第3章から第4章にかけて、なかなか読みごたえがあった。第3章で筆者は「個性の主張や、おのが感情の発露などという低次元の表現は何の意味もなさない。その音楽がどのように演奏されたがっているのか、楽譜に記された音符から読み解くことだけが奏者に課せられた責務である‥。‥それでもいかに自分の特性を音楽の背後に隠そうとしても、音の中に立ち現れる奏者独自の持ち味はそこから生みだされる。生まれ育った環境がひとの本質に影響を与えないわけはない」という問題意識が提示されている。
第3章の後半ではヨーロッパの音楽に大きな影響を与えた「チェコ」を取り上げ、「民族」について上記の問題意識への提起を記している。
「民族の定義には、言語や文化の同質性、肌の色や骨格などの外見、宗教的なものへの考え方など、さまざまな基準があろう。そのアイデンティティを何に求めるかも、多種多様だ。《内なる痛みを共有できる範囲を、最大限に広げたひとびとの集団》こそが民族を定義するための最も適切な解ではないか。‥(チェコ)が小民族であることの痛みを、何よりもきわだって体現した存在が、ハプスブルクの圧政から逃れるため、故郷を追われ各地に散らされた音楽家たちタブったからだ。」
「おそらく民族は虚構の物語だ。それでも途切れることなく人類がその物語を必要としてきたのは、痛みを共有することのできる「我々」という言葉を発することなしに、ひとは生きることができないからだ。外部を差異化しなければ決して「我々」という内側が生まれてくることはない。‥民族というものが本当に痛みを共有する共同体であるなら、異なる民族の哀しみにも思いを重ねることができるに違いない。それはわたしたちの向かうべき未来を指し示している。」
第4章は「演奏論・教育論」にということになるが、先の問題提起について「譜面を読む」という視点からの記述となると思える。
「譜面を読み取っていく行程は音楽の奥行きに触れる旅路ともいえる。‥いつか音楽はその姿を顕し始める。思っている以上に楽譜の懐は深い。譜面を読み込んで音楽を創造するという行為は、単に音符を音に変換するだけでは成り立たない。音符を音にすることと、楽譜を音楽にすることは似ているようでまるで違う。‥《楽譜を音楽にすること》と《音符を音にすること》は似ているようで断じてちがう。」
「なぜ人によってしか血の通った音楽をよみがえらせることはできない、といえるのか。それは人間だけに、「存在しないものを存在させることのできる能力」が備わっているからだ。」
「数々のミス、エラー、パグを発生させながらも、ひとが唯一高性能なデジタル機器に上がらうことができるのは、無いものを在るようにうふまう、こうした柔らかなこころのありよう以外になかろう。」
「奏者が変わらなければ音楽も変化しない。音楽が変わらなければ奏者も変化しない。どうやらこの二つは共生関係にあるようだ。一つ一つの音を吟味し、それらを有機的に結びつけ、音楽を招来しようとする作業-譜読み-はわたしたち自身と音楽とを高みへと導く。」
これらの文章を頭に入れながら、さまざまな音楽を聴いてみたい、と思わせる記述である。なお、第3章末の大学論はとりあえず今回は触れていない。