メランコリア

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ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『青春の殺人者』(1976)

2009-07-05 22:01:24 | 映画
『青春の殺人者』(1976)
製作:今村昌平、大塚和 監督:長谷川和彦 音楽:ゴダイゴ
出演:水谷豊、内田良平、市原悦子、原田美枝子、桃井かおり、地井武男 ほか


水谷豊が『相棒』のキャンペーンをしてたニュースで紹介されてた過去作品の中に、
わたしが大好きな女優・原田美枝子さんと共演してる今作があって、彼女の出演作はとにかく全部観たいと思ってるので、
けっこう探した末にこれも渋谷TSUTAYAで難なく発見。
「長谷川和彦の第一回監督作品。1974年に千葉県市原市で実際に起きた両親殺し事件を下敷きにした
中上健次の短編小説『蛇淫』をもとに、田村孟が大胆に脚本化した(ウィキ参照)」とのこと。
ニューウェーブなタッチのちょっと重めな犯罪映画だとは予想してたけど、これほどリアルだとは。。
いや、ハリウッド映画でバンバン銃で撃たれたり、カーチェイスで爆発したりして、
軽々と人間が死んでいってカッコよく描かれてることがそもそも間違ってるんだ。
人間ひとりが死ぬという重くて、ドロドロとして、傷を一生背負い続けなければならないということ。
『相棒』は観たことないけど、『熱中時代』の善い人のイメージが強かった水谷豊が
こんな生々しいアウトローも演じられることに驚いた。


trailer

story
両親と折り合いの悪かった斉木順は、同棲している幼なじみで恋人のケイ子との仲を悪く言われたことでカッとして父親を刺殺してしまう。
自首するという順に母親は「家族内のことを法律にとやかくいわれることはない。死体を海に沈めて、家を売ったお金でやり直そう。時効までは十数年だから、それまでに大学を出て、おとなしいいいコと結婚なさい」と言い聞かせる。
が、ケイ子との縁が切れない順の心を読み、狂乱の末、自分も殺して心中しようと迫り、順は母親をも殺めてしまう。
親に建ててもらったが経営は思わしくなかったスナックも早々たたんで、両親の死体を千葉の海に捨て、
ついてきたケイ子と共に逃亡するが・・・


特典は監督のインタビューで、これまた長いんだけど、製作当時の話をじっくり聞くことで作品への奥行きが増したことは確か。
予告を観ればDVD本編にはないシーンがたくさんあることが分かる。
低予算の中、3時間以上撮って、2時間に収めるためにそうとうカットしたそうな。
1本の映画としてみせるためには、せっかく俳優が熱演して、お金をかけたシーンも捨てなければならないんだな。
ラガーシャツを着て、サングラスに、煙草をふかしながらちょっと不良っぽく喋ってる長谷川監督は、
なんだかロックな感じで、当時は監督もスタッフもみんな若かったことと、時代の風もあって
きっとあんなに尖って、ドロドロな青春劇も撮れたんだろうな(あんな青春ヤだけど

実際に起きた事件を題材にしてるとはいえ、あくまでフィクションで撮った映画であって、
事件で服役中の青年に死刑判決が下された時はかなりのショックだったと言っていたのが、
以前観た『カポーティ』の中で『冷血』を書いたカポーティがその後も良心の呵責に悩んだこともちょっと思い出した。

これから観る人のために、血生臭いのが苦手な人、食事中の人にはおすすめできないことをゆっておきます
監督がゆってた和製ジェームス・ディーンものというより、もっとココロが病んでしまうくらいショッキングな1本。


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『河童』 芥川龍之介

2009-07-05 13:22:42 | 
こないだ観た映画の影響で原作がどうしても読みたくなったので、土曜は6時起きで資源ゴミを出したついでに
そーじ&洗濯も済ませて、昼前には図書館にひさしぶりに行ってみた。
梅雨なのに晴れ間がのぞいてて、自転車で走るには気分がいい。
公園で本を読むのもいいかもな。木かげはけっこう涼しかったし。

ほかにもいろいろ読みたかった本もあわせて司書の方に検索してもらって、
数ある中から一緒に選んで、地下の閉庫からわざわざ出してきてもらった。
河童・或阿呆の一生 新潮文庫
「昭和四十三年発行、平成五年五十五刷」ていい感じに古びた単行本で、
龍之介が自ら命を絶つ最晩年に書かれた小説を集めた短編集だった。

先日観た映画はやっぱりこの小説を読む「朗読カセット」みたいなつくり方だったから、
短編とはいえ最近は長い小説を読むのはちょっとツライため不安もあったけど、意外と読みやすかった。
映画では分かりづらかった部分もこうして言葉で読べば全体のつながりがもう少しハッキリして、
人間社会を風刺してるとはいえ、河童ってゆうユニークな架空生物が出てくるおかげもある。


旧かなづかいのままの部分も多くて新鮮! 読めないような難しい漢字もそのままに読みつづけた。
例えば、「いかにも」を今でも年齢の高い人が書いた原稿だと「如何にも」と書かれてあって、
仕事で校正する場合の用語統一ではそのままにする時もあるけど、全然知らない古い漢字の使い方が
文頭だけでも、「もっとも→尤も」、「わけ→訣」、「莫迦→ばか」、「いっそ→一そ」etc..
外来語も英語の発音により近い形で書かれているところをみると、昔は入ってきたそのままに使っていたのが、
だんだん日本語として言いやすいようにかわっていったのかな???
例:「コオンド・ビイフ→コンビーフ」、「ステュディオ→スタジオ」など。

書いてる著者はもちろんのこと、それを買ってふつうに読んでた当時の一般読者の知識レベルも高かったってことだよね/驚
これだけ言葉の幅が多くて豊富ってことは、自分が表現したい気持ちや事象を
より微妙な部分まで正確に相手に伝えることができたということでもある。
今はどうなんだろう?
最近流行りの「ケータイ小説」みたいに、話し言葉がそのまま活字になるような本とはまったく次元が違ってる。
学校で教える漢字の数が制限されて、新聞で使う文字ですらより読みやすいひらがなが増えて、
それはそれでいいんだろうけど、より深淵な部分が分からず、感覚も劣化してないだろうか。


当時の知識人って、ほんとうにあらゆる世界中の哲学書が頭からはみ出るほどに詰め込まれて、
挙句、人生を憂うほかなく発狂もしくは自殺してしまうってことになるのかな(多すぎる知識はためにならないってことか
名を遺すような芸術家(音楽関係も含めて)には多いよね。わたしの好きな絵描きにも多い。
神経が鋭敏で、感受性が高ければ高いほど、世の中の不条理さや、嘘は耐え難いんだろう。
ただただぼんやりやりすごすか、体制になんの疑問もなく浸って過ごすかでもなければ社会はとにかく生きづらく、
神のような概念でも持たないことにはとてももたないけど、龍之介も無神論者だったみたいだし。


冒頭、主人公が河童の世界に落ちてゆく瞬間に、
「われわれ人間の心はこう云う危機一髪の際にも途方も無いことを考えるものです。
 僕は、あっと思う拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云う橋があるのを思い出しました。」
てところで思わず笑ってしまった。
先日、憧れの地でただいまバイト奮闘中のサケ友からキレイな絵ハガキがきて、
少ない休みを利用して上高地に行ってきたとまさにあのいつ見ても絶景な風景ハガキを送ってよこしたことを思い出したから。


ラスト、主人公が人間界に戻りたくなったきっかけとなる自殺した詩人トックの詩集から。
「椰子の花や竹の中に 仏陀はとうに眠っている。
 路ばたに枯れた無花果と一しょに 基督ももう死んだらしい。
 しかし我々は休まなければならぬ たとい芝居の背景の前にも。
 (その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ。!)」

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