★片蔭をうなだれてゆくたのしさあり 西垣 脩
★片蔭の家の奥なる眼に刺さる 西東三鬼
★炎昼いま東京中の一時打つ 加藤楸邨
片蔭を季語とした句をさらに2句と、俳句ならではの語ではあるが、これも私が気に入っている季語の炎昼。
第1句、語のつながりが不思議な句である。「うなだれて」というと青息吐息、疲労困憊で夏の暑い日差しのもとを汗を拭いながらようやく歩いているような情景を思い浮かべる。ところが「たのしさあり」と続いてしまう。読んだ人は肩透かしを食らってしまう。
しかしウォーキングないしジョギングをしていたり、陽射しのもとで元気よく歩いている子どもにとってはひょっとしたら不思議でもなんでもない光景の場合もある。
さすがに顔を上げで歩くことはないが、暑い日差しのもと地面を見ながら歩いていると、片蔭や電柱の細い影の部分を飛び跳ねるように伝って歩いているときもある。「うなだれる」を「下ばかり見ながら」に変えてみると不思議に何のこだわりもなく意味が通じる。
言葉とは不思議なものである。いったんその後の働きやイメージにとらえられると抜け出せなくなる。私もウォーキング中にそんな思いをしたことがある。同じイメージを持っていても俳句に定着する優れた感性の人もいるが、何の感興も湧かない私のようなにぶい人間もいる。
第2句、余りの暑さに日かげを求めて軒を借りてしまったときに、家の人と視線が合ってしまった時の驚きの句であろう。人の家の軒先を無断で借りた、という後ろめたさがあるゆえに、視線が目に刺さるのである。暗闇に潜む目だからこそ鋭い視線なのである。
二つの句とも、キリコの作品を見るような不思議な句である。背景の人や登場人物が極端に少ないのである。人をあらかじめ排除して、作者が見つめる視線が極端に細く、人間関係が希薄な「語」をわざわざ選んで配置しているような句である。
人間嫌いの句ともいえる。一人で息をしている雰囲気を漂わせ、一人で気難しい顔をいつもしているが一人のときに顔をほころばせ、いつもは他者を拒否する語感の句である。それでいながら他人の眼を気にする。その視線から過剰な情報を読み取り、ひとりで傷つく。そんな作者を思い描いた。
第3句、これもどこかシュールで、ひょっとしたらダリの絵に描かれる、ぐにゃりと曲がった時計を思い出した人もいるだろう。不意に襲ってくる未来に対する不安、現在の状況に対する違和、過去の出来事からの逃避、そして世界と自分とが断絶してしまう一瞬というのがある。これは夏の強い陽射しのときにかぎり起きる現象だ。暖かい陽射しに包まれた春や秋、身を引き締めて世界と対峙している冬とは無縁である。
炎昼という語は、1938年、山口誓子の句集「炎昼」により広まった季語であるとのこと。「万緑」の中村草田男と同じように、俳人にとっては新しい季語の担い手となることは何ともすごいものである。