図書館で借りたCDシリーズ。
こないだの今野さんやらでレゲエモードになって、図書館の狭い検索幅の中で、名前もよく分からんまま適当に借りてみた
それにしても見事にネットでもヒットしないな
▼JAMAICAN VIBES
レゲエはふつーに流して聴けるところがいいねぇ。意識しなくてもリラクセーションミュージックみたいなものだ
ジャマイカの歴史や政治情勢のシビアさは心の隅に置いておかなきゃだけど。
▼LOVERS LOVE ME
♪BLACK AND WHITE や、オーティスの名曲♪(Sittin'On)The Dock Of The Bay などもレゲエにすると楽しく変わる
【ライナーメモ】
ボブ・マーリィの名をよりポピュラーにするきっかけとなったのは、エリック・クラプトンの♪アイ・ショット・ザ・シェリフ/驚
▼ロンズデイル・ロックステディ
15曲目の♪アイム・ゴーイング・ホーム とか面白いと思って見たらThe Wailers、さすがボブ・マーリー先生。
よく知らないレゲエファンでも耳に残る。ライナーにレゲエに関する簡略な経緯が載っていて勉強になった
【ライナーメモ】
「ロンズデイル」はイギリスの音楽シーンと切り離せないブランドだが、
ボクシングを中心にスポーツウェアを扱うブランドとして人気が高いメーカー。
その「ロンズデイル」が店舗改装に伴い、オフィシャル・ロンズデイル・レコードショップを開き、音楽部門に進出した。
「カーナビー・ストリート」は、ミニスカートなど、イギリスの60年代以降のファッションの発信地。
テーラーショップも多く、モッズのメッカとして栄えた。
1960年代に先端の流行を追う若者達を俗称で「モダーンズ(略してモッズ)」と称した(同タイトルの映画があるね
ザ・フー、キンクス、スモール・フェイセスなどモッズを自称するミュージシャンも多く、
彼らの音楽は、アメリカのリズム&ブルース、ソウル、イギリスに大量の移民が流れ込んだおかげで紹介されるようになった
ジャマイカのスカやロックステディだった。
1970年代後半、ザ・ジャムを筆頭とするネオ・モッズ・ムーヴメントとして蘇生。その牽引役がポール・ウェラー。
スカやロックステディは、ジャマイカにおいてはアメリカの「ソウル・ミュージック」「ダンス・ミュージック」であり、
アメリカのラジオを海を渡って傍受したジャマイカのミュージシャンたちは、
自らの言葉とグルーヴを用いてジャマイカン・ソウル・ミュージック(=ロックステディ)に仕立てた。
スカやロックステディは、イギリスでは「ブルー・ビート」と称されてきたが、
その代表格バイロン・リー&ドラゴネアーズは、ロックステディを広めたアーティストの1つ。
デルロイ・ウィルソン、デスモンド・デッカーは、スカやロックステディにおいてモッズの敬愛の念をこめて親しまれた王様格。
ボブ・マーレーは、アメリカのインプレッションズを手本に音楽をプロデュースしていた/驚
♪I MADE A MISTAKE もインプレッションズのナンバーでその他多くのカヴァーを録音した。
▼Universal Legends/Danny Kaye
こないだ借りた「DANNY KAYE BEST」が気に入って、もう一度検索したらもう1枚だけダニー・ケイのアルバムがあった(貴重
同じ曲も入ってたけど、また違った曲もたくさん入っていて嬉しいv
【ライナーメモ】
ダニーは、ロシア系ユダヤ移民の夫婦の間でアメリカで生まれた唯一の子どもだった。
父は祖国でずっと聖歌隊長をしていて、母はユダヤやロシアの踊りを教えてくれた。
1941年ミュージカル『A LADY IN THE DARK』は、モス・ハートの著書を脚本家したもので、
彼自身の精神分析医との体験をもとに作られ、歌詞はアイラ・ガーシュインが書いた。
ここでダニーが歌ったたった38秒間の♪チャイコフスキー が大スターへの転機となる。
シルヴィア・ファインと結婚、「俺は妻仕立ての男さ」と後年ダニーは言っている。
1947年、アメリカのデッカと契約。1948年、米国音楽家連盟会員がストライキへ向かう数週間中にたくさん録音した
「映画の曲を作曲する以前に、映画ビジネスとは何かをもっと知っておく必要があった。
ブルックリン育ちの夫婦がありとあらゆる権利を使って得た知識以上にね。
そこで、僕たちは今までのミュージカルを片っ端から観たんだ。その知識は、今でもなお僕が歌ってきた曲の中で
最高に出来のよかったものの一つだと思える曲を書くのに役に立ったと思うよ」
映画『アンデルセン物語』の脚本家モス・ハートは、『A LADY IN THE DARK』の原作の著者で、ダニーが最終的に選んだのだったが、
ハートは歴史上の正確さに全然お構いなしだったので、デンマークのマスコミや政府をひどく怒らせた
しかし、心配とは裏腹に、映画は1953年の最大の成功作品となり、おまけに、デンマークの観光産業は5割増しになった
1952年、ダニーはデッカを去り、1987年に亡くなるまで、交響楽団を指揮して世界を周ったり、
1000万ドルをチャリティーに募金したり、生涯の大半をユニセフのために捧げた。
「僕がエンターテイナーになったのは、なりたいからなったのではなく、なるべくしてなったんだ」(D.ケイ
こないだの今野さんやらでレゲエモードになって、図書館の狭い検索幅の中で、名前もよく分からんまま適当に借りてみた
それにしても見事にネットでもヒットしないな
▼JAMAICAN VIBES
レゲエはふつーに流して聴けるところがいいねぇ。意識しなくてもリラクセーションミュージックみたいなものだ
ジャマイカの歴史や政治情勢のシビアさは心の隅に置いておかなきゃだけど。
▼LOVERS LOVE ME
♪BLACK AND WHITE や、オーティスの名曲♪(Sittin'On)The Dock Of The Bay などもレゲエにすると楽しく変わる
【ライナーメモ】
ボブ・マーリィの名をよりポピュラーにするきっかけとなったのは、エリック・クラプトンの♪アイ・ショット・ザ・シェリフ/驚
▼ロンズデイル・ロックステディ
15曲目の♪アイム・ゴーイング・ホーム とか面白いと思って見たらThe Wailers、さすがボブ・マーリー先生。
よく知らないレゲエファンでも耳に残る。ライナーにレゲエに関する簡略な経緯が載っていて勉強になった
【ライナーメモ】
「ロンズデイル」はイギリスの音楽シーンと切り離せないブランドだが、
ボクシングを中心にスポーツウェアを扱うブランドとして人気が高いメーカー。
その「ロンズデイル」が店舗改装に伴い、オフィシャル・ロンズデイル・レコードショップを開き、音楽部門に進出した。
「カーナビー・ストリート」は、ミニスカートなど、イギリスの60年代以降のファッションの発信地。
テーラーショップも多く、モッズのメッカとして栄えた。
1960年代に先端の流行を追う若者達を俗称で「モダーンズ(略してモッズ)」と称した(同タイトルの映画があるね
ザ・フー、キンクス、スモール・フェイセスなどモッズを自称するミュージシャンも多く、
彼らの音楽は、アメリカのリズム&ブルース、ソウル、イギリスに大量の移民が流れ込んだおかげで紹介されるようになった
ジャマイカのスカやロックステディだった。
1970年代後半、ザ・ジャムを筆頭とするネオ・モッズ・ムーヴメントとして蘇生。その牽引役がポール・ウェラー。
スカやロックステディは、ジャマイカにおいてはアメリカの「ソウル・ミュージック」「ダンス・ミュージック」であり、
アメリカのラジオを海を渡って傍受したジャマイカのミュージシャンたちは、
自らの言葉とグルーヴを用いてジャマイカン・ソウル・ミュージック(=ロックステディ)に仕立てた。
スカやロックステディは、イギリスでは「ブルー・ビート」と称されてきたが、
その代表格バイロン・リー&ドラゴネアーズは、ロックステディを広めたアーティストの1つ。
デルロイ・ウィルソン、デスモンド・デッカーは、スカやロックステディにおいてモッズの敬愛の念をこめて親しまれた王様格。
ボブ・マーレーは、アメリカのインプレッションズを手本に音楽をプロデュースしていた/驚
♪I MADE A MISTAKE もインプレッションズのナンバーでその他多くのカヴァーを録音した。
▼Universal Legends/Danny Kaye
こないだ借りた「DANNY KAYE BEST」が気に入って、もう一度検索したらもう1枚だけダニー・ケイのアルバムがあった(貴重
同じ曲も入ってたけど、また違った曲もたくさん入っていて嬉しいv
【ライナーメモ】
ダニーは、ロシア系ユダヤ移民の夫婦の間でアメリカで生まれた唯一の子どもだった。
父は祖国でずっと聖歌隊長をしていて、母はユダヤやロシアの踊りを教えてくれた。
1941年ミュージカル『A LADY IN THE DARK』は、モス・ハートの著書を脚本家したもので、
彼自身の精神分析医との体験をもとに作られ、歌詞はアイラ・ガーシュインが書いた。
ここでダニーが歌ったたった38秒間の♪チャイコフスキー が大スターへの転機となる。
シルヴィア・ファインと結婚、「俺は妻仕立ての男さ」と後年ダニーは言っている。
1947年、アメリカのデッカと契約。1948年、米国音楽家連盟会員がストライキへ向かう数週間中にたくさん録音した
「映画の曲を作曲する以前に、映画ビジネスとは何かをもっと知っておく必要があった。
ブルックリン育ちの夫婦がありとあらゆる権利を使って得た知識以上にね。
そこで、僕たちは今までのミュージカルを片っ端から観たんだ。その知識は、今でもなお僕が歌ってきた曲の中で
最高に出来のよかったものの一つだと思える曲を書くのに役に立ったと思うよ」
映画『アンデルセン物語』の脚本家モス・ハートは、『A LADY IN THE DARK』の原作の著者で、ダニーが最終的に選んだのだったが、
ハートは歴史上の正確さに全然お構いなしだったので、デンマークのマスコミや政府をひどく怒らせた
しかし、心配とは裏腹に、映画は1953年の最大の成功作品となり、おまけに、デンマークの観光産業は5割増しになった
1952年、ダニーはデッカを去り、1987年に亡くなるまで、交響楽団を指揮して世界を周ったり、
1000万ドルをチャリティーに募金したり、生涯の大半をユニセフのために捧げた。
「僕がエンターテイナーになったのは、なりたいからなったのではなく、なるべくしてなったんだ」(D.ケイ