Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

雨の一日

2013年12月19日 22時38分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年最後の講座を聴きにみなとみらいまで出かけた。朝はほんの少しの雨なので横浜駅まで歩いたが、家を遅く出たので横浜駅からはみなとみらい線に乗ってしまった。
 講座終了後に表を見たらかなりの雨。外でおにぎりを食べるわけにも行かず、久しぶりに定食でも食べてみようかとランドマークタワー内を歩いてみた。サラリーマンでどの店も満員。1階から地下1階と満員が続き、地下2階まで降りたもののビールの専門店を除いて満員。地下2階を2周ほど歩いているうちに居酒屋が空いた。午後は講座も無いし予定も無いので、焼き魚定食を頼んだときについ、お酒を1合頼んでしまった。
 カウンターの傍の席のOL3人連れの、楽しそうな話しやその内のひとりの連れ合いのたわいもない悪口を聞きながら焼き魚をツマミに飲んでいたら、いつの間にか13時も過ぎてあっという間に店はガラガラ。店員が忙しく後片付けを始め、何となく邪魔みたいなのであわてて会計。
 やはりランチタイム時にチビチビお酒を飲む客は冷たくあしらわれるようだ。

 13時半になっても雨は小ぶりになるどころか少し強くなってきたので、再びみなとみらい線で横浜駅へ。有隣堂をぶらついて帰宅。入れ違いに妻が買い物へ出かけ、私はそのまま何となくベッドに行って寝てしまった。
 どうもしまりの無い一日になってしまった。ターナー展の感想も今ひとつしまりが無いようだ。

 明後日には下村観山展の感想も書いてみたいが、出来るだろうか。

 明日は関東地方の天気は荒れ模様らしい。風が強いのはつらい。



「ターナー展」感想(2)

2013年12月19日 20時23分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等




 この絵は1828年53歳の時の作品で「レグルス」。
 古代ローマの軍人レグルスの逸話(第一次ポエニ戦争でカルタゴの捕虜になり、ローマとの交渉役の結果カルタゴで瞼を切らて幽閉され、牢獄から出されたときに陽光を浴びて失明の上殺害される)に基づく。物語の主人公レグルスがどの人物かは解説を見てもわからないくらいに人物は判然としてない。建物も光にかき消されるほどに太陽の光が圧倒的に画面を支配する。この強烈な太陽を描いたことに当時は賛否両論があったらしい。私はこの物語を使ってターナーという画家がイギリスとは違う地中海の強烈な太陽を画面に固定しようとしたと理解した。私もイタリアの明るく、湿気のない太陽の光に感銘を受けた。風景ものものを劇的に描こうとした画家の意志が感じられると思った。
 このような太陽を私は見たことがない。日本の太平洋岸や日本のアルプスでの日の出・日の入の光景はとても柔らかい。水分を含んでいて情緒的な太陽だ。地中海は日本の自然とは違う自然に支配されていると肌で感じた。多分ターナーもそう感じたのではないだろうか。



 この絵は1832年57歳の作品で「チャイルド・ハロルドの巡礼-イタリア」。バイロンの物語詩に基づく絵という。
 この作品は先の「夏目漱石の美術世界」でも「坊ちゃん」に出てくるターナーの絵の候補として「金枝」(1834年)とこの絵の版画版が展示されていた。ローマの松はこのように枝が上の方で別れ葉は天辺に開いたようにしか付かない。ただし「坊ちゃん」会話の中で幹が「真直」という赤シャツと「曲がり具合」を指摘する野だとの掛け合いからは、「金枝」の方が漱石の頭にあったような気はする。
 あるいは日本の松とイタリアの松は似ているわけがないので、赤シャツと野だの知ったかぶりを茶化しているとすると、特に具体的な絵のことを念頭においた会話ではないとも思われる。漱石がイギリスで見た印象深いターナーを念頭においていただけというのが実際のところかもしれない。
 この二つの作品、ターナーのほぼ同時期の作だが、私の好みでいえばこちらの人物の方が動きが自然であるし、水(湖か?)がはっきり描かれていて好ましいと思う。ターナーは水が描かれていないとターナーにならない、と勝手に思っている。



 この「日の出」は1835~40年にかけての水彩画とのこと。画家は50歳代前半である。
 水彩画として未完なのか、完成なのか、あるいはスケッチなのか、習作なのか、知りたかった。どうも発表を前提としない習作のようなものらしい。つかの間の一瞬をすばやく描きとめているその手並みに感心すればいいのだろう。
 初期の人物を配したり、歴史画に題材をとりながらも風景に力点を置いた作風から、劇的な気象の場面の風景へ、そしてごくありふれた風景そのものが自立的に扱われるようになってきた流れを再確認できたように思う。風景そのものが画家の主要な関心を引いているのだと感じる。ごくありふれた風景そのものに人間と自然の関わりを見出したり、自然を見る観方に個性を発見したりするようになったのではないだろうか。
 私はこの「日の出」を見てモネのあの有名な「印象・日の出」(1873年)を思い浮かべた。このような作品が、自立した風景画として紆余曲折はあれ成立するまでには、しかしまだ40年という時間が必要であったということである。しかもイギリスではなくフランスという土地でなければならなかったようだ。

 1851年に76歳で没したターナーの作品は、ほとんどがイギリスのテート美術館に遺贈された。今回のターナー展は、このテート美術館のコレクションから油彩画30点と水彩画など80点が展示されている。
 昨日も記載したが1989年の横浜のそごう美術館での「ターナー水彩画展」は、ジョン・アンダーソン(アメリカのコレクター)の収集品によるものであった。
 そしてほとんどが制作年代が不明のうえ、順不同に並べられていたので、ターナーと自然の関わりの変遷はわからなかった。だが、当時のターナーの絵は今回展示された作品よりももっと色彩が鮮明であった。

   

 その時印象に残った作品は、上が「城の入口」(1828年)、下が「大気、海」(1842年)となっている。
 「大気、海」と今回の「日の出」とは相通じる自然把握であると感じた。
 油彩画よりも自然把握がより現代的に表現されているとあらためて感じた。
 しかし同時に、水彩画と油彩画の印象の違い、鮮明な形態描写・色彩と、朦朧とした形態描写・色彩の差、年代による差について、一概にはいいきれないものを感じた。
 これからもいろいろと勉強しなくてはターナーという画家の全体のイメージは出来上がりそうもない。
 こんなことを考えながら会場を後にした。


「ターナー展」感想(1)

2013年12月18日 22時07分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 ターナー展は先月21日(木)に訪れた。特に混んではいなかったのでゆっくりと見ることができた。カタログを見たら本日が東京都美術館での最終日となっている。もうそんなに時間が経過したのかとびっくりしている。
 実は今から24年前の1989年2月に横浜のそごう美術館でターナー水彩画展が開かれている。そのとき鮮やかな色彩の水彩画を見て感銘を受けたことをよく覚えている。
 今回の展示と比較して随分おもむきの違うと感じた。それは水彩画と油彩画の差であると同時に、水彩画自体もいろいろな雰囲気の絵を描いたのだな、という印象を受けたためだ。どう違うのかははっきり言えないが、今回の展示はどちらかというと水彩・油彩ともに未完のものが多く、描かれている対象が曖昧な輪郭・朦朧とした印象である。前回は初期の水彩画が多かったためかと推察している。



 今回の展覧会で最初に私の目にとまったのは、1797年22歳のターナーがロイヤルアカデミーに初めて出品した油彩画「月光 ミルバンクより習作眺めた」。月を正面中央にすえて周囲が暗く沈んでいる。晩年になるにしたがい太陽を描くことが多くなった画家であるが、この落ち着いた静寂の中のテムズ川は、とても好ましく感じられた。いろいろの人の影響を消化した成果があるとのことだが、月の光の描き方はターナー独自のような気がした。
 


 この絵、はじめは水彩かと思ったが油彩であった。
 1802年27歳、アルプスを旅した時の作。セザンヌのサンヴィクトワール山の絵を思い浮かべた。山の形の描き方、幾何学的な把握も、配色も似ている。前景の白い建物のような塊は街なのであろうか。左の黒い塊は人の群れか木立が、はっきりしない。この白と黒の水平線が画面を上下に切っているのが不思議な感じである。これが画面を右へと広げる効果があるようで、右奥の青と白の遠景の山が浮き出る感じがする。構図的には禁じ手であるのに‥。



 これも1802年作の「エジプトの第十の災い:初子の虐殺」。モーセが出エジプトをファラオに認めさせた際の、神のエジプトの民への10の災いの最後のもの。これを目の当たりにしてファラオはモーセの求めを認めたことになっている。モーセとはむごいことをする神である。
 この絵は歴史的出来事、あるいは聖書の記述という題材を描いているが、人物は小さく描かれ題を見ない限り何の題材かはわかりにくいと思う。風景画が主体である。しかしまだまだ、風景画として自立した絵画とはいえないと思う。物語にあわせた不気味な天候の風景なのか、不気味な風景を描くために物語を配置したのか、わからないが、出来た敬意からは前者ではある。しかし本当の作者の意図は後者のような気がする。
 左上の雲間から日がさして右手の建物が日向になっている。子を失った女性に当たる日の方が弱い。いろもくすんで緑の森に消えてしまいそうである。物語性は希薄だ。



 こちらは1810年35歳の時の「グリゾン州の雪崩」。実際に雪崩で山小屋が潰され25名の犠牲者を出した事象を描いているらしい。
 まず私はこれが雪崩だとは気付かなかった。解説によると技法上かなりの工夫を加えて雪の押し寄せる臨場感を出そうとしたようだ。そして右中の大岩が木造の建物を今にも押しつぶす一瞬を描いているということがわかった。
 私はこの絵を見て、クールベの絵を思い出した。雪の質感がクールベの大きく覆いかぶさってくる大波の絵を連想させたから。クールベのほうがずっと若いが一部生存時代は重なる。人のいない風景画が、自然の力として大きな迫力をもって表されている。このような瞬間を表現することが求められた時代なのだろうか。ちょっと大仰な気もするし、ターナーの世界からは少し異質な気もした。

やっとターナー展感想作成中

2013年12月18日 15時33分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昼前からターナー展の図録と格闘しながらスキャナーを動かしている。図録が分厚いのですぐにずれてしまう。いらいらし通しである。淡い色の絵なので画像が図録の色と微妙に違ってしまう。ひとつの絵で何回もスキャナーを動かすことになる。
 ようやく先ほど7枚ほど完成した。後2枚程と思っていたが、これでお終いにしてしまう。夜に文章が完成すればアップできそうである。
 とりあえず休憩をかねて、横浜駅まで出てみようと思う。おいしいコーヒーを飲みたい。講座の受講料も一つ振り込まないといけない。テーブルの上に置いたままにしておくと回収されてしまったら悲しい。外は雨が降り出しており、かなり寒い。しかし家でじっとしているのはさらにつらい。

 1989年のときのターナーの水彩画展(横浜のそごう美術館)の時の印象と、今回のターナー展の印象が大分違う。絵を見る感覚も変わっているが、水彩画と油彩画の違いなのか、初期が多かった前回と、わりと未完成作が多く油彩画中心の今回の差がよくわからない。文章が出来上がってもわからないままだと思う。わからないものは、そのままわからないこととして、しばらく頭の中にあたためて置くしかないようだ。

年賀状印刷完了

2013年12月17日 23時34分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 年賀状の印刷が無事完了した。妻用のデザインのものも今終了した。例年よりは早く済んだが、新しいパソコンが年内に届くのでセットアップやソフトのインストールなどで年末までは結構あわただしくなる。これを考えるとちょうどいいか、少し予定よりは遅い感じもする。新しいプリンターはノートパソコンからも順調に印刷できた。パソコンの違いによる印刷の差は出ていないと思う。
 年賀状を作成するに当たり、一年間の私の行動を思い出してみた。今年一年は実にいろいろなことをした。国内外、いろいろな場所に行った。残念ながら山登りは3回、それもリュックを担いでの山行は2回のみであった。来年は何とかもう少し回数を増やすか、長期の山行にするか。旅行の回数が増えたからやむを得ない結果だとは思うが、残念であった。
 一年間の行動わ年賀状にはあまり膨大過ぎて、記載できない。一部の講座の感想を除いてすべてブログに掲載しているので、自分なりのまとめと整理はそれで出来ていると思う。

 25日には、昔の所属から依頼のイベントのカメラマンを引き受けたのだが、問題は撮影した写真の処理である。新しいパソコンには画像ソフトを入れる時間的ゆとりはまだ無いと思われるので、ノートパソコンで処理をするしかない。少々時間がかかるかもしれない。ただ壊れたパソコンよりはノートのほうがネットの画面展開などは速いのが救いだ。壊れたパソコンの処理速度はかなり遅くなっていたのがわかる。やはり何かハードの部分で異状があったのであろう。
 プリンターもスキャナーもキチンと動いてくれている。

 さて、ターナー展は下村観山展の感想はまずは気に入った作品を選択から始めることで何とか形にしなくてはならない。明日、雨・雪なので一日籠もってこれに挑戦してみようと思う。

明日・明後日は関東地方も雪?

2013年12月17日 20時14分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 年賀状は三分の一ほどを仕上げた。一部メールアドレスを間違えたが、今も生きていて使用しているアドレスなので刷り直しは無しということで済ませることにした。残り三分の二は間違いがないように、本日中に仕上げる予定。数枚ごとに、あるいは一枚ごとに一部文面を変えながら印刷しているので、時間がかかる。親族用には大幅に文面を変える必要がある。すべて終るのは夜中過ぎになりそうだ。

 朝からひどい下痢で体調は思わしくない。市庁舎までの行き帰り、歩き通すつもりだったが、行きは結局横浜駅から電車を利用してしまった。帰りも横浜駅までは歩いたがその後は電車を利用した。体力が消耗しているというより、気力が続かない感じである。おなかが重苦しい。
 本日の朝は特に悪いものは食べていない。昨日の午後から口にしたものを思い浮かべてみたが、悪いものは思い浮かばない。これ以上考えてもしょうがないのでそのまま放置している。治らなければまた何らかの手立てを考えるしかない。

 明日・明後日は関東地方も雪が降るとの予想になっている。天気予報の精度は随分と向上しているが、南岸低気圧にともなう関東地方の雪はほんの少しの気温の違いで雨、雪の差が出てくる。極めて微妙な予報と昔から言われてきた。明日・明後日の雪の予報が当たるか、外れるか、気象を予報する担当者は責任重大で緊張しているのではないだろうか。
 降る、降らないで実に多くの人のエネルギーが左右される。外れても予報する人に寛容な社会であって欲しいと思う。確かに経済活動への影響は極めて大きい。降らなければ官民問わず何十万人という人の待機や準備、車両・機械の待機、交通網の確保、放送関係、宿泊施設などでの対応が無駄になる。無駄になったほうがいいのだが、経済的ロスであることには違いない。
 学生の頃、この南岸低気圧という言葉もまだ聞きなれない言葉で、私が天気予報で聞きかじった内容を友人に伝えたもののうまく説明ができず、理解してもらえなかったことがある。
 関東地方は、冬が寒いからといって雪が多いわけではない。逆に温暖な冬にこそ雪が多く降るといわれたときもあったが、今はそういう説明ではないらしい。しかし雪が多い、少ないということと、冬の気温の全般的な寒暖とも違うメカニズムがあるらしい。関東地方の雪の多寡を決めている要因、それは不勉強な私にはわからない。だれか教えて欲しいと思う。

悲しくも笑えるインコの習性

2013年12月16日 23時37分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 私は基本的には辛いものが好きだ。ただし塩辛いものはあまり好みではない(といってもイカの塩辛とは好きである)。しかし私の頭頂部はことのほか汗腺が多いと見えて、辛いものを食べると大量の汗が吹き出てきてくる。外で辛いものを食べると、持参のハンドタオルや店で出す手拭では到底たりない。辛いものを食べるとわかっているときはタオルを持参しなくては間に合わない。きれいな話ではないが鼻水もクシャミも大量に出てくることがある。だから外食ではあまり辛いものは食べることができない。
 先日、家で昼ごはんに妻がスパゲッティを出してくれた。タバスコとあらびき胡椒を多めにかけたところかなり辛くなり、いつものように頭のテッペンから大量の汗が吹き出てきた。食事が終ってお茶を飲んでいる時もまだ汗が出てきて往生していた。
 くつろぐために、我が家の雌のインコと戯れようと籠から出したところ、いつものように私の頭に止まって部屋の中を見回していた。が、頭のテッペンがくすぐったくなってきた。インコが私の頭から出ている汗を舐め始めたのだ。妻がそれを見て笑い転げながらインコに対して「そんなことをしてはダメ」と払いのけようとしたがすぐに舞い戻ってくる。いたく気にいったようである。
 「ミネラルを補給しているのかな」と思ったが、普段はボレー粉をキチンと与えているので、ミネラル不足とは思えない。くすぐったくもあり、何ともいえない心境になった。
 このインコ、私のはいている靴下とスリッパも気に入っていて、籠から出すとすぐに寄ってきてスリッパと足の間にもぐりこもうとする。普段から髪の毛をつつくのも好きである。とうとう男の汗までが気に入ってしまった。
 妻に言わせると「どうしても止めさせたい」行動らしいが、このインコ、やめる気配はまるでない。ひたすら靴下とスリッパ、そして私の頭のテッペンの汗を舐めたがる。
 何とも複雑な気分である。

「軽く」忘年会

2013年12月16日 22時36分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は退職者会の幹事会の後に、「軽く」会費500円で忘年会を行った。500円会費でも、半数の20名も集まれば乾き物のツマミであればそれなりにお酒は用意できる。会場費がかからない自前の会館のいいところである。
 話がはずんで会館を出たのが17時半過ぎ。「軽く」の予定だったが、それなりに酔ってしまった。昼前からの会議のために、家から1時間半歩いて会館まで歩いた。帰途も歩いて帰ると一日の歩数目標22000歩を大きく越える。そのつもりでいたのだが、会館を出た時間が遅くなり一駅分しか歩くことが出来なかった。
 電車を利用して家についてそのまま眠ってしまった。先ほどようやく目が覚めて、この記事にもならない記事を書いている。

 明日は講座の予定は無いが、市庁舎に出向く用事ができた。一年に一度の「お手伝い」という名のまったくのボランティアだが、「必要」といわれておだてられると断るわけにもいかない。妻に言わせると単なる「お人好し」なのだが、昔の仲間に会うのは楽しいものである。

 本当は昨夜にできた年賀状の原稿を使って、一部を印刷する予定であったが「酔い」を理由に明日以降に延期。またまた一日行程が先延ばしになった。これでも生きていけるのが「定年後の世界」ということであろう、と勝手に決め付けている。

本日の作業は終了

2013年12月15日 21時14分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は朝から団地の管理組合が実施している大規模修繕工事のごく一部の完了検査のために五階建ての屋上まで足場を上った。久しぶりに工事用のヘルメットを被り、落下防止金具を着用した。現役時代は毎日のようにヘルメットを被って現場周りをしていたので頭に被ると懐かしい。
 しかし建築現場での経験は無いので、修繕跡を見てもなかなか着眼点が定まらない。いろいろ業者に頓珍漢な質問を繰り返しながら少しコツを覚えたと思ったら、すぐに一巡が終ってしまった。ちょっと情け無い思いもしたが、最低限の役割は果したかと思う。
 しかしこのヘルメット、40年前の布製の紐から随分と進化した。現役で仕事をしていたときは、電気絶縁用の発泡スチロールも詰まっていて蒸れて煩わしかった。本日は一番簡易なものだったので特に違和感はなかったが、逆に大昔のヘルメットの感触が少し蘇った。
 19歳の学生の頃からヘルメットを被ることには慣れていたのだが、懐かしいという感情を持つとは思わなかった。デモ用のヘルメットはちょいと懐かしいというよりも、苦い思いの方が強いので実際にもう被ることはありえないだろうが、そのことは自分の人生の中の一齣として否定などしないし、かといって誇ることとも思わない。無かったことのように捨て去ることは断じてないが‥。

 その後、仙台市などで行われた女子駅伝を見ながら、住所録の整理や補正を行い、年賀状の宛名書きだけは印刷することが出来た。丸一日かかってしまった。住所録の整理、補正に時間を取られた。やはり使い慣れないパソコンは時間がかかる。また住所録の補正をここ数年していなかったので、電話番号などの情報がうまくまとまっていなかった。これを補正したことも時間がかかった理由だ。また同じ分類のものでもあて先によって、差出人が私一人のものと、妻と連名のものに分けて印刷する。これも時間がかかる理由になる。
 来年には新しいパソコンで、住所録をいくつかの大項目で分類、分割して保存したほうが便利のようだ。

 夜になって文面を仕上げにかかった。あと少しで、年賀状の文面の第1案ができる。この第1案は、学生時代の友人向けのもの。これを少し変えて組合関係の友人たち向けのものを作る。第3案はごく一般的な年賀状形式にして親族向けと妻用のものにする予定。

 このテンポでこなしていって果たして、ターナー展と下村観山展の感想が年内に書ききれるだろうか。ちょいと心配になってきた。


「川瀬巴水」再考

2013年12月15日 15時29分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 今日の朝何気なくテレビを見たらNHKの日曜美術館で「川瀬巴水」を放映していた。現在千葉市美術館で展覧会を開催しており、その紹介を兼ねての放送であった。実は大田区立郷土博物館「川瀬巴水―生誕130年記念―」を来年の3月2日まで開催している。こちらは年明け草々にでも第2期の展示を見に行こうと思っていた。1月25日から第3期の展示となるらしい。
 また千葉市美術館の展覧会は来年1月19日までだが、全国を巡回するらしく横浜展(3月19日~3月31日:横浜高島屋)と表示されていた。不安なのは千葉市美術館は広い展示場だが、横浜の会場ではあのような広いスペースは確保できない。展示内容が縮小してしまうのであれば、千葉に見に行きたいものである。
 このブログでも以前に川瀬巴水は幾度か取り上げた。本日の放映には映画監督の大林宣彦氏と、作家の林望氏がコメントしていた。その中で林望氏は、巴水の作品の特徴として「水」「夕景」を揚げていた。同感であるが、私は「水辺」「月夜」「雪・雨」「明かり」「巨木」だと思っている。現在という時点からみて懐かしい風景ということでは都市化の中で消えそうな「水辺」や「明かり「月」が懐かしい。
 また大林宣彦氏は風景の大胆な切り取りという点を指摘していた。金閣寺や芝増上寺などの作品はそのとおりである。さらに「小さな明かり」ということを指摘していた。
 私も気がつかなかったのだが、「東京二十景」のシリーズは、関東大震災で壊滅的打撃を受けた東京の暗い夜の街を浮かび上がらせる「小さな明かり」に着目しているというのである。なるほどと合点した。単に「明かり」ではなかったのだ。風景を浮かび上がらせる「小さな明かり」が、重要なのだ。壊滅的な打撃を受けた東京の夜に小さな明かりをたよりに浮かび上がる風景を描いていたと理解することが大切であった。鉄橋を行く人力車を照らすガス灯や提灯の灯火、これが都会の夜を灯していたのだ。
 そして私は「点景としての人物」に注目していたが、絶筆の金色堂の後ろ向きの僧侶などのようにわざと顔の表情を描かずに後姿を描いたという表現を大林監督はしていた。映画監督の目からはそのようにとらえられるのであろう。これも参考になった。
 「点景」というよりも「表情を隠した」「後ろ向き」の人物に人生を感じさせるという手法なのかもしれないとも思う。顔の表情が出ている作品にどうも私が今ひとつピンと来なかった理由のひとつかもしれない。
 ネットなどでは「現代の広重」という表現があるが、これは果たしてそのまま受け入れていいのだろうか。広重の風景画の斬新さはあの特異な視点、構図、そして強調である。これは単なるこけおどしの絵とは違う力がある。川瀬巴水という人の作品は確かに視点がいい。構図の切り取りもすごい。しかし度肝を抜くというような奇抜さはない。この奇抜さがないということが作品のすぐれた点であることを考えると、「現代の広重」というのはちょっと違うとおもう。「郷愁の画家」といってしまっては俗っぽ過ぎる。もう少し的確なキャッチコピーが欲しいところである。

地震の土曜日

2013年12月14日 14時17分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほどの地震、揺れがゆっくりだったので震源は遠くて、かなり深いのかなと思っていたら、銚子市のすぐ南の沖合いで深さはそれなりに深く50キロとの情報。ゆっくりの揺れだが、振幅は大きかったようだ。しかしどうもこの頃体感から判断する遠近・深浅が外れる。感覚が鈍くなっているのか、あるいはもともと感覚は当てにならなくて、これまで当たることがたまたま多かっただけなのか‥。自信をなくしてしまっている。

 一昨年の地震の震源域からは外れているようだが、震源域の外側周辺の地震の予想はどうなのだろうか。むろん予想は極めて難しいものであるが、日本の周囲はどこで大きな地震が起きてもおかしくない世界的に特異な場所であることも事実である。地震の発生予想を語ることは、残念ながら私の能力をはるかに越えている。

 昨晩予定を立てた年賀状の校正・作成は出来なかった。発送準備で住所録のチェックや喪中ハガキの整理をしていたらもう昼を過ぎてしまった。
 壊れたパソコンの周囲の片づけを少しだけ手をつけた。壊れたり使いづらいマウスや旧タイプのUSBハブとその電源コード、カード式ハードディスク、1ギガ未満のUSBメモリー・SDカードの類、
カード読取機、フロッピディスクやそのドライブなどが埃にまみれていっぱい出てきた。どれも廃棄処分である。紙類の整理は後回しにした。メモリーの類はペンチで破壊した。疲れてしまった。
 しかし廃棄することが好きな性分にもかかわらず、これだけのものがよくも溜まってしまうものである。生活をしているといろいろとものが溜まってくるというのは真実である。余程こまめにしっかりと常に廃棄をしていないとやはり溜まり続けるものである。

 溜まるといえば、本。最近は購入だけしてそのまま「つんどく」が多くなっているので廃棄しにくい。困ったものである。天井まである本棚から本が溢れていて、危険だし見てくれも悪い。私が死んで廃棄の面倒をかけるのは忍びないので、早いうちに片付けることも自分の始末の大切な作業だと思っている。昔なら古本屋さんに来て貰って買い取ってもらうということが出来たようだが、今は古本屋さんは持って言ってくれない。ゴミとして処分するしかない。

 今朝布団の中で、思い出した。ターナー展と下村観山展の感想、まだ手をつけていなかった。これはまずい。明日辺りから少し手をつけなくては忘れてしまいそうである。

本日の作業

2013年12月13日 23時43分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 例年は正月の2日に一番年上の叔母の家に集まるのだが、支度がつらくなってきたようなので、お店で新年会をすることにした。
 ということで正月2日に親族と集まる場所を探しに、大森駅前を妻と散策。二つほどの候補を探し当てた。どこの駅前にも出店しているチェーン店は24時間365日営業で元日から得異議要している。しかし地元の店の大半は来年は5日ないし6日からの営業である。まあこれが普通の感覚であって欲しいと思いながらも、こちらの都合で2日からやっている店を探してみた。
 大きなビジネスビルの中のレストランなどはビジネスビルの営業にあわせて4日からというのが多かった。
 さんざんまわって疲れた頃、ようやく駅ビルの隣のビルで2日からやっている落ち着いた雰囲気の店を見つけた。チェーン店ではあるが、落ち着いた雰囲気が身上の店である。個室もあり高齢の参加者ばかりの小さな親族の集まりにはちょうどいい。値段も高くない。とりあえず候補としてこのビルの二店のパンフをもらってきて、親族に投げかけることにした。
 途中で遅い昼食、いつもはおにぎり1個の世界だが、奮発してインド料理の880円のセットを注文した。ナンとご飯がついてボリューム満点。2人とも夕方まで胃がもたれてしまった。
 帰途に年賀葉書を購入。これまでとちがいインクジェット用にした。
 帰宅後から、ブログの記事を大急ぎで作成。その後、退職者会のブロックの運用についての試案を作成し、他の幹事に送信。さらに年賀葉書の文案を作ってみた。
 ここまでやって時間切れというか、疲れたので年賀葉書の仕上げは明日にまわすことにした。
 明日はこの年賀状の文案作りを午前中におおよそ目処をつけたい。午後からはパソコンが年末に届くので、壊れたパソコンの始末を始めないと間に合わない。もう使うことのないMOやら、外部記憶装置としていくつか使っているUSBメモリやらの整理、パソコン台とその周辺の掃除、用紙類の片付けなども行わないといけない。畳2畳分のスペースの大掃除である。これは大分疲れそうな作業になる。しかも午後だけでは到底片付くそうも無い。壊れたパソコンの購入時から一度も片づけをしていないツケが‥。歳末になって面倒である。

秘密とは

2013年12月13日 19時04分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 私が高校生のころ衝撃を受けたのは、当時ドプチェク体制下で「プラハの春」といわれたチェコスロバキアにソビエト軍が侵攻した事件であった。当時日本でも日大や東大を筆頭に学生運動や反ベトナム闘争が各地で展開されていた。あのソビエト軍に抵抗するチェコスロバキアの運動に大きな衝撃と関心、共感を覚えた。
 古い左翼がよりどころとしてきたソビエトロシアに対する評価にとらわれていてはあの運動に共感もできないと直感した。ソビエトロシアという幻想を否定しようとするいわゆる新左翼運動や、旧来の価値にとらわれずに新しい政治的社会的価値を創出しようとする反体制運動に、私はとても近しいシンパシーを感じたことを鮮明に覚えている。

 当時の日本の保守政治はとても閉鎖的で秘密主義、権威主義で反体制派の異議申し立てには胸襟を開いた対応を拒否し続けていたと思う。日本に限らず、すべての諸外国がそのように思われた。それは旧来の左翼もそうした体質を濃く持っていた。このような「閉じられた」政治や社会の在り様に対して、政治も社会も、国家そのものがもっともっと開かれたものになるべきだという私の直感は今でも正しいと感じている。
 反公害運動も、三里塚などの住民運動も市民社会に対して「閉じら」れていて、あたかもどこかいに大いなる「秘密の玉手箱」があるかのように見える「権威」に対する闘いでもあった。
 国家も行政も、そして企業もその意思決定のあり方が当時はとても不透明であった。日大も東大もその組織の意思決定は、どのような手続きで進められたのかが公開されなかった。企業の経営方針も、政治の政策決定も自覚的に外に向っては「開かれ」ることは無かった。
 そしてその意志決定に対する責任もまたあいまいであった。その意思決定に対して賛成・反対の議論をどのように行ったのか、どのようにさまざまな検討をしたのか、明らかにしようとすることに対し「組織防衛」、「意思決定機関参加者の自由討議の保障」などの理由を盾にして開示されることは極めて少なかった。これは意思決定機関に参加するものの無責任・免罪符として機能していた。

 団塊の世代の功罪がいろいろいわれるが、あの学生運動やベトナム反戦運動、反公害運動、住民運動にかかわり、そして企業の中での振舞いを通して、市民社会に対して開かれた組織の在り様を提示してきたのは、この世代である。私は団塊の世代、全共闘世代のもっとも大きな功績はこの点に集約できると感じている。
 これは当たり前だが、秘密は隠すことで秘密となる。そのことによって意志決定過程と決定された意志に「権威」を持たせる。これは決定された意志に対する、その意思決定に参加したものの免罪符となる。秘密とは社会に対して「マイナス」に作用した「意志」決定の責任を回避する極めて大切な儀式である。
 私たちは社会を、企業を、政治決定過程を「開いて」きたこれまでのこの経過を見失ってはならない。

 北朝鮮のあの到底理解できない粛清政治、あるいは中国でも未だに政敵に対しては生命の抹殺に近い処理が横行するのを見るにつけ、政治を、社会を開いていくことの重要性は皆が了解すると思う。
 さらに私が違和感を持ったのは、団塊の世代などより若い世代の時代を先駆けしたような起業家などがそのような意思決定過程の記録や公開に無自覚で、企業経営に失敗したり問題を起こして社会から消えていく場面に多く出くわしたことである。堀江某などの企業経営など意思決定過程が幼稚でそしきの体をなしていないという印象を強く受けた。オウム真理教という教団のありよう、集団の意思形成過程にも同じような違和感を感じた。ほとんどの新左翼諸党派もあの経験を忘れているか、忘却しているか、わざと無かったことにしている。これは旧左翼と何ら変わるところが無い。とても情け無いと思うと同時に、経験が教訓化されていないとも思う。

 法律で情報開示制度がようやく定着してきた。それを有効に活用出来ているとは、行政の末端にいた私はとても思えないが、それでも枠組みは出来ている。しかしこの流れをまったく否定する「特定秘密保護法」を私は容認できないと感じる。
 「秘密」はあってならないのである。国家間の交渉のやり取りであっても出来るだけ近い期間のうちに、その時期が来れば公開されなければならない。

 「戦前に戻すな」とか「あの戦争をもたらした治安維持法の再来」とかいうような議論はしたくないし、意味はあまりない、いや反対運動を狭くすると感じてきた。団塊の世代が意外とそのような言い方をしている。団塊の世代はもっと自分たちの世代の功績をもっと自覚的に評価すべきである。
 旧左翼がその権威を持たせるために1960年代の反体制運動に「権威として」君臨し敵対した歴史を忘れてはならない。あのときの運動は「権威を権威たらしめている組織決定の秘密主義」を否定してきたことにその評価があると思う。
 ソビエトロシアのチェコスロバキアに対する侵攻に手をこまねいていたり、あの侵攻を擁護した旧左翼の政治的役割はもう既に終了している。復活させてはならない。旧左翼があの法律に反対するなら、それはそれでやらせておけばいい。彼らの政治的根拠・本質は「秘密主義」なのである。何も一緒になって「戦後に戻すな」と叫ぶ必要は無いのである。
 戦後社会を大きくこじ開けてきた団塊の世代は、自分たちの成したその流れがまったく否定されることに意義を唱えればいいのである。ソビエトロシヤや中国の「権威」にもたれかかった旧左翼が、1960年代に戦後政治を「開かれた」社会にしようとする運動に如何に桎梏であったか、敵対物でしかなかったか、思い出せばことは簡単である。彼らと同じようにスローガン化して反対するのは、彼らの政治構造を容認することになる。私はとてもそれが耐えられないと感じている。

 1970年代の新左翼緒党派の否定的惨状は、当の戦う相手であった戦後政治そのものの否定的体質である「組織決定の秘密主義・権威付け」に自覚的に対抗しなかったことによる負の遺産である。秘密主義・権威主義との闘いはオープンに、そして権威にとらわれることなく闘うことである。政治的統一性とか、「階級形成」のためとか、次の選挙のためとかを目的に闘うのではないのである。このことを踏まえなければ、陰湿な組織問題を肥大化させ、組織のための組織による凄惨な内ゲバの世界が現出する。

 何度もいうが団塊の世代の功績は、行政や企業や各種の組織を現実に「開いて」きたことである。特別に教科書があったわけではない。統一司令塔があったわけではない。それらが無かったからこそ出来た「世代としての成果」である。
 秘密は秘密にされることによって権威付けされ、人を押しつぶす。あの法律によって企業も同じような秘密保護(秘密醸成)体制をつくり始める。社会のあらゆる組織が「秘密」をつくることを当然のように行う。団塊の世代が企業や行政から年齢により退く今が「秘密」を作るチャンスということなのだろうか。
 組織運営でもっとも気の弱い人間、他の部所や組織から、市民や第三者と接する部所、外交交渉など交渉を担当する部所が秘密を一番作りやすい。何故なら公開することでのリスクを負いたくないから、そして誤った情報公開の仕方で失敗をしてしまうリスクを軽減するために、些細なことも「秘密」にしてしまうからだ。
 法律の目的は「特定秘密」だからそんなことはないと言うかもしれないが、「秘密」の本質はそこにある。
 戦前のように国家が成り立つ根拠・権威として「秘密」を横行させる社会ではもはやない。今の時代ならではの「秘密」が醸し出されようとしている。「組織」の弱いところ、弱点を法律でカバーしようとしているのである。戦前回帰ではない。むろん安倍晋三という時代錯誤の言質を繰り返す首相の取り巻き、自民党の「反共」「反戦後秩序」にとらわれている部分の時代錯誤も要因であるが、それにとらわれているとあの法律の本質が見失われるのではないだろうか。

そろそろ年賀状作成へ

2013年12月13日 12時01分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 年内に新しいパソコンが届くことになったが、ソフトのインストール等の手間を考えると、年内はその作業に追われることになりそうである。
 XPからエイト(8)に変わるのだが、一太郎、アドビ、画像処理、住所録を兼ねているハガキ作成といった主要ソフトはどうも買換えとならざるを得ないようだ。
 一太郎で9000円、アドビで30000円、画像処理は廉価版、ハガキ作成で4000円として45000円くらいを覚悟しなくてはならないのかな?と愕然。
 一太郎2009がうまくインストールできればうれしいが‥。アドビはどうであろうか。これらを試行しながらだから時間はかかりそうだ。そのほかフォントのインストールも古いCDなので不安がある。

 こんなことを考えていると年賀状を早めに作って投函しないと投函期日に間に合わなくなる可能性が出てきた。
 昔は年賀状を細々と続けてきたが、労働組合の分裂問題以降できるだけ年賀状を出すようにしてきた。さらにメールが主流となって年賀状にかげりが出てきたといわれるようになって、俄然年賀状に対するやる気が出てきた。
 根がひねくれ者なのである。
 文面に書き表せないことの方がいっぱいあるのだが、それでも一年の振り返りをするということに年賀状作成の役割を持たせることができる。

 ただし年賀メールと年賀状を併用している方も、また年賀メールだけの方もいる。この年賀メールもなかなか楽しい。年賀メールは過去一年のことよりも向こう一年への気持ちを力点に、簡潔に書くことにしている。

 作成する年賀状、どのようにするか楽しみでもある。しかし出来栄えはいつも不満足、大したデザインにはならない。能力とセンスの無さが一目瞭然、悲しい。

芋焼酎「桜島」

2013年12月12日 06時14分20秒 | 料理関連&お酒
   

 先週購入した芋焼酎「桜島」。白麹仕込み、一仕込みということで近くの酒屋さんで新酒として販売していた。昨年の秋に仕込んで一年間寝かせた出来立てということであった。
 おすすめということで購入したのだが、ちょっと刺激が強いように思う。まだ味が練れていないというか、落ち着いていないのだ。この刺激がいいという人も入るだろうが、「まろやか」というのには遠い。
 熟成した感じのもののほうが私には合っているようだ。あまりに淡白な味わいは好みではない。味に深みが欲しいという表現がふさわしいかわからないが、なんかヤンチャな子どもみたいな感じがする。