本日「椿の海の記」を読了。
池澤夏樹は解説で次のように記している。
「この本を前にした時に一つ大事なことがある。ゆっくり読むこと。今の世の中に流布している本の大半は速く読むことを前提にかかれている。ストーリーを追って、あるいは話題を追ってどんどん読み進めて、なるべく早く最後のページに至る。内容はすぐに忘れて次の本に手を伸ばす。しかし、これはそういう本ではない。」
「子供の頃を思い出しての随筆ないしエッセーではない。迂闊に読む者がそう捕らえて疑わない裏に手の込んだ仕掛けがある。おぼろな記憶を具体的な記述に換える伎倆があり、文芸のたくらみがある。四歳の自分に見えていた世界という伎倆によって今の我々にとっての世界を解釈しようという意図がある。それを実現するだけの文章の力がある。つまりこれは四歳の時の自分というスクリーンに投影された石牟礼道子の全人生なのだ。」
「「椿の海の記」はもともと文字にならないはずの失われた世界の至福を文字で表そうという矛盾した意図の産物なのだ。この矛盾が克服されてこれを読めることの幸福は体感でよくわかる。だから最初に戻って、ゆっくり読むことを言えばそれで解説は終わっていたとも言える。‥我々はこういう豊かな世界を失って今のこの索漠たる社会に生きているということである。それを象徴するようにチッソと原発が屹立している。この喪失感はとても大事なものだとぼくは思う。」
私はこの引用した最初の文書のとおり、本をじっくり読むということからもう40年以上遠ざかっているという反省の上に、池澤夏樹の指摘のようにこの作品を充分に味わってみた。どれだけ読みこめたか、それはまったく自信はない。しかし四歳の子供の世界をこれほど豊かに、大人の認識と子どもの認識を行き来しながら連続的に描いた力量に脱帽した。
喫茶店でこの本を読み終えて、すぐに「方丈記私記」(堀田善衛)を読み始めた。余韻に浸ることなく、次の作品に移るのは解説の文章に反する行為ではあるが、読みたい本の任力には抵抗できない。