整形外科でいつもの腰の低周波治療と、痛み止めの薬と筋肉の強張りを改善する薬をもらってきた。往復1時間余、爽やかな陽射しを浴びながら普段よりは少しゆっくり歩いてきた。病院の帰りには喫茶店でコーヒータイムも。
痛み止めなどの薬は旅行中の用心として処方してもらったが、夜になると少し痛みが増してきたので、先ほど服用した。薬としては効いているようで、痛みは薄らいだ。
夕方帰宅してから、オルセー美術館展のチラシや解説書や絵をスキャナーで取り込む作業をしている。スキャナーの作業でたったりすわったりを幾度か繰り返しているのが腰には負担になっているのかもしれない。立つ度に左手を腰に当て、椅子の臂宛てに右手をついて腰に負担のかからないようにしている。それでも痛みが増していた。ということでまだ続けたいのだが、スキャナー作業は本日は終了。
どの絵を選ぶかが、楽しみなのだが‥。
最近は美術館に出かけるときは、ある一人の画家の回顧展ないしそれに近い展覧会である。その場合は画家の生涯の画風の変遷であったり、あるいは生き様について生意気にも言及してきた。今回のように「印象派」総体を俯瞰したり、同時代の作家との比較が主眼の展覧会について記述する場合、切り口が難しい。
私なりのそれこそ予断と偏見に満ちたものでも、少しくらい気の利いたことを書きたいものである。そのヒントを見つけるのが苦労である。
ということで、軽いぎっくり腰を理由に「オルセー美術館展」の感想はあと1日位は余分に時間がかかりそうな気配になってきた。
月はまだ私の家のベランダからは見えない。もう少し時間がかかる。そのかわり、昨晩は実に微かにしか聞こえなかった虫の音が、今晩は少し大きくなってきた。むろん、昨日はじめて聞いたということではない。蝉の音に混じって聞こえていたものが、今は蝉の声はしなくなった。数日前から蝉はすっかり退場してしまった。
虫の音が大きくなったといっても数匹の細い声に聞こえる。あちこちで賑やかに聴こえるという段階にはなっていない。虫の音を聴くというのはこのくらいがいい。何の虫かは詮索せずに聴いている。
★むざんやな兜の下のきりぎりす 芭蕉
実盛の兜がまつられている小松市の多太神社を訪れてよんだ句。「きりぎりす」は当時はコオロギのことらしい。「斎藤別当実盛の遺品の兜がまつられているが、秋が深まり一匹のコオロギが実盛の霊のように鳴いている。兜の下で鳴いているようにも聞こえる。その鳴き声に実盛の声が重なる。」こななところか。
謡曲の「実盛」に、「むざんやな」ということばがあり、それを踏まえている。
平家方の武将として木曽義仲の軍勢と加賀の国に白髪を黒く染めて華々しく戦い、討たれる。平家物語の忘れられない一場面である。私は芭蕉の句からこの話を知り、とても印象深かかった。私の平家物語体験は「祇園精舎の鐘の声‥」ではなく、このくだりといってもいいかもしれない。また謡曲「実盛」は初めて目をとおした謡曲でもある。
この句、実際に兜の下で虫が鳴いていたというのでは興ざめである。兜を眺めたときと、虫の音を耳にしたときは別のときである。あるいは虫の音は想像で持ってきたとも思われる。
たぶん夜遅く、暗い蝋燭の火のもとで、昼間見た兜を思い浮かべながら苦吟している芭蕉が目に浮かぶ。芭蕉の表情にも気骨の武将の面影が重なる。
痛み止めなどの薬は旅行中の用心として処方してもらったが、夜になると少し痛みが増してきたので、先ほど服用した。薬としては効いているようで、痛みは薄らいだ。
夕方帰宅してから、オルセー美術館展のチラシや解説書や絵をスキャナーで取り込む作業をしている。スキャナーの作業でたったりすわったりを幾度か繰り返しているのが腰には負担になっているのかもしれない。立つ度に左手を腰に当て、椅子の臂宛てに右手をついて腰に負担のかからないようにしている。それでも痛みが増していた。ということでまだ続けたいのだが、スキャナー作業は本日は終了。
どの絵を選ぶかが、楽しみなのだが‥。
最近は美術館に出かけるときは、ある一人の画家の回顧展ないしそれに近い展覧会である。その場合は画家の生涯の画風の変遷であったり、あるいは生き様について生意気にも言及してきた。今回のように「印象派」総体を俯瞰したり、同時代の作家との比較が主眼の展覧会について記述する場合、切り口が難しい。
私なりのそれこそ予断と偏見に満ちたものでも、少しくらい気の利いたことを書きたいものである。そのヒントを見つけるのが苦労である。
ということで、軽いぎっくり腰を理由に「オルセー美術館展」の感想はあと1日位は余分に時間がかかりそうな気配になってきた。
月はまだ私の家のベランダからは見えない。もう少し時間がかかる。そのかわり、昨晩は実に微かにしか聞こえなかった虫の音が、今晩は少し大きくなってきた。むろん、昨日はじめて聞いたということではない。蝉の音に混じって聞こえていたものが、今は蝉の声はしなくなった。数日前から蝉はすっかり退場してしまった。
虫の音が大きくなったといっても数匹の細い声に聞こえる。あちこちで賑やかに聴こえるという段階にはなっていない。虫の音を聴くというのはこのくらいがいい。何の虫かは詮索せずに聴いている。
★むざんやな兜の下のきりぎりす 芭蕉
実盛の兜がまつられている小松市の多太神社を訪れてよんだ句。「きりぎりす」は当時はコオロギのことらしい。「斎藤別当実盛の遺品の兜がまつられているが、秋が深まり一匹のコオロギが実盛の霊のように鳴いている。兜の下で鳴いているようにも聞こえる。その鳴き声に実盛の声が重なる。」こななところか。
謡曲の「実盛」に、「むざんやな」ということばがあり、それを踏まえている。
平家方の武将として木曽義仲の軍勢と加賀の国に白髪を黒く染めて華々しく戦い、討たれる。平家物語の忘れられない一場面である。私は芭蕉の句からこの話を知り、とても印象深かかった。私の平家物語体験は「祇園精舎の鐘の声‥」ではなく、このくだりといってもいいかもしれない。また謡曲「実盛」は初めて目をとおした謡曲でもある。
この句、実際に兜の下で虫が鳴いていたというのでは興ざめである。兜を眺めたときと、虫の音を耳にしたときは別のときである。あるいは虫の音は想像で持ってきたとも思われる。
たぶん夜遅く、暗い蝋燭の火のもとで、昼間見た兜を思い浮かべながら苦吟している芭蕉が目に浮かぶ。芭蕉の表情にも気骨の武将の面影が重なる。