午前中に日吉で所用をすませ、横浜駅に戻る途中の駅で下車、静かな喫茶店で昨日に続いて「鬼の研究」(馬場あき子)の2章の第4節「牛頭鬼と羅刹女と地獄卒」を読んだ。
昨日引用を忘れた箇所も再読。
「水尾比呂志によればこの頃(930年代、醍醐・朱雀朝)の仏像彫刻に見られる邪鬼(四天王などに踏まれる)の姿勢はしだいに高姿勢になりはじめるという。反抗の姿勢をもちはじめた邪鬼について考えざるを得ないという着眼点は、説得力のあるものである。「踏鬼の形をとっていても、その性質には実は四天王を無視する不遜な性が育ってきた。不遜な性は反抗の姿勢となって表立ってくる。藤原時代にさらに強まったと思われる」という味方は、貴族に奉仕の形で作品を生んできた仏師たちの抵抗の姿勢を、踏鬼の反逆的な姿勢のなかに見られたものである。権力の鏡台が強調されればされるだけ、踏鬼もまたおとなしく踏まれてはいず、幻影の鬼はいよいよ具体性をもって来ざるを得ないというのが、この時代の風潮の中にあった」(2章第2節「鬼の幻影」)
実は、私は2017年に東京国立博物館にて開催された「興福寺中金堂再建記念 運慶展」での感想で不思議に思ったことを記載した。
この「鬼の研究」では930年代、藤原氏の覇権が確立される時期のこととして記述をしてる。運慶は平安末期から鎌倉時代にかけて、時代は下り、武士の時代へと移る時期のことである。一概に比較はできないが、混乱と新しい時代のうねりの時代という共通はある。
康慶-運慶-運慶の後継者たちという一門の仏師の四天王像を見る機会があった。そこで踏まれている邪鬼の表情の違いが印象に残った。理由がわからず、そのまま宿題のように頭の片隅にこだわりがかたまっている。
① ② ③ ④ ⑤
まずは運慶の父の、①康慶による四天王像では、この増長天像(1186年作、興福寺)のように、踏まれる邪鬼は、踏まれてまったく抵抗できずにいる。増長天に降伏し、支配されている。それでも姿形は保っている。服従を強いられているが、「死」に至るほどではない。
②運慶の四天王像の毘沙門天像(1189年、常楽寺)では踏まれた頭・顔が大きく変形し、踏みつぶされようとしている。「死」はすぐそこに見える。
③運慶とその側近の仏師の手になると言われる多聞天像(東福寺)になると、踏鬼はもはや形をなさないほどに潰され、かろうじて息はしているようだが「死に体」に等しい。
ところが、もう少し時代が下り1200年代の、④運慶一門による多聞天像(海住山寺)になると、踏鬼はひょうきんな顔に様変わりする。表情はゆとり溢れる笑っている顔になる。同じ⑤増長天像では邪鬼は「しょうがないな、増長天に花でも持たせてやるか」というような表情にすら見える。踏鬼は一方的に仏敵としてやられている様子はない。充分にしたたかな邪鬼である。
この展覧会では子の湛慶の四天王像もあったが、表情は読み取れないほど躯体が劣化していたので、表情の差異は感じなかった。
先の馬場あき子の指摘と合わせて考えると、古来の土着の信仰と仏教的な説話の世界とのせめぎ合い、そして仏師という集団と時代の支配者との関係など、考える糸口は多様なようだ。しかし7年も前の展覧会の印象を思い出させてくれた「鬼の研究」に感謝である。もう一度「運慶展」の図録を読み直す機会にしたい。