弱い雨が終日降り続いている。午後になって夕食のおかずを買いに私だけ買い物に出かけた。途中でコーヒータイムという贅沢、といっても一杯200円余のチェーン店。小雨の中を傘もささずに歩いた。帰りも行きと同じくらい歩こうと思ったが、少しばかり雨が強まったのでバスを利用。それでも1万歩あまりは歩いた。二日間汗だくの2万歩のウォーキングを行ったので、本日はひとやすみである。
ワクチンを接種した妻の具合は悪くはならなかった。雨の日なので、ちょうどいい休養日になったようだ。
明日は私の親の2回目と私の1回目。この分では私の親の付き添いは妻に頼めるようだ。娘も集団接種会場をのぞいてみたい、という希望があるようで、電車で駆けつけて来るという。親の付き添いは二人になるかもしれない。別の集団接種会場の私には、当然のように付き添いはない。途中で合流してから帰宅するつもりではいる。
夜になるに従い、気温が下がっており、半ズボンとTシャツでは肌寒く感じる。明日は晴れてほしい。せめて雨は降らないで欲しいものである。
オリンピック・パラリンピックのゴタゴタは見るにつけ、聞くにつけ、あまりの無残さに開いた口がふさがらない。
日本のスポーツ界を牛耳っている人間の思考と、保守派の政治思想の近似は、明治以降何にも変わっていない。科学的思考と客観的な判断がまともにできない。近代日本150年余、何事も進歩しないガラパゴスの動植物に失礼かもしれないが、ガラパゴス国家なのであろう。
私は、小学生の高学年以来高校まで、体育教師というものはすべて根性論と軍隊式命令口調と集団主義の暴力教師しか知らない。体育教師とは満足に会話をしなかった。真剣に会話することを私から拒否してきた。だから私は個人でするスポーツ以外はすべて嫌悪の対象である。スポーツ番組を見るたびに、気分が悪くなる。
髪の毛が耳にかかっているので長すぎると50mも体育教師に引きずり回されたり、炎天下整列させられふらついたといっては罵声とともに膝を蹴とばされたり、無駄口が煩いといっては連帯責任と称してクラス全員体育館のなかを50分走らされたり、手本通りにできないと侮蔑の目で蔑まれ、ということを幾度も経験してきた。今でもそんなことが学校でまかり通っていると聞くたびに背筋が寒くなる。
すべての体育教師が私の体験したような教師とはいわないが、少なくとも今オリンピック・パラリンピックで組織の「責任者」でそのような傾向を醸し出していない人を見つけるほうが私には難しい。
スポーツに邁進する人の、あの「人に感動を与える」という傲慢・思い上がりはいったい誰が、どこで植え付けているのだろうか。理論的、科学的、分析的な解説をするスポーツ選手は実に少ないと感じる。友人に言わせると野球などでは最近そのような人が増えている、ということである。少しは救いがあるのだろうか。
スポーツと政治を安易に乗り換える人もまた依然として多い。これもまた困ったものである。