本日「日本美術の核心」の第8章「庶民ファーストなアート」を読み終わった。残るは第9章・第10章と「おわりに」である。
「白隠が道を開き、仙涯がその上を悠々と歩んだ禅画は、高い悟りの境地に達した禅僧が、自らの心の内なる仏を、自らの筆で描き出したものである。そのような宗教絵画は世界を見渡しても他に類を見ないのではないだろうか。」(第6章「素朴を愛する」)
「アートにおけるわびは、自然の味わいを残した器物への愛」と定義すればわかりやすいのではないか。「自然の味わい」は「素朴な味わい」と言い換えても良い。そのように定義すれば、わびは素朴を愛する美意識に包摂されることになる。」(第7章「わびの革命」)
ここがどうしても私には理解できなかった箇所である。「自然の味わい」=「素朴な味わい」ということは自然=素朴なのだろうか。もっとも私には「わび」の何たるかが理解できていないのだから、これ以上議論は続けられない。それは承知をしているつもりである。自然=素朴というのは、器物への人の関りをできるだけ排除するということなのだろうが、それならば陶芸も、鋳物も、織物も、紙も、茶室というしつらえも、茶という製品からも人為、工芸というものを排除することになる。どこに線引きが出来るのであろうか。またそれを享受する人間自体が社会的な関係に溢れていいる。どうしても私には理解できない点である。
人為をどの程度排するか、人間関係に無理を強いない、などのことであればその危うい志向のバランスの上に「芸術性」を見据えることについては私は異存はない。
著者の断定の仕方には無理を私は感じた。
「日本美術の最大の特徴は庶民化(あるいは商品化)がすすんだことにあると筆者は考える。‥庶民的であることは大きなウェイトを占めていた。」(第8章「庶民ファーストなアート」)
「江戸時代初期に屏風の商品化とそれに伴うデザイン化が進んだことの背景には、購買層(富裕な商人層)の広がりがあるだろう。‥浮世絵版画の庶民性については述べるまでもなく、安価でありながらも高度に洗練された江戸の錦絵は、内外でも高く評価されている。文字絵や判じ絵は江戸中期以降主としてその錦絵の中で発達したが、それらは識字率が高かった江戸の町人が楽しむものであった。」(第8章「庶民ファーストなアート」)
「江戸の町人」という限定はいかがなものか。江戸以外の京・大阪に限らず各藩の城下町、そして農山村漁村等も同様に識字率は高かったのではないだろうか。
「第6章から第8章にかけて、素朴と庶民化という大きなテーマのもとに議論を勧めてきた。‥「はじめに」で述べたように、日本美術のオリジナリティはファインアートをはみ出す部分にあると筆者は考える。ファインアートの多くはリアリズムを基調とするが、そこからの利率区の方向は二つに分かれるだろう。一つはデザイン性を追及する方向、もう一つは素朴な味わいを追及する方向である。その意味で美術の大半を占める庶民的なアートはきわめて重要な存在であり、大局的にはわびの美意識もそこに含めることができるというのが筆者の主張である。」(第8章「庶民ファーストなアート」)