「危ない近道の誘惑」の12編を読み終えた。今回目を通したいづれも自分としては、なるほど、と素直に理解できた。

テレビのコマーシャル画面における階段を昇る人の軽快な動きの美しさ、好ましさは否定しようがないけれど、しかし一方、それが実現しているのは、老いの果実が身の内に稔ろうとする動きを拒み、遠ざけようとした結果ではないのか、と考えてみたい誘惑を覚えずにいられない。・・・マケオシミついでにいえばその場合に一つだけはっきりしているのは、〈老い〉の中らに〈若さ〉は拒まれていることだろう。」(「若さを失って得られる〈老いの果実〉」から)

 「健康食品」や「機能性表示食品」なるもののコマーシャルの効能の嘘やトンでも論理については、近いうちにこのブログにも記載したいと思っていたが、こういう視点もなかなか面白い。
 私はこの文章の程度に「負け惜しみ」をいう筆の運びが気に入っている。コマーシャルのあの過剰な〈若さ〉の強調にはいつもうんざりしている。〈若さ〉ばかりが価値ではないという視点でものごとも考えてみるのもいいのではないか。私はそのほうが、それこそコマーシャルとして成功するようにすら思っている。

〈若さ〉や体力を失ったかわりに、〈老い〉の細道を辿ったからこそ見えてくるものがありそうな気がする。背筋を伸ばして階段を昇ることは難しくとも、足もとの地面にしゃがみこんであたりを観察する機会が生まれるかもしれぬ。・・〈若さ〉の速度や視覚が見落としているものの姿が、まざまざと目に映るということがあっても、不思議はないだろう。貯えられた〈知〉が〈老い〉を豊かなものに変えていく可能性は十分にある。」(同)

 こういう視点の変容を私はいつも気にかけていたい。そんなことが少しでも匂わせるものをこのブログにも記載したいものである。