先ほど「重陽の節句と黄菊」をアップしたが、その中で漱石の句「ある程の菊投げ入れよ棺の中」を取り上げた。
この句は漱石の友人の大塚保治の夫人楠緒子の死に際しての句である。当時漱石もいわゆる伊豆の大患で生死の間をさまよい一命をとりとめて療養していた。その時に大塚楠緒子の訃報に接し、この句を作った。
漱石自身も死を覚悟した時期でもあり、どこか死が傍にあるような切実感のある句である。
以下は夏目漱石の「硝子戸の中」の一節を引用してみる。
私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧(ていねい)な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであった事に、始めて気がついた。
次に会ったのはそれから幾日目だったろうか、楠緒さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。「実はどこの美くしい方かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧(あか)らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
それからずっと経って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻と喧嘩をしていた。私は厭な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
(略)
楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺の中」という手向(たむけ)の句を楠緒さんのために咏んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。
硝子戸の中(25) から
本名大塚楠緒子といわれるこの女性は漱石の永遠の女性ともいわれ、鏡子夫人の書いた「漱石の思い出」では触れられていない。彼女の夫の大塚保治は「我が輩は猫である」の美学者「迷亭」のモデルといわれる。この女性は漱石ではなく大塚保治を選択し(あるいは漱石が「譲った」か)、結ばれなかったことが後の漱石の小説世界へとつながったという評伝もあるようだ。実際のところは私にはわからない。その真偽を追求することもないと思う。
彼女はいくつかの小説とゴーリキーの翻訳などを行っている。
詩人の高畑耕治氏のブログ「愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想」の2012年10月7日の記事に、「大塚楠緒子の詩。女心に咎ありや。」というのがある。そして彼女の詩「お百度詣」を引用している。(http://ainoutanoehon.blog136.fc2.com/blog-entry-408.html)
初回は、大塚楠緒子(おおつか・くすおこ、1875年明治8年~1910年明治43年)の詩です。私はこの詩人を知らず作品も今回初めて読みました。
「太陽」1905年明治38年1月第十一巻第一号に初出。日露戦争を背景にしています。
この特集でもこの詩人の次に同じ戦争を背景にした与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」が掲載されています。(次のブログで書きました「戦争を厭う歌。『日本歌唱集』(五)」)。
お百度詣 大塚楠緒子
ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、
ふたあし国を思へども、
三足(あし)ふたゝび夫おもふ、
女心に咎ありや。
朝日に匂ふ日の本の、
国は世界に唯一つ。
妻と呼ばれて契りてし、
人も此世に唯ひとり。
かくて御国(みくに)と我夫(つま)と
いづれ重しととはれなば
たゞ答へずに泣かんのみ
お百度まうであゝ咎ありや
作品は近代詩の曙光といわれる島崎藤村の『若菜集』などと同じように、文語の七五調、音数律のリズム感の快さが散文ではない詩として感じとらせてくれます。
私は、世間一般の論調が、戦争讃美の勇ましさを善と叫んでいる時代に、このような静かな心の真実を作品とした作者を尊敬します。
晶子の詩のような強靭さとは違う問いかけ方をこの詩人はします、自問するように。「女心に咎ありや。」
国と愛する人を計りにかける、隠れキリスタンへの踏み絵のような問い詰めに対して、晶子のように真正面に反論する方法ではなく、この詩人のありのままの想いで抵抗します。
「たゞ答へずに泣かんのみ」
私は、人間には真理は示せないけれど、心の真実をふるわせ伝えようとすることはできる、それが詩だと思います。
晶子と楠緒子は、それぞれの個性のふるえだす形で、偽りのない心の真実を歌っているから、表情はちがうそれぞれの詩が、心を打つのだと思います。この詩に出会えてよかった、そう感じます。
と記されている。私は大塚楠緒子という名は聞いたことがあるが、作品を見るのは初めてである。高畑氏の指摘のとおり、与謝野晶子の詩のように強靭でもストレートなもの言いではないが、抑制された表現の後ろに芯をしっかり構えているように感じた。いい詩を教えてもらったと思う。
その上で漱石の俳句とこの詩を、並べてみるのもいい。いろいろと考えが浮かんでくる。いづれも根拠のない想像であっても、作品相互の響きあいというのは心をときめかせることがある。また彼女の作品ばかりか与謝野晶子の作品も含めて、日露戦争という時代、国家の論理が社会を覆う時代への、漱石なりの違和感も含めてあの句があったと理解してもいいかもしれない。あながち飛躍しすぎともいえないと、勝手に思っている。
この句は漱石の友人の大塚保治の夫人楠緒子の死に際しての句である。当時漱石もいわゆる伊豆の大患で生死の間をさまよい一命をとりとめて療養していた。その時に大塚楠緒子の訃報に接し、この句を作った。
漱石自身も死を覚悟した時期でもあり、どこか死が傍にあるような切実感のある句である。
以下は夏目漱石の「硝子戸の中」の一節を引用してみる。
私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧(ていねい)な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであった事に、始めて気がついた。
次に会ったのはそれから幾日目だったろうか、楠緒さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。「実はどこの美くしい方かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧(あか)らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
それからずっと経って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻と喧嘩をしていた。私は厭な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
(略)
楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺の中」という手向(たむけ)の句を楠緒さんのために咏んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。
硝子戸の中(25) から
本名大塚楠緒子といわれるこの女性は漱石の永遠の女性ともいわれ、鏡子夫人の書いた「漱石の思い出」では触れられていない。彼女の夫の大塚保治は「我が輩は猫である」の美学者「迷亭」のモデルといわれる。この女性は漱石ではなく大塚保治を選択し(あるいは漱石が「譲った」か)、結ばれなかったことが後の漱石の小説世界へとつながったという評伝もあるようだ。実際のところは私にはわからない。その真偽を追求することもないと思う。
彼女はいくつかの小説とゴーリキーの翻訳などを行っている。
詩人の高畑耕治氏のブログ「愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想」の2012年10月7日の記事に、「大塚楠緒子の詩。女心に咎ありや。」というのがある。そして彼女の詩「お百度詣」を引用している。(http://ainoutanoehon.blog136.fc2.com/blog-entry-408.html)
初回は、大塚楠緒子(おおつか・くすおこ、1875年明治8年~1910年明治43年)の詩です。私はこの詩人を知らず作品も今回初めて読みました。
「太陽」1905年明治38年1月第十一巻第一号に初出。日露戦争を背景にしています。
この特集でもこの詩人の次に同じ戦争を背景にした与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」が掲載されています。(次のブログで書きました「戦争を厭う歌。『日本歌唱集』(五)」)。
お百度詣 大塚楠緒子
ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、
ふたあし国を思へども、
三足(あし)ふたゝび夫おもふ、
女心に咎ありや。
朝日に匂ふ日の本の、
国は世界に唯一つ。
妻と呼ばれて契りてし、
人も此世に唯ひとり。
かくて御国(みくに)と我夫(つま)と
いづれ重しととはれなば
たゞ答へずに泣かんのみ
お百度まうであゝ咎ありや
作品は近代詩の曙光といわれる島崎藤村の『若菜集』などと同じように、文語の七五調、音数律のリズム感の快さが散文ではない詩として感じとらせてくれます。
私は、世間一般の論調が、戦争讃美の勇ましさを善と叫んでいる時代に、このような静かな心の真実を作品とした作者を尊敬します。
晶子の詩のような強靭さとは違う問いかけ方をこの詩人はします、自問するように。「女心に咎ありや。」
国と愛する人を計りにかける、隠れキリスタンへの踏み絵のような問い詰めに対して、晶子のように真正面に反論する方法ではなく、この詩人のありのままの想いで抵抗します。
「たゞ答へずに泣かんのみ」
私は、人間には真理は示せないけれど、心の真実をふるわせ伝えようとすることはできる、それが詩だと思います。
晶子と楠緒子は、それぞれの個性のふるえだす形で、偽りのない心の真実を歌っているから、表情はちがうそれぞれの詩が、心を打つのだと思います。この詩に出会えてよかった、そう感じます。
と記されている。私は大塚楠緒子という名は聞いたことがあるが、作品を見るのは初めてである。高畑氏の指摘のとおり、与謝野晶子の詩のように強靭でもストレートなもの言いではないが、抑制された表現の後ろに芯をしっかり構えているように感じた。いい詩を教えてもらったと思う。
その上で漱石の俳句とこの詩を、並べてみるのもいい。いろいろと考えが浮かんでくる。いづれも根拠のない想像であっても、作品相互の響きあいというのは心をときめかせることがある。また彼女の作品ばかりか与謝野晶子の作品も含めて、日露戦争という時代、国家の論理が社会を覆う時代への、漱石なりの違和感も含めてあの句があったと理解してもいいかもしれない。あながち飛躍しすぎともいえないと、勝手に思っている。