Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「むざんやな兜の下のきりぎりす」(芭蕉)

2014年09月12日 22時19分43秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 整形外科でいつもの腰の低周波治療と、痛み止めの薬と筋肉の強張りを改善する薬をもらってきた。往復1時間余、爽やかな陽射しを浴びながら普段よりは少しゆっくり歩いてきた。病院の帰りには喫茶店でコーヒータイムも。
 痛み止めなどの薬は旅行中の用心として処方してもらったが、夜になると少し痛みが増してきたので、先ほど服用した。薬としては効いているようで、痛みは薄らいだ。
 夕方帰宅してから、オルセー美術館展のチラシや解説書や絵をスキャナーで取り込む作業をしている。スキャナーの作業でたったりすわったりを幾度か繰り返しているのが腰には負担になっているのかもしれない。立つ度に左手を腰に当て、椅子の臂宛てに右手をついて腰に負担のかからないようにしている。それでも痛みが増していた。ということでまだ続けたいのだが、スキャナー作業は本日は終了。

 どの絵を選ぶかが、楽しみなのだが‥。

 最近は美術館に出かけるときは、ある一人の画家の回顧展ないしそれに近い展覧会である。その場合は画家の生涯の画風の変遷であったり、あるいは生き様について生意気にも言及してきた。今回のように「印象派」総体を俯瞰したり、同時代の作家との比較が主眼の展覧会について記述する場合、切り口が難しい。
 私なりのそれこそ予断と偏見に満ちたものでも、少しくらい気の利いたことを書きたいものである。そのヒントを見つけるのが苦労である。

 ということで、軽いぎっくり腰を理由に「オルセー美術館展」の感想はあと1日位は余分に時間がかかりそうな気配になってきた。

 月はまだ私の家のベランダからは見えない。もう少し時間がかかる。そのかわり、昨晩は実に微かにしか聞こえなかった虫の音が、今晩は少し大きくなってきた。むろん、昨日はじめて聞いたということではない。蝉の音に混じって聞こえていたものが、今は蝉の声はしなくなった。数日前から蝉はすっかり退場してしまった。
 虫の音が大きくなったといっても数匹の細い声に聞こえる。あちこちで賑やかに聴こえるという段階にはなっていない。虫の音を聴くというのはこのくらいがいい。何の虫かは詮索せずに聴いている。

★むざんやな兜の下のきりぎりす  芭蕉

 実盛の兜がまつられている小松市の多太神社を訪れてよんだ句。「きりぎりす」は当時はコオロギのことらしい。「斎藤別当実盛の遺品の兜がまつられているが、秋が深まり一匹のコオロギが実盛の霊のように鳴いている。兜の下で鳴いているようにも聞こえる。その鳴き声に実盛の声が重なる。」こななところか。
 謡曲の「実盛」に、「むざんやな」ということばがあり、それを踏まえている。

 平家方の武将として木曽義仲の軍勢と加賀の国に白髪を黒く染めて華々しく戦い、討たれる。平家物語の忘れられない一場面である。私は芭蕉の句からこの話を知り、とても印象深かかった。私の平家物語体験は「祇園精舎の鐘の声‥」ではなく、このくだりといってもいいかもしれない。また謡曲「実盛」は初めて目をとおした謡曲でもある。
 この句、実際に兜の下で虫が鳴いていたというのでは興ざめである。兜を眺めたときと、虫の音を耳にしたときは別のときである。あるいは虫の音は想像で持ってきたとも思われる。
 たぶん夜遅く、暗い蝋燭の火のもとで、昼間見た兜を思い浮かべながら苦吟している芭蕉が目に浮かぶ。芭蕉の表情にも気骨の武将の面影が重なる。

微気候、腰痛‥無関係であるが

2014年09月12日 10時32分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 我が家の寝室は北側にある。本日朝目が覚めてから北側の窓を開けたら心地よい涼しい風が、寝具をかけていない体を包み込むように吹き込んできた。強すぎず、弱すぎず体を少しだけ引き締めるように目覚めさせてくれた。そして開け放した南側のベランダに面した窓に向かって空気が移動していった。
 起き出して南側のベランダに出てみるとこちらは太陽が当たり、秋らしい陽射しが暖かい。
 この時期、朝は南側と北側でこんなにも気温差があるのだろうか?と感じた。どちらも体に心地よい感じであるが、陽射しのある、なしで体感がこんなにも違うものだろうか。
 真夏のあのうだるような暑さは、南側も北側も区別なく体を苛む。あれが異常なのであって、この秋の雰囲気がもともと当たり前なのだろう。
 建築関係の本を立ち読みしていた時に「微気候」という表現に出くわした。家の南と北とのほんの些細な気温差、陽射しのあるなしによる差を説明していたと思う。日本の木造家屋の構造を解説していた個所だったはずだ。記憶では、庇や縁側や廊下がこの気温差や湿度の差を利用して風を効果的に呼ぶ構造であるとのことだった。詳細はすっかり忘れてしまっている。

しかし微気候ということばの意味合いが不確かなので、先ほど今あわててネットで検索したら、定義に随分差があることが分かった。どれが正しいか、わからないので並列してみる。

「地表面から地上1.5mくらいの間の大気層(接地気層)の気候。地表面の状態や地物の影響を強く受けて,細かい気象・気候状態の差異が生じる。接地気層の中ではわずかの高さの違いで気候状態がはなはだしく変化するので,地表面に接した所の大気層の気候は一般の気象観測が行われる高さ(地上1.5m前後)の気候とはかなり異なる。ふつうは水平方向の広がりはせいぜい100m以内の現象が対象になるが,小気候の意味で使われることもある。」(世界大百科事典 第2版)

「微気候とは、洞窟やオアシスなど狭い地域の地形、またはビルなどの建造物によって作られる、周囲の「大気候」とは異なる地域である。洞窟の中は外よりも気温が低く、生物環境なども周囲とは大きく異なる。オアシスには植物が密集しており、乾燥のために植物が無い砂漠と比べて対照的である。同様に、乾燥した地域を流れる川の河畔には植物が生育する。コンクリートで覆われたビルの屋上は、その性質のために温度が高い。しかし、植物を植えるなどして温度を下げることが可能である。また、地下や公園などの気候も周囲と異なる微気候である。」(wikipedia)

「地表より100メートルくらいまで(2メートル以下のこともある)の狭い範囲の気候。 → 微気象=「地表より100メートルくらいまで(2メートル以下のこともある),水平的には数メートルから数キロメートルの範囲に起こる気象現象。地表・地形・建物・植生・農作物などの影響を受けて微細な変化を生じる。農業や生物の生活環境に大きな影響をもつ。」」(大辞林)

 地上1.5mとか、地表から100mとか随分差がある。着目する範囲により定義に差があるようだ。ひとつの建物に注目するか、区画で考えるか、地形を単位にするか、考察する対象によっても恣意的に差が生じるようである。
 気候という概念自体が地球規模を範囲とするか、大陸、半島、島等々範囲の設定で違ってくる。比較する範囲によってより下位の地域を微気候というのかもしれない。絶対的な基準を持ってきても、厳密過ぎてもかえって不便なのだろう。

 とりあえず、今の時期の南北の気温差、風の有無の差を、体感としてリアルに感じたことが私にとっては重要なことであった。


 さて、朝の洗面をしていたら突然腰に痛みが走った。ぎっくり腰の再発らしい。さいわい痛みは軽いので、ゆっくり動くならば問題はない。しかし来週は旅行である。今週も明日から病院は3連休。用心をして久しぶりにいつもの整形外科で、温めながらの低周波電気治療を受けてみようと思っている。これが腰の筋肉の炎症に本当に効いているのかはわからないが、治療後は痛みも薄らぎ気持ちがいいことは確かだ。
 秋らしい陽射しを受けてのウォーキングは、残念ながら痛みや違和感が無くなるまで控えなければならなくなった。かなりがっかりである。

月を見る

2014年09月12日 01時40分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も先ほど2回に分けて月を見ていた。1度目は昨日の23時過ぎ。2度目は日付が変わって1時頃。

 1度目はまだ雲が7割くらい空を覆っていた。高層雲というのか高積雲というのか、私には区別がつかない。2度目は逆に雲が空の3割くらいに減っていた。
 1度目は雲と晴れている境目に居待月がかかっていて、次第に雲が月から離れていくところであった。現実は雲の方が動いているのだが、実際に見ていると月が動いていくように見えたり、雲が動いているように見えたりと感覚が交互に入れ替わる。その感覚の入れ替わりを楽しむのも月の鑑賞の仕方だと思う。
 月が動いているように見えるときというのは、雲が世界地図の大陸や島々に見えて月は船のように感じる。世界地図からすると船というのには縮尺割合からすると大きすぎるのだが、そこは厳密には考えない方がいい。月が陸地を離れて大海を静かに、しかし確実に航海をしていく。月の明るさが確かな航行を暗示しているようだ。

 ふと意識が転換すると、雲が月から離れたり接近したりを繰り返しているように見える。これは雲の大きさや、厚味、雲間に反射する月のあかりや雲の移動速度などにより微妙な転換が行われる。
 雲のない空間が大きいと、どちらかというと月が航海をしているように見える確率が大きいかもしれない。
この転換を幾度か経ると、そろそろ見飽きて周囲の景色にいったんは目を転じたり、部屋に入ってお茶でも飲みたくなる。今回はお風呂に入って見た。
 2度目は雲が少なくなり、雲に比べて闇の海を明るい月が滑るように動いて見えた。場面の転換はなかなか起きなかったが、傍に小さな雲のかたまりがやって来て光を画した途端に雲が動き始めた。

 この錯覚を楽しんでから、少し覚めた身体をベランダから部屋に引き入れた。とても気持ちのいい時間を過ごすことができた。