印象派の長老格のカミーユ・ピサロは昔から私のお気に入りである。今回の展示では4点の作品を見ることができた。どれも好きな絵であるが、「白い霜」(1873)は立ち並ぶポプラと思われる樹木の長い影が何本も描かれていて特異な画面である。大胆な描写だと思う。1874年の第1回印象派展で展示された作品である。
異常に長い樹木の影で、冬の日の早朝であることが分かるが、題名を見ないと霜だとは気がつかないのが気になる人もいるかもしれない。このように影を大胆に何本も描くのは多分それまでの絵画技法では受け入れられるものではなかったと思う。印象派というのは、規範をあくまでも画家ひとりひとりの美の判断に任せたことも手柄のひとつだと思う。畑の起伏がこの影でよくわかる工夫なのだろう。
ピサロは後年クロポトキンの影響を受けて農民の労働現場の絵を描いているが、私はこれらの絵はあまり好みではない。人物を描く場合は、初期のこの絵のように点景として描いたものの方が私は好きだ。マネやモネのように人の営みが滲み出る風景画が好きだが、カミユの場合はこのように人が描かれていても特に物語を匂わせない。根っからの風景画家だと私は思う。どうして、しかしクロポトキンの影響というのは興味をそそられる。
数少ない印象派の女性画家のベルト・モリゾの名はマネのモデルとしても有名。マネの「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(1872)が記憶に残っている。展示されている「ゆりかご」(1872)はともに画家を目指した姉エドマとその子とのことである。カミーユ・ピサロの「白い霜」とともに第一回印象派展に出品された絵。
23歳の1964年から1973年まではサロンの常連出品画家であったとのことは最近知った。
この画家の作品は人物像がいい。この人の絵は人物が描かれていないと落ち着かないと思う。しっとりとした情感が私の好みである。繊細な筆さばきに思える。
マネの弟と結婚し娘をもうけている。夫と娘を描いた「庭のウジェーヌ・マネと娘」(1883)は緑溢れる庭の中の2人の姿が印象的である。「ゆりかご」とは違って荒いタッチにもかかわらず、強い光と人物が柔らかく描かれている。対照的だが、どちらも惹かれる。
ジャン=フランソワ・ラファエリの名は初めて知った。ネットの人物辞典では「ドガに推薦され第五、六回印象派展に参加。貧困層を描き社会的批判に満ちた作品を描いた。もともとジェロームに師事し、写実的傾向の絵を描いていたため印象派展のイメージをゆがめ、ドガと他の印象派達の亀裂を深める原因となった。カイユボット達はラファエリが印象派展に加わることを大変いやがっていた」とある。複雑な印象派内部の人物関係がうかがえる。1970年、76年にサロンに入選しその絵がもとで、ドガなどと知り合いになったようだ。性格的な問題なのか、技法上の問題なのか、交友範囲の問題なのか、これらの記事では推察できないのが残念である。
この「ジャン=ル=ボワトゥーの家族、ブルガヌーの農民達」(1876)を見た時、マネの「笛を吹く少年」との類似があるように思えた。またセザンヌの「トランプをする人々」のように右の農婦の手が大きく描かれているのが目についた。もう一人の農婦の手は大きくは描いていない。右の年老いた農婦の手を強調しようとしたのか、単なるアンバランスなのか、判断に苦しむ。しかし大胆に左端の男を縦に半分きった構図も面白い。白い壁の色とのバランスからうまい具合にカットしたなぁと思った。
4人の視線が統一されていないのも大胆で斬新なのかもしれない。不思議な群像かもしれない。
肖像画のコーナーではジェームス・アボット・マクニール・ホイッスラーの「灰色と黒のアレンジメント第1番」(1871)が強く印象に残った。ホィッスラー展が、12月6日から来年3月1日まで横浜美術館で開催されるので、そこでもじっくりと見たいと思う。画家の詳しいことは知らないが、音楽用語を使った題名といい、落ち着いた色調といい気になる画家である。
これまでは「黒と金色のノクターン-落下する花火」(1875)が印象に残っている。
横顔の母親の肖像だが、顔の表情に比重が置かれていない。これがかえって魅力になっている。
肖像画のコーナーではモネの「死の床のカミーユ」(1879)も展示されている。
ジャン=フランソワ・ミレーの「晩鐘」(1857-59)も展示されている。この絵はいつも惹かれる。今回は私は空の表情に惹かれた。夕刻の空の雲の色のグラデーションに目が吸い寄せられた。
ミレーの絵については、井出洋一郎の「「農民画家」ミレーの真実」で述べたので今回はこの絵を掲げるだけにする。
展覧会では同じくミレーの「横たわる裸婦」も展示されていて、興味深かった。
その他興味を惹いた作品は多数あり、もう書ききれないのでここらへんで終了。