今朝になってから、昨晩取り上げたジェイコブ・モーアの《大洪水》を見ながら、旧約聖書の「ノアの洪水」の部分第6章~10章を読み返した。同時に再度図録を拡大鏡で見直した。
聖書では箱舟に乗ったのは、ノアと妻、3人の子とその妻の計8人となっている。
拡大鏡で図録を見ると確かに舟の上にいる5人のほかに、右側と艫に半身だけの人物がいる。また舟の先に浮かんでいるのも一人の人物に見えないことは無い。そうすると創世記の記述のとおりの8人になる。
ここまでは作品が創世記の記述にのっとっていることはわかる。しかし舟の上の5人も項垂れ、疲労困憊、絶望の極みのような姿勢である。半身海の中の2人、浮かんでいる1人にも世紀は感じられない。
多くの人は、アララト山の頂上に着地した箱舟から鳩を放ち、オリーブの枝を持ち帰った鳩をさらに7日後に放って、収容した動物とともにノアの一家は舟を離れる。こうして神はノアと契約を結ぶ。アダムとイヴに述べたことと同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ。‥雲の中にわたしの虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。‥」
この雲の中の虹がこの作品の中心の太陽によって生ずる直前を描いたのだろうか。それにしては登場人物は死に体である。希望を感じることは無い。また収容し放たれた動物などは省略されたにしろ、情景はどう見ても難破船と遭難者である。洪水や暴風や津波という自然の災禍をまともにくらった瀕死の人間が描かれているとしか思えない。
私には、さまざまな自然の災禍に打ちのめされ、瀕死の体験を経つつも、生きつづけざるを得ない人間の弱さもしぶとさも感じる。絶対神と自然崇拝の間を揺れ動く神の概念、言葉と思想を得て人間が生んだ神という概念に逆に翻弄されてしまう矛盾、そんなことを作者は気がついているのではないか。
あたかも1787年の作、2年後はフランス革命の年である。神の呪縛が融けていく時代が始まっている。
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こういう尽き方は望みませんが、日本でも、この百年、間近にこんな光景が繰り広げられていたのでしょうな。今こうして、このような文章が書けているというとことは、不幸ではなく、かといって、幸せともいえない状況ですな。巴水の名が出てきましたが、私はどうも同じ月とは思えませんが、ううむ、難しい……
今、何が求められているか、藻搔き綴るしかないのでしょうが‥‥。