御嶽山の噴火に伴う人的な被害についてはまだ確定はされていないようだ。NHKの報道では亡くなった方が12名、心肺停止という方が24人ということで、昨日よりも数が増えてしまった。これからもまだ増える可能性が無いとは言えない。山に入っていた人の数も確定は不能である。犠牲者がこれ以上増えないことを祈ることと、救助作業での二次災害が起きないことを願うしかない。
今の段階であれやこれや評論する状況でもないし、実態もわからない。マスコミが客観的な状況を正しく報道しているとも思えない。噴火に関する事前の地震の解析と評価、それに基づく避難体制や登山者・山小屋関係者等々への周知などのあり方は今後の真摯な検討が必要であろう。
しかし地震や噴火に関する研究はそれはとても困難であると思っている。火山性微動といってもそれと噴火とはつながらない。火山性微動だけでおさまってしまう場合の方が多いとも云われている。少なくとも今の段階で絶対的な兆候も、活動予測も出来ないという言は承認せざるを得ないと思う。
研究というのは地味で報われることの少ない蓄積の上に成り立つものであることをあらためて私は実感している。自然現象をすぐにでも解明できるなどと甘く見てはいけない。費用対効果などという尺度で物事を判断してはいけない。御嶽山の噴火でブログをいくつかみたら、「予知も出来ない研究なんかすぐに止めてしまえ」などという暴論まで飛び出していた。言うのは自由かもしれないが、あまりに無責任でひどいものであると思った。
私たちが踏まえなければならないのは、海や山や河川、その他さまざまな自然の中でのレジャーにはこのような危険は常に付きまとっていることをあらためて今回の事態は認識させてくれた。
人間は自然の中に浸ることによって自己を回復したり、再発見したりする。これは山登りの私の拙い経験でもある。常に自分の体力や自然現象と対話しながら、コミュニケーションのアンテナを張り巡らしながら山道を歩いている。人間であるから、常にそれが間断なく継続できるわけではないが、持続する意志は重要である。高校野球の実況中継や音楽をイヤホンで聞きながら登っている人がいるが、このような人には「自然との対話を拒否していては、登山という自然との対話は止めた方がいい」というべきであろう。
雨、気温、湿気、風向きや強さ、雲の動き、時刻と体力、水分・栄養補給、鳥や動物の声やもたらす音、植物のあり様等々いろいろな情報を目・耳・触感・匂いなどをフル稼働して集めている。さらに人間社会から切り離されて孤独の中でいろいろな想念とも対話をしている。
このように自然の中に自分を投げ出すことで、結果として人間は危機管理に対するノウハウも身につくと思っている。人間社会での振舞いの勉強にもなる。人間が人間である限り、山や海や河川などに身をさらす行為やレジャーは無くなることはあり得ない。どんな時でも人間はそのような指向を持ち続けるはずである。
よく山登りの達成感という言葉を聞くが、これは単に体力だけの問題ではない。体力を大いに使いつつも、自然や自分の体との対話をどうこなしてきたか、という総合的な経過そのもののことである。このことを抜きにして達成感というのはあり得ない。それはどんなことにも当てはまると思う。
今回、噴石や火山灰、硫化水素、高熱といった人間では対応しきれない事態があっという間に、それも一度に登山者を襲った。逃げおおせた人が多かったのは奇跡的であった。それでもとっさに下山の判断をしたり、石室などの避難小屋をめざしたり、リュックを背中の防御に利用したりという、はたから見れば当たり前のようなことでも現場に遭遇すればそう簡単に実行できるものでもない。それを実行できた人が多かったようだ。このようなとっさの行動をとっても怪我をされたり、亡くなった人も多いはずである。生死を分けたのは奇跡としか言いようがないかもしれない。
あんな危険な山に行ったのだから自業自得、という人もいる。確かにそうである。しかしこの自然との対話に対する指向は、人間が人間であるかぎり無くなることはない。人間であることの証といっていいかもしれない。これを止めることはできない。
あとは装備と体力、そして自然との対話能力をどう万全なものにするかということである。残念ながらこれは経験でしか身につかないものでもある。そして万全な用意をしても自然の力の前では無力であることも事実である。
今の段階であれやこれや評論する状況でもないし、実態もわからない。マスコミが客観的な状況を正しく報道しているとも思えない。噴火に関する事前の地震の解析と評価、それに基づく避難体制や登山者・山小屋関係者等々への周知などのあり方は今後の真摯な検討が必要であろう。
しかし地震や噴火に関する研究はそれはとても困難であると思っている。火山性微動といってもそれと噴火とはつながらない。火山性微動だけでおさまってしまう場合の方が多いとも云われている。少なくとも今の段階で絶対的な兆候も、活動予測も出来ないという言は承認せざるを得ないと思う。
研究というのは地味で報われることの少ない蓄積の上に成り立つものであることをあらためて私は実感している。自然現象をすぐにでも解明できるなどと甘く見てはいけない。費用対効果などという尺度で物事を判断してはいけない。御嶽山の噴火でブログをいくつかみたら、「予知も出来ない研究なんかすぐに止めてしまえ」などという暴論まで飛び出していた。言うのは自由かもしれないが、あまりに無責任でひどいものであると思った。
私たちが踏まえなければならないのは、海や山や河川、その他さまざまな自然の中でのレジャーにはこのような危険は常に付きまとっていることをあらためて今回の事態は認識させてくれた。
人間は自然の中に浸ることによって自己を回復したり、再発見したりする。これは山登りの私の拙い経験でもある。常に自分の体力や自然現象と対話しながら、コミュニケーションのアンテナを張り巡らしながら山道を歩いている。人間であるから、常にそれが間断なく継続できるわけではないが、持続する意志は重要である。高校野球の実況中継や音楽をイヤホンで聞きながら登っている人がいるが、このような人には「自然との対話を拒否していては、登山という自然との対話は止めた方がいい」というべきであろう。
雨、気温、湿気、風向きや強さ、雲の動き、時刻と体力、水分・栄養補給、鳥や動物の声やもたらす音、植物のあり様等々いろいろな情報を目・耳・触感・匂いなどをフル稼働して集めている。さらに人間社会から切り離されて孤独の中でいろいろな想念とも対話をしている。
このように自然の中に自分を投げ出すことで、結果として人間は危機管理に対するノウハウも身につくと思っている。人間社会での振舞いの勉強にもなる。人間が人間である限り、山や海や河川などに身をさらす行為やレジャーは無くなることはあり得ない。どんな時でも人間はそのような指向を持ち続けるはずである。
よく山登りの達成感という言葉を聞くが、これは単に体力だけの問題ではない。体力を大いに使いつつも、自然や自分の体との対話をどうこなしてきたか、という総合的な経過そのもののことである。このことを抜きにして達成感というのはあり得ない。それはどんなことにも当てはまると思う。
今回、噴石や火山灰、硫化水素、高熱といった人間では対応しきれない事態があっという間に、それも一度に登山者を襲った。逃げおおせた人が多かったのは奇跡的であった。それでもとっさに下山の判断をしたり、石室などの避難小屋をめざしたり、リュックを背中の防御に利用したりという、はたから見れば当たり前のようなことでも現場に遭遇すればそう簡単に実行できるものでもない。それを実行できた人が多かったようだ。このようなとっさの行動をとっても怪我をされたり、亡くなった人も多いはずである。生死を分けたのは奇跡としか言いようがないかもしれない。
あんな危険な山に行ったのだから自業自得、という人もいる。確かにそうである。しかしこの自然との対話に対する指向は、人間が人間であるかぎり無くなることはない。人間であることの証といっていいかもしれない。これを止めることはできない。
あとは装備と体力、そして自然との対話能力をどう万全なものにするかということである。残念ながらこれは経験でしか身につかないものでもある。そして万全な用意をしても自然の力の前では無力であることも事実である。