本日汐留ミュージアムで二川幸夫・建築写真の原点「日本の民家1955年」展を見てきた。
二川幸夫の名前はどこかで聞いた気がするものの、どんな写真なのかもまったくわからなかった。チラシを見て日本の古民家を撮影されている方であるとの認識を初めてした。チラシの「蔵王村民家の妻破風とニグラハフ」を見て美しいモノクロームの世界を垣間見て、是非訪れたいと考えていた。予想に違わず、私にはとても印象深い1時間を過ごさせてもらった。
私は会場に入るなり、この人は理系の眼も持っている芸術家なのかな、とうれしくなった。一軒の民家を正面から映したもの、俯瞰的な写真、いづれも角度をあおって撮影することはせず律儀ともいえるような、正面から、あるいは真上からの視点を撮影している。奇を衒うような写し方は一切していない。正攻法である。それは集落全体を写す場合も、内部の梁の構造を写す場合も同じだ。私はその方法が気に入った。
チラシに掲載された、屋根に雪が残っている藁葺きの家も正面から破風を捉えている。垂直に立てかけられた藁、垂直にぶら下がる氷柱、律儀な二等辺三角形の屋根と何の変哲もない空。不規則な雪が実に効果的にこの画面を左から右に横たわっている。この雪の質感がまるで左から右に動いているような錯覚を与える。それは雪以外の質感が垂直を基本としてカチッと画面に嵌って静止しているからなのだろう。
古民家を映していながら、主題は屋根に残る雪、蔵王という雪深い土地に住む人々のおしつぶされそうな息遣いのような気がする。
また民家の内部を映した写真も梁を中心に、撮影者の興味はその構造にあるような感じすらする。しかしじっと見つめていると、黒光りする柱の表面の質感、床のでこぼこの凹凸、土間の土の質感、どれをとってもそこには映っていはいないものの、そこの家に住んでいる、あるいはかつて住んでいた人々の息遣いが伝わってくるような錯覚に襲われる。
藁葺き屋根の藁の一本一本、床や梁の材木一本一本が息をしているようだ。合掌造りの家からは早朝の煮炊きで屋根全体から湯気が立ち上っているが、これなど家全体が生きていて、その体から汗がゆらゆらと立ち上がるような錯覚を覚える。家が生きていることを実感させてくれる。
いまではもう、そのような古民家は、家そのものの役割も、社会的な地位の発現としての役割も終えていて、いづれ消えていく運命であることは間違いないのだろうが、記録を美術作品としての価値を有したまま残すということのすごさを感じた。
また、民家内部の構造を映す作品には、技術屋さんとしての眼も持ち合わせているのだな、と感じた。構造自体の持つ美をそのまま受け入れて作品にしている。これも私は好感を持つことが出来た。
さらに集落全体を写したもの、俯瞰的な写真、などはその集落の持つ歴史性や民俗までも映しこんでいるように見える。
私が特に心惹かれた作品は「佐賀県、民家の草葺屋根」という一枚。画面の上半分は雲が映っている。その下に草葺の屋根の部分だけが正三角形
に映しこまれているのだが、ながめていると屋根がきっかりと画面にはめ込まれて不動であり、微妙に背景の雲が動くように錯覚する。
それはこの屋根の部分にキチンと焦点が合っていて、雲は少しだけボケている。この差がこの錯覚を生んでいることがわかった。不思議な感覚に襲われる作品だ。とても魅力がある。
古民家の民俗学的な興味で見るのもいいし、いろいろな見方に耐えられる作品群だと思った。
しかし如何せん、いくつかの作品のカードを購入しようとしても販売していない。図録を購入しようにも巨大過ぎる大きさで並製本が3780円というあまりにも高価な値段設定である。折角の気持ちのいい時間だったが、残念な気分になってしまった。