■「描かれた戦争孤児-孤児たちの心と表現」展@すみだ郷土文化資料館
これまでの町歩きでも、たくさんの戦争資料の展示を見てきたけれども、
こうして改めて「戦争孤児」という存在には深く関心を持ってこなかった。
映画『火垂るの墓』で描かれた幼い兄妹の話は何度観ても泣けるけど、
今回、実際その体験をされた方々の話をじっくり聞く機会があって、身に詰まされる思いがした。
記憶が不明瞭な点も多いけど、覚えているかぎりメモしておこうと思う。
証言インタビュー1
長女Aさんは、幼い妹、弟と一緒に焼け野原となった東京の町を歩いて、自宅を探したが、
すべて焦土と化し、どこがどこやらも分からない。
親ともはぐれ、生死も分からず、地方に住む母の実家を訪ねるが、当時はどこも貧困にあえぎ、
自分の家族に食べさせるだけで精一杯で、たとえ親戚の子どもだとて養う余裕はどこにもなかった。
そこにあったのは孤児だという差別、虐待、子どもには耐えられるはずのない重労働。
祖父?から「母親は嫁に出た身だから、頼るなら父の実家に行くのが筋だ」と言われ、
家を出る時、叔父が当時としては多いお金を渡してくれた。
それを下着の中に隠して、Aさんは、父の実家に行く代わりに上野に向かった。
しかし、上野駅は家も仕事も失った浮浪者、戦争孤児で溢れ、風呂敷包みを持った3人だと目立つから
コンクリートに囲まれた隅にちぢこまって日々を過ごした。今日が何日か、もう何日ここにいるのかも分からない。
幸いお金はあったが、どれくらいここにいなければならないか、先の見通しがまったくたたなかったため、
自分は食べない日もあったが、妹と弟には売りにくる芋を買って食べさせた。
浮浪者で溢れた駅は治安が悪いと悪評がたち、しょっちゅう警官が浮浪児を強制収容していった。
都内には何箇所か収容所が設けられたが、数が足りず、中には衛生環境、虐待も多く、逃亡者も絶えなかったという。
3人は警官騒ぎがあるとすぐトイレに隠れて過ごした。
その後、Bさんは自立するためにマッサージ師の資格をとった。
当時は女性も食べるため、家族を養うため必死で資格をとった。
ずっと後になって、知人の実家で自然災害があり、家も家族も皆流され一家全滅したのだという。
その葬儀に出た時、壁にズラっと並べられた、幼いきょうだいも含めた一家全員の遺影を見て、
「こんなことが世の中にあるんだ。自分たちも両親を亡くした戦争孤児だったんだ」
と、そこで初めて悟ったのだという。
「とにかく当時は悲しいとか、辛いとか、大変とかという気持ちより
どうやってきょうだいを1日、1日食べさせていくか、それだけを考えていた。
不思議なんですけど、それまではずっと両親はどこかできっと生きていて、
私たちきょうだいがこんなに辛い思いをしているのに、なぜいつまでも迎えに来ないのかと恨んでいた。
いけないことだけれども、叔父や叔母も世話にはなったが、親戚にこうも冷たい仕打ちができるものかと恨んでいたが
その時、やっと恨みが消えたんです。それもこれも戦争が悪いんだ。自分たちが苦しんだのは戦争のせいだったんだ」と。
証言インタビュー2
Bさんの父は戦争前に病気で亡くなり、母は近くの工場に落とされた爆撃弾によって亡くなった。
Bさんにも幼い妹、弟がいて、地方の親戚を訪ねると過酷な差別と労働が待っていた。
毎日、毎日、休日もなく農作業や養蚕を次から次へと言いつけられる。
「当時は肥料などなかったので、手で、手袋もありませんから、便所の糞尿を何度も運んで、種籾にかけて混ぜるんです。
そのことはまだ鮮明に記憶に残っていて、一生消えることがないです」
妹から弟が虐待を受けているという話を聞き、家を出ようと決意する。
夜に家を出て、森の中で野宿し(当日、汽車に乗ったら捕まると思った)、翌日、汽車に乗ろうとしたら、汽車賃が足りない。
Bさんは妹に「お前1人なら母の実家でも面倒をみてもらえると思う」と言いきかせ、
弟は妹の手をいつまでも離さなかったが、Bさんは胸を引き裂かれる思いで妹を1人だけ汽車に乗せた。
その後、弟は父の実家に行き、Bさんは途中のツテで女中となって働いた。
毎晩、仕事が終わって寝床に入る時、妹、弟を思って泣かない日はなかったという。
「自分が戦争孤児だったという話は、ずっと後になるまで旦那も含めて一切人に話せなかったですよ。
私たちよりもっと悲惨な経験をした人たちはたくさんいる。家族を亡くした人もたくさん。
戦争はもう二度と繰り返してはならない。今の人たちにこんな話をしても、あまりよく分からないかもしれないけれども、
こんなことがあったのだと、少しでも分かってもらえたら嬉しい」
私の父も都内に住んでいて、空襲で焼け出され、長男の父含め妹、弟、父母が地方の親戚を頼って回り、
勉強したくてもお金がないため出来なかったり、サツマイモなどを食べて暮らしたこともあると聞いたことがある。
本人からはほとんどそんな話は聞けないので、本当は体験者がもっと後世に伝えていくべきだと思っていたけれども、
そういう次元じゃないのかもしれないと今回気づいた。
二度と思い出したくないこと。葬り去って忘れてしまいたいこと。話せないこと。
資料の中の説明書きを読んでいくと、ほんとうに実際こんなことがあったんだろうか?と信じ難かった。
両親を亡くした戦争孤児は、戦争による最も弱い犠牲者であるにも関わらず、
強制収容(狩り込み)された先の施設での悪条件さに耐えられず逃亡者が絶えなかったとか、
挙句の果てには、トラックに積まれて、茨城の山に捨てられたとか、
親戚に身を寄せても差別され、石を投げられ、重労働を強いられ、自殺を考えた人たちが大勢いたとか、
上野駅に溢れた孤児たちは、小さい子どもらから次々と凍死、飢餓死、病死、変死していったとか、
闇市で非合法な悪人に雇われ、最後は麻薬中毒にされる子どもも多かったため、
「ヒロポン検査」が行われていたとか、米兵の靴を磨いたり、彼らが捨てる煙草を拾って集め、
紙に巻き直して売り、自分たちも飢えをまぎらわせるために吸っていたとか。
画家としては素人ながら、インタビューや自身の体験を基にして星野さんが描いた絵やメモも目を背けたくなるような話ばかりだった。
夜の寒さを凌ぐためにあたっていた焚き火だと思っていた炎が、朝になって見てみたら、亡くなった動物や人間の山だった。
言問橋を渡って逃げる大勢の人の荷にも火が燃え移り、地獄絵と化し、消防団員も持ち場についたまま焼け死んでいた。
星野さんの父が埋められていた死体置き場に差し込まれた名前の書かれた木の棒ですら、
戦争孤児たちが引き抜いて、冷え込む夜用の薪にしていて、
「そこまでモラルのない行為が人間に出来るものだろうか?」という思いと、
「生きるために仕方のないことなのだ」という思いが複雑に交錯したこと。
弟が親戚の家の馬小屋に寝泊りさせられていると聞いて、姉が急いで見に行くと、
ゲッソリ痩せた弟がうどんのような回虫を吐きながら「お母さん」と言って目の前で死んでしまったこと。
兵士が自分の家族の消息を探していたところ、1人の少女が、
転がっているたくさんの死体を1つ1つひっくり返しながら親を探しているようだったので
「お腹が空いてないか?おにぎりを食べなさい」と渡すと、少女は無表情のまま食べていたという。
上野駅周辺の浮浪者は毎日次々と亡くなっていき、その悪臭が地下鉄内にまで数ヶ月も届いた。
星野さんも幼い妹を2人亡くしており、「不幸中の幸いだったのは、母親と一緒に亡くなっていたことだ」
慰霊碑が建てられた時、その絵を描き、2人の妹も描いたが、そこに至るまでには大変な葛藤があったという。
碑の周りには死体が散乱している中、妹さん2人は生前のままの穏やかさで佇んでいる絵だった。
これまでの町歩きでも、たくさんの戦争資料の展示を見てきたけれども、
こうして改めて「戦争孤児」という存在には深く関心を持ってこなかった。
映画『火垂るの墓』で描かれた幼い兄妹の話は何度観ても泣けるけど、
今回、実際その体験をされた方々の話をじっくり聞く機会があって、身に詰まされる思いがした。
記憶が不明瞭な点も多いけど、覚えているかぎりメモしておこうと思う。
証言インタビュー1
長女Aさんは、幼い妹、弟と一緒に焼け野原となった東京の町を歩いて、自宅を探したが、
すべて焦土と化し、どこがどこやらも分からない。
親ともはぐれ、生死も分からず、地方に住む母の実家を訪ねるが、当時はどこも貧困にあえぎ、
自分の家族に食べさせるだけで精一杯で、たとえ親戚の子どもだとて養う余裕はどこにもなかった。
そこにあったのは孤児だという差別、虐待、子どもには耐えられるはずのない重労働。
祖父?から「母親は嫁に出た身だから、頼るなら父の実家に行くのが筋だ」と言われ、
家を出る時、叔父が当時としては多いお金を渡してくれた。
それを下着の中に隠して、Aさんは、父の実家に行く代わりに上野に向かった。
しかし、上野駅は家も仕事も失った浮浪者、戦争孤児で溢れ、風呂敷包みを持った3人だと目立つから
コンクリートに囲まれた隅にちぢこまって日々を過ごした。今日が何日か、もう何日ここにいるのかも分からない。
幸いお金はあったが、どれくらいここにいなければならないか、先の見通しがまったくたたなかったため、
自分は食べない日もあったが、妹と弟には売りにくる芋を買って食べさせた。
浮浪者で溢れた駅は治安が悪いと悪評がたち、しょっちゅう警官が浮浪児を強制収容していった。
都内には何箇所か収容所が設けられたが、数が足りず、中には衛生環境、虐待も多く、逃亡者も絶えなかったという。
3人は警官騒ぎがあるとすぐトイレに隠れて過ごした。
その後、Bさんは自立するためにマッサージ師の資格をとった。
当時は女性も食べるため、家族を養うため必死で資格をとった。
ずっと後になって、知人の実家で自然災害があり、家も家族も皆流され一家全滅したのだという。
その葬儀に出た時、壁にズラっと並べられた、幼いきょうだいも含めた一家全員の遺影を見て、
「こんなことが世の中にあるんだ。自分たちも両親を亡くした戦争孤児だったんだ」
と、そこで初めて悟ったのだという。
「とにかく当時は悲しいとか、辛いとか、大変とかという気持ちより
どうやってきょうだいを1日、1日食べさせていくか、それだけを考えていた。
不思議なんですけど、それまではずっと両親はどこかできっと生きていて、
私たちきょうだいがこんなに辛い思いをしているのに、なぜいつまでも迎えに来ないのかと恨んでいた。
いけないことだけれども、叔父や叔母も世話にはなったが、親戚にこうも冷たい仕打ちができるものかと恨んでいたが
その時、やっと恨みが消えたんです。それもこれも戦争が悪いんだ。自分たちが苦しんだのは戦争のせいだったんだ」と。
証言インタビュー2
Bさんの父は戦争前に病気で亡くなり、母は近くの工場に落とされた爆撃弾によって亡くなった。
Bさんにも幼い妹、弟がいて、地方の親戚を訪ねると過酷な差別と労働が待っていた。
毎日、毎日、休日もなく農作業や養蚕を次から次へと言いつけられる。
「当時は肥料などなかったので、手で、手袋もありませんから、便所の糞尿を何度も運んで、種籾にかけて混ぜるんです。
そのことはまだ鮮明に記憶に残っていて、一生消えることがないです」
妹から弟が虐待を受けているという話を聞き、家を出ようと決意する。
夜に家を出て、森の中で野宿し(当日、汽車に乗ったら捕まると思った)、翌日、汽車に乗ろうとしたら、汽車賃が足りない。
Bさんは妹に「お前1人なら母の実家でも面倒をみてもらえると思う」と言いきかせ、
弟は妹の手をいつまでも離さなかったが、Bさんは胸を引き裂かれる思いで妹を1人だけ汽車に乗せた。
その後、弟は父の実家に行き、Bさんは途中のツテで女中となって働いた。
毎晩、仕事が終わって寝床に入る時、妹、弟を思って泣かない日はなかったという。
「自分が戦争孤児だったという話は、ずっと後になるまで旦那も含めて一切人に話せなかったですよ。
私たちよりもっと悲惨な経験をした人たちはたくさんいる。家族を亡くした人もたくさん。
戦争はもう二度と繰り返してはならない。今の人たちにこんな話をしても、あまりよく分からないかもしれないけれども、
こんなことがあったのだと、少しでも分かってもらえたら嬉しい」
私の父も都内に住んでいて、空襲で焼け出され、長男の父含め妹、弟、父母が地方の親戚を頼って回り、
勉強したくてもお金がないため出来なかったり、サツマイモなどを食べて暮らしたこともあると聞いたことがある。
本人からはほとんどそんな話は聞けないので、本当は体験者がもっと後世に伝えていくべきだと思っていたけれども、
そういう次元じゃないのかもしれないと今回気づいた。
二度と思い出したくないこと。葬り去って忘れてしまいたいこと。話せないこと。
資料の中の説明書きを読んでいくと、ほんとうに実際こんなことがあったんだろうか?と信じ難かった。
両親を亡くした戦争孤児は、戦争による最も弱い犠牲者であるにも関わらず、
強制収容(狩り込み)された先の施設での悪条件さに耐えられず逃亡者が絶えなかったとか、
挙句の果てには、トラックに積まれて、茨城の山に捨てられたとか、
親戚に身を寄せても差別され、石を投げられ、重労働を強いられ、自殺を考えた人たちが大勢いたとか、
上野駅に溢れた孤児たちは、小さい子どもらから次々と凍死、飢餓死、病死、変死していったとか、
闇市で非合法な悪人に雇われ、最後は麻薬中毒にされる子どもも多かったため、
「ヒロポン検査」が行われていたとか、米兵の靴を磨いたり、彼らが捨てる煙草を拾って集め、
紙に巻き直して売り、自分たちも飢えをまぎらわせるために吸っていたとか。
画家としては素人ながら、インタビューや自身の体験を基にして星野さんが描いた絵やメモも目を背けたくなるような話ばかりだった。
夜の寒さを凌ぐためにあたっていた焚き火だと思っていた炎が、朝になって見てみたら、亡くなった動物や人間の山だった。
言問橋を渡って逃げる大勢の人の荷にも火が燃え移り、地獄絵と化し、消防団員も持ち場についたまま焼け死んでいた。
星野さんの父が埋められていた死体置き場に差し込まれた名前の書かれた木の棒ですら、
戦争孤児たちが引き抜いて、冷え込む夜用の薪にしていて、
「そこまでモラルのない行為が人間に出来るものだろうか?」という思いと、
「生きるために仕方のないことなのだ」という思いが複雑に交錯したこと。
弟が親戚の家の馬小屋に寝泊りさせられていると聞いて、姉が急いで見に行くと、
ゲッソリ痩せた弟がうどんのような回虫を吐きながら「お母さん」と言って目の前で死んでしまったこと。
兵士が自分の家族の消息を探していたところ、1人の少女が、
転がっているたくさんの死体を1つ1つひっくり返しながら親を探しているようだったので
「お腹が空いてないか?おにぎりを食べなさい」と渡すと、少女は無表情のまま食べていたという。
上野駅周辺の浮浪者は毎日次々と亡くなっていき、その悪臭が地下鉄内にまで数ヶ月も届いた。
星野さんも幼い妹を2人亡くしており、「不幸中の幸いだったのは、母親と一緒に亡くなっていたことだ」
慰霊碑が建てられた時、その絵を描き、2人の妹も描いたが、そこに至るまでには大変な葛藤があったという。
碑の周りには死体が散乱している中、妹さん2人は生前のままの穏やかさで佇んでいる絵だった。