心の中の批判者A「君はいったいいつからそんな世捨て人のようになってしまったんだい。君のいう現実過程から程遠い世界を楽しんでいるようだね。」
心の中のわたしB『別に世捨て人を自称しているわけでも、それを無理して仮面をかぶっているわけでもないよ。もともと好きだったんだから。好きに理由もないし、人に言い訳することもないしね。』
A「しかしだよ、団塊の世代直後の後退戦とやらをいつも引き受けて、世の中の苦悩を一身に引き受けたような真面目な顔をしていた君が、そして組合役員の君が、まるで引退して何もかも放り出したみたいだ。」
B『体調は悪いことは悪いが、「後退戦」の役を放り出したつもりもないよ。現にまだ役員だし。次代の人にどのように引き継ぐかはまだ結論が出ていないけどね。あと一年とちょっとでどうなるか。後退戦は闇の中でも表の役回りでも同じさ。ただし、これらの役回りからまったく切り離された世界をここでつづっているつもりはないよ。どこかで繋がっているよ』
A「長谷川リン二郎、高島野十郎の絵の評論を載せたかと思うと、香月泰男を持ち上げる。土門拳の報道写真家としての真髄である筑豊などは無視して、古寺巡礼にこだわる。伊藤恵のシューマニアーナが突如評価され、アトランダムにクラシック音楽が取り上げられる。白川静の次は中井久夫。俳句と謡曲。そして古代史・中世史の新書のたぐい。ブログを読むほうは何がなんだかわからない。君という人間はほとほと一貫性がないね。」
B『人間なんてものはもともと一貫性の動物ではない。これだけというたった一つの価値観しか持たないなんてありえない。どこかの政治党派のように「一貫して」が口癖・お題目の唯我独尊で実際の足取りは右往左往千鳥足なんていうところとは違うからね。』
A「個人の思想の水準と、政治集団の共同性の水準をごっちゃにしてはいけないというのが君の口癖なのに、今の結論はおかしい」
B『ハハハ、そのとおり一本取られたね。しかし君がいった「一貫性のない取り上げ方」自体が、私には一貫性を持ったものかもしれない。学生時代から一貫して時代の後退戦の矢面に立たされているという自覚とともに、同時に新古今和歌集を片手に、もう片方に吉本隆明を抱えて集会やデモに居た自分は今でも続いているという点でね。人間はさまざまな思考・志向・指向・嗜好・嗜好とを持ち、試行を繰り返しながらよろよろと歩くもんだ、というのが18歳の時からの思いだ。癒されるからクラシックを聴くのではなく、聴いているときは音の世界に浸ることが目的で人生があるようにも錯覚している。俳句も謡曲も、古典の詩歌もみな同じだよ。万葉集を拾い読みしたり解説書を読んでいるときは、自分がプロの国学者やプロの詩歌作家のように錯覚して本気で、この句やこの句意を俳句に写してみようかと考えたりしているよ。私の中では皆ごちゃ混ぜでそれぞれに整理はついている。組織論と共同幻想の水準の解明というところでね。ただ回り道が遠いので自分でも中心がどこだったか時々わからなくなるけどね。クラシックと絵画はこれは純粋に趣味だな。』
A「では白川静と中井久夫はどういう関係だい?」
B『白川静は独力の論理の展開の強さがある。確かにあの人の論は飛躍があり、考古学的な裏づけが希薄と思われるものもある。だが説文解字という後世に書かれた聖書のような文献にとらわれず独自の推論を作り上げたことには敬意を表すべきだし、限られた中国側の考古学的な現状ではやむを得ないものがある。また日本の古代との比較研究も保留すべき点と共同幻想の水準から比較が成り立つものとの峻別が課題といえば課題かもしれない。しかしある意味マルクスの著作やダーウィンの著作のような執拗な肉薄の仕方は学ぶ点が多いのではないか。またそれが多くのファンを最近ひきつけている魅力ではないだろうか。流通している常識としての「説文解字」への違和は誰しもが持っているものだと思う。中井久夫は人に勧められて初めて心理学系統のものを読んだのだが、大学病院の責任者として組織として病院を作り上げた仕方を読み、地の通った組織論として参考になった。出会いの初めだ。他の著作ではその人柄に惹かれて読み進めてきたが、戦争論や政治論は勉強になる。あまりに客観的過ぎる全共闘運動論も逆の意味で勉強になる。主体論抜きの政治論としての不満は、主体的にかかわった人間が構築すればよいのではないかとあらためて思う。』
A「気持ちはわからなくもないが、さっき君が云ったごとく手を広げ過ぎて収拾つかなくならないのか?」
B『その通りの心配がある。年とともに守備範囲は狭くなる。収拾つかなくなる前に整理整頓しなくてはいけないと真剣に考えている。それがこのブログでもあるような気がしている。とりあえず今日はこの辺で勘弁してよ。』
A「俺もお前と同じ頭の中に巣食っているのだから、しょうがない。今日のところはこれで勘弁しよう。
心の中のわたしB『別に世捨て人を自称しているわけでも、それを無理して仮面をかぶっているわけでもないよ。もともと好きだったんだから。好きに理由もないし、人に言い訳することもないしね。』
A「しかしだよ、団塊の世代直後の後退戦とやらをいつも引き受けて、世の中の苦悩を一身に引き受けたような真面目な顔をしていた君が、そして組合役員の君が、まるで引退して何もかも放り出したみたいだ。」
B『体調は悪いことは悪いが、「後退戦」の役を放り出したつもりもないよ。現にまだ役員だし。次代の人にどのように引き継ぐかはまだ結論が出ていないけどね。あと一年とちょっとでどうなるか。後退戦は闇の中でも表の役回りでも同じさ。ただし、これらの役回りからまったく切り離された世界をここでつづっているつもりはないよ。どこかで繋がっているよ』
A「長谷川リン二郎、高島野十郎の絵の評論を載せたかと思うと、香月泰男を持ち上げる。土門拳の報道写真家としての真髄である筑豊などは無視して、古寺巡礼にこだわる。伊藤恵のシューマニアーナが突如評価され、アトランダムにクラシック音楽が取り上げられる。白川静の次は中井久夫。俳句と謡曲。そして古代史・中世史の新書のたぐい。ブログを読むほうは何がなんだかわからない。君という人間はほとほと一貫性がないね。」
B『人間なんてものはもともと一貫性の動物ではない。これだけというたった一つの価値観しか持たないなんてありえない。どこかの政治党派のように「一貫して」が口癖・お題目の唯我独尊で実際の足取りは右往左往千鳥足なんていうところとは違うからね。』
A「個人の思想の水準と、政治集団の共同性の水準をごっちゃにしてはいけないというのが君の口癖なのに、今の結論はおかしい」
B『ハハハ、そのとおり一本取られたね。しかし君がいった「一貫性のない取り上げ方」自体が、私には一貫性を持ったものかもしれない。学生時代から一貫して時代の後退戦の矢面に立たされているという自覚とともに、同時に新古今和歌集を片手に、もう片方に吉本隆明を抱えて集会やデモに居た自分は今でも続いているという点でね。人間はさまざまな思考・志向・指向・嗜好・嗜好とを持ち、試行を繰り返しながらよろよろと歩くもんだ、というのが18歳の時からの思いだ。癒されるからクラシックを聴くのではなく、聴いているときは音の世界に浸ることが目的で人生があるようにも錯覚している。俳句も謡曲も、古典の詩歌もみな同じだよ。万葉集を拾い読みしたり解説書を読んでいるときは、自分がプロの国学者やプロの詩歌作家のように錯覚して本気で、この句やこの句意を俳句に写してみようかと考えたりしているよ。私の中では皆ごちゃ混ぜでそれぞれに整理はついている。組織論と共同幻想の水準の解明というところでね。ただ回り道が遠いので自分でも中心がどこだったか時々わからなくなるけどね。クラシックと絵画はこれは純粋に趣味だな。』
A「では白川静と中井久夫はどういう関係だい?」
B『白川静は独力の論理の展開の強さがある。確かにあの人の論は飛躍があり、考古学的な裏づけが希薄と思われるものもある。だが説文解字という後世に書かれた聖書のような文献にとらわれず独自の推論を作り上げたことには敬意を表すべきだし、限られた中国側の考古学的な現状ではやむを得ないものがある。また日本の古代との比較研究も保留すべき点と共同幻想の水準から比較が成り立つものとの峻別が課題といえば課題かもしれない。しかしある意味マルクスの著作やダーウィンの著作のような執拗な肉薄の仕方は学ぶ点が多いのではないか。またそれが多くのファンを最近ひきつけている魅力ではないだろうか。流通している常識としての「説文解字」への違和は誰しもが持っているものだと思う。中井久夫は人に勧められて初めて心理学系統のものを読んだのだが、大学病院の責任者として組織として病院を作り上げた仕方を読み、地の通った組織論として参考になった。出会いの初めだ。他の著作ではその人柄に惹かれて読み進めてきたが、戦争論や政治論は勉強になる。あまりに客観的過ぎる全共闘運動論も逆の意味で勉強になる。主体論抜きの政治論としての不満は、主体的にかかわった人間が構築すればよいのではないかとあらためて思う。』
A「気持ちはわからなくもないが、さっき君が云ったごとく手を広げ過ぎて収拾つかなくならないのか?」
B『その通りの心配がある。年とともに守備範囲は狭くなる。収拾つかなくなる前に整理整頓しなくてはいけないと真剣に考えている。それがこのブログでもあるような気がしている。とりあえず今日はこの辺で勘弁してよ。』
A「俺もお前と同じ頭の中に巣食っているのだから、しょうがない。今日のところはこれで勘弁しよう。