横浜都市発展記念館で開催されている、五十嵐英壽写真展「「写真記者」が見つめた港の半世紀」を見てきた。
五十嵐英壽の経歴は、1931年函館市に生まれ、1952年に神奈川新聞社に入社し、写真部の記者として活躍。1988年写真集「横濱みなとの唄」を刊行。
1952年というと私が川崎で生まれた翌年。私は1962年に横浜に移り住み、1975年に横浜市に就職し、2012年に退職している。私より20歳年長の型である。この間ずっと神奈川新聞社で報道に携わっていたことになる。私の横浜市での履歴と重なる形で、横浜を見つめていたことになる。
1962年に横浜に移り住んだときは小学校5年生で、郊外の住宅地で生息していたのだが、その頃は港を見学に行くわけでもなく、展示されている世界はまったく記憶にない。
しかし1963年の秋から冬にかけて小学校6年生の私はどういうわけか、横浜市健康優良児堂5人に選ばれて、当時横浜市長に当選したばかりの飛鳥田一雄市長から表彰状を手渡された時のことを鮮明に覚えている。杖をついて左足をかばいながら今の市庁舎の1階にある旧貴賓室(私が就職したころには文書集配室、その後会議室に変わった)で面会した。一人ずつ賞状を手渡してもらい、肉厚の手で握手をしてもらったのは子供心に嬉しかった。(ちなみにその一カ月後には神奈川県の健康優良児童にも選出されて県庁舎で賞状を貰ったが、当時の内山岩太郎知事は臨席していなかった。だから顔も覚えていない。)
そしてこの写真展では1964年当時の鉄道工事現場を視察中の飛鳥田市長が映っており懐かしく見ることができた。
1964年の東京オリンピックの前後の関内や横浜、臨港鉄道の開通式典、1967年の市民1万人集会などの模様は私なりに新聞紙面で見た記憶と重なっていた。
1972年の村雨橋の戦車輸送阻止闘争などは1枚の写真だけでもあり、公式の横浜市の行事である横浜博覧会などの説明写真などの展示は静的な写真で躍動感は伝わってこなかった。
ただ1枚の写真はとても気になった。1953年の頃の接収解除となった地区での道路工事現場を映した写真である。チラシの裏面の真ん中一番上の写真がそれである。若い工夫もおり、市役所の直営工事である。当時の横浜市建設局直庸労組の組合員達であることは間違いがない。
皆、日雇い雇用、あるいは非正規の臨時雇用で、給料は舗装工事の材料である砂利・砂・アスファルトを購入することにして調達したお金から支払われていたという。今では信じられない時代であった。1960年代にかけて正規雇用の身分を勝ち取るために大変苦労したことを聞いている。他の都市でも似たような待遇であったと聞いた。1枚の写真の裏には様々なドラマもあったのである。
このころ30代の先輩たちも、私が採用された1975年にはまだ50代を過ぎて現役で働いていた。よく直庸労組時代の仕事の話を聞いたが、この写真1枚で先輩たちに聞いた話が一気に思い出された。また戦後の混乱期に公共用地にたてられたバラックの解体工事現場もうつされていたが、この作業の話もいろいろ聞かせてもらったのを思い出した。
さて、出展されている1950年代から1960年代にかけての写真は、どの写真も写されている市民の顔が生きている。引揚船を迎える人、下船してくる人、南米への移民で出港する人、見送る人、米兵と連れ立って歩く女性たち、泥濘の野毛に集まる人々、港での作業に集まる労働者どれも報道写真として吸い寄せられるし、写っている人が躍動している。
しかし1970年代になると人物はすっかり後景に退くか、写っていない。巨大な埋め立て工事などの風景写真に様変わりしてしまう。報道写真ではなく、行政の広報用の写真のようになってしまっているのがとても寂しかった。
おそらく第一線から退き、現場から離れたことも原因かと思うのだが、これが今回の写真展の政治的な配慮だとするととても残念な気がした。
なお、関連企画として五十嵐英壽が横浜市内各所で撮った野良猫の写真展も同じ建物内で見ることができた。これはなかなかいい。私の気に入った写真は外国人墓地内の十字架の墓標の脇にたむろする猫を映したものだが、残念ながらポストカードにはなっていなかった。