会場に入って最初に目に付くのは、旧約聖書に基づく「光の創造」(ジョージ・リッチモンド、1826)、その次にウィリアム・ブレイクの「善の天使と悪の天使」(1795-1805)、「アダムを裁く神」(1795)である。
しかし今回特に印象に残ったのは、ウィリアム・ターナーの後半生の4作品である。
ターナーというと当時の産業革命で変っていく社会を基に、どちらかというと肯定的に捉えた風景画で有名である。しかし図録の解説によると、後期になると「より気難しくなり、人と会うことを拒むようになった」という。旧約聖書の物語を主題に、迷走的で内省的な作品になっているような感じを受けた。
《陽光の中に立つ天使》では、神の死者として天使ミカエルが審判の日に現れる様子を描くが、画面したには、旧約聖書に記されたさまざまな殺人と裏切りの場面が描かれているとのこと。画面はターナーの他の作品同様模糊としてわかりにくいが、アダムとイヴがアベルの骸に泣き、ホロフェルネスの首を切り取ったユディットが描かれているらしい。
ターナー自信が何かに怯えているような画面にすら見える。ブレイクならば無慈悲で気まぐれで計画性がない独裁者的な神を揶揄的に描いたかもしれないが、ターナーにはそれが出来ないのであろうと、推理してしまった。
もう一枚の作品《光と色彩(ゲーテの理論)》では、大洪水を引き起こした無慈悲で気まぐれな神との「洪水後の神と人間との契約を祝福するものとして描いた」(図録解説)ということになる。この解説が正しいのか、私には判断は出来かねるが、暖かい黄色の円の中心のモーセの姿は確かに「救い」の中心にいるようだ。だが、解説では触れていないが、モーセの下にいる輪郭だけの人間のような形は誰なのだろうか。何を象徴しているのだろうか。私はこの黒っぽい輪郭線がとても気になった。今もって何を描いているのかわからない。下半分の緑がかった靄とした部分と丸い形状が何を描いているのか、また下部中央に人の形のようなものが描かれている。これもわからなかった。しかしとても気になる。解説のような「祝福」に関連する何ものなのか。
ターナーと同時代のジョン・コンスタブルの原画に基づく版画のコーナーにも惹かれた。モノクロームの鮮明な版画にコンスタブルのこだわった風景が美しいがことに雲は秀逸であると感じた。
印象派の作品にも惹かれたが、その中ではハマスホイの「室内」(1899)がとても懐かしく感じた。実は2020年の「ハマスホイとデンマーク絵画展」で見た作品かと思っていたが、当時の図録を見るとこの作品は展示されていなかった。似た構図の作品を繰り返し描いたことがわかる。
そしてハマスホイの作品はまったくの室内の調度だけの作品よりも、妻のイーダの登場する作品のほうが、「不在」と「静謐」が強調されて、私は惹かれる。生活感のない室内、一瞬前の時間だけしか存在しない空間へのこだわりを強く感じる。物語を秘めた静寂、という評価をされるかたもいるようだが、今回、私は物語を秘めた「時間」を感じることがなかった。
未来よりもごく短い過去へのこだわりによって画家は仮想の空間を作り上げている。画面から物語性を排除することで、かえって鑑賞者に作品から時間を意識させている、時間の意識を鑑賞者に任せているのではないか。