■アンディ・マレーの“開戦” テニスIQで勝負に挑む
マーク・ホジキンソン (著) 渡邊 玲子 (翻訳)
2013年 初版 イギリスでの発行は2012年
マレーを応援するうちに、ついに本まで買ってしまった
マレーとともによく出てくる「テニスIQ」とは何かが気になったのが
最初のきっかけなんだけど、マレー自身が考え出したものではないのか?
私がファンになったのは、ずっと後で、本書の発行年も2013年だから
10代の頃から見てきた著者が、七十数年ぶりにイギリス人で初の
グランドスラム優勝を制するまでの経緯を知るのはとても興味深い
スポーツライターがどこまで本人に取材して書いているかは分からないが
読んでいる感じでは、当時の発言(タブロイド紙も含めて)や経緯などを
客観的に書いている姿勢も好意的
アンディママに対する見方も「フェアじゃない」としているし
レンドルをコーチにした経緯とともに
彼がオフでは下世話で全く笑えないジョークを言うって想像すると可笑しいw
最初の数ページは、あらゆる転機ごとの写真が載っていて
最後にはとても細かい大会成績が載っている
グランドスラムで誰と当たり、勝敗など
今ではネットやYouTubeで当時の試合や画像を検索すれば
いくらでも見ることが出来るのは本当に便利
【著者:マーク・ホジキンソン】
thetennisspace.com.の発起人で編集者。
アンディ・マレーがバルセロナ郊外のアカデミーで寮生活を送っていた17歳の頃から、彼の成長を追ってきた。
デイリーテレグラフ紙の元テニス記者。BBCがウィンブルドンを特集したテレビ番組の原稿を執筆。
英国のGQ誌に寄稿。2012年ロンドン・オリンピック公式プログラムのテニスのページを担当。
デイリーテレグラフ記者時代に、ジュディ・マレーが記事やコラムを執筆するのをサポート。
また、ボリス・ベッカーのゴーストライターでもある。エイミーと娘のモリーとともにロンドン南西部に在住。
【内容抜粋メモ】
プロローグ
Aは見かけにこだわるタイプではない
フェデラーの完璧なヘアスタイルが主流だった時、スコットランド人のボサボサ頭が現れた
2012年9月10日 全米オープン決勝
ジョコビッチから2セット先取して、1936年のフレッド・ペリー以来
英国初のグランドスラム男子シングルス優勝に近づいたかに見えた
その後2セット、ディフェンデングチャンピオンのジョコビッチは素晴らしいプレーをして
2セットオール これまでも彼にはグランドスラム決勝で敗れてきた
コーチのイワン・レンドルは準優勝者として4回スピーチをして
5度目で屈辱を晴らした
選手がトイレに行く時、ラインパーソン1人に付き添われる
コーチなどからアドバイスを受けさせないためだ
頭から否定的なことを締め出せるのは自分自身だけ
鏡に向かい、こう言い聞かせた
「この1セットにすべてを賭ける
コートを去る時、後悔はしたくない
後ろ向きになるな ファイト」
第1章 テニス小国での生い立ち
●母ジュディの苦悩
ジュディはドレスコードにも従わない
「ウィンブルドンは少々堅苦しすぎ」
テニス選手の親は、ほかのどのアスリートの親より目立つ
ジュディ:(息子の試合観戦は)船酔いと心臓発作に同時に見舞われるようなもの
ジュディの声はコートの反対側まで響き
レンドル:今度またオレの後ろに座る時は、耳栓を用意してくれ
●スポーツ史上最もお騒がせな母
ジュディは英国テニス界の「タイガーママ」と呼ばれてきた
これまで激しやすい母がいなかったわけではない
レンドルの母オルガは気性が激しく、イワンが口答えすると引っ叩いていた
コナーズとレンドルの母は、まさにテニス界の女家長だったが
ジュディはスポーツ史上最もお騒がせな母と思われている
体罰など与えたことはないのに
●母への暴言に怒り爆発
大きな大会で対戦相手の暴言から母をかばったのはマレーが初めてだった
デルポトロがジュディを非難し、マレーはいまだにジュディの言いなりだとほのめかした
ベンチで90秒間怒りを爆発させ、マレーがテニスコートでこれほど怒ったのは初めて
マ:
自分の悪口はたくさん言われてきたが気にしない
だが、だれより大切な母のことを言われるのはおもしろくない
●世界で一番のママ
スコットランド代表チームの元監督、現イギリスのフェドカップ代表チームの監督のジュディは
テニス界には性差別がある気がしていた
ウィリアムズ姉妹の父は、姉妹が産まれる前からテニス選手にさせるつもりだった
ナダルには、これまでたった1人のコーチしかいない 叔父のトニー
ジュディは年に数回しか観戦しないのに、なぜ「首領」と呼ばれるのか分からない
かつてスコットランド高級紙のテニス記者だったジュディは批判に傷ついていた
ボリス・ベッカーは、ジュディが息子にプレッシャーをかけすぎると批判した
テニスに向かない気候のダンブレーンでどうやって2人の少年をトップレヴェルに育てたのか
マレーは、母は自分を理解してくれる唯一の人と語った
●テニスと国籍
アレックス・ボゴモロフJr.は、アメリカからロシアに移住する「背信行為」をして以来
初めてUSオープンに出場
全米テニス協会と関係が悪化し、支援を返済するよう請求された
彼は10代から何の援助も受けていないと裁判に持ち込もうとしたが、結局、全額支払った
アメリカのデビスカップの監督ジム・クーリエに、アメリカ代表チームで活躍の道はないと宣告され
母国の代表としてプレーした
●テニスの僻地スコットランド
フレッド・ペリー以来、グランドスラムの男子シングルスで優勝が途絶えている英国は
世界から笑い者にされてきた
『空飛ぶモンティ・パイソン』(!)で世界一テニスが下手なスコットランド人が
ウィンブルドンで優勝しようとするスケッチがある
(だって、イギリスはサッカーでも一度も優勝したことがないってクイズもあったしw
●母ジュディの選手時代(テニス選手だったのか/驚
ジュディの両親はテニス好きだった
ジュディは「タータンを纏ったクリス・エバート」とでもいうべき重鎮だ
スコットランドで64回優勝したが、世界は甘くなかった
10代でバルセロナ行きのバスでバッグを盗まれた日
ジュディの選手生活は事実上終わった
その中にはパスポート、両親からの仕送り、航空券が入っていた
父にテニスを続けるか考えるよう言われ
秘書、保険会社、製菓メーカーなどに勤め
ウィリー・マレーと出会い結婚した
●マレーの幼少時代
1986年ジェイミー、1987年アンディが誕生
マレーのテニス人生は、幼少時、家や庭でスポンジボールを打つことから始まる
その後、ひもで結んだボールを打つ「スウィングボール」に移行
これか?↓
(私はおもりにゴムひもが伸びた先にソフトボールがついていたやつを
狭い舗装されてない道で打って遊んでいたな 小学校のテニス部時代
マレーは自伝『Hitting Back』(2008)で回想している
「最初のコーチは母だった 僕は集中力がなく、身体の連係動作も鈍く、癇癪持ちという欠点があった」
(この自伝も読みたいが、和訳本はないみたいだ
●アガシへの憧れ(驚
マレーはテニス界の異端児アガシが大好きで
「ホットラバ」スタイルを真似て、テレビに釘付けになった
後にアガシは自著で「あれはカツラだった」と暴露した(そうそう 私も驚いた
マレーは初めてウィンブルドンを観に行ったが
小さすぎて気づいてもらえず
アガシのサインがもらえなかったことに意気消失した経験から
今はできるだけ大勢にサインをするようにしている
アガシとマレーの類似点はいろいろあるが、2人とも屈指のリターナーだ
テニスとの出会いは対照的
アガシの父マイク(元ボクサー)は、息子をボールマシーンの前で何時間もボールを打たせた
●テニスIQを高める
レンドル:マレーは生まれながらの負けず嫌い
5歳で「ちゃんとした大会で、ほんとの試合をしたい」と言った
ジュディはマレーに技術より戦術を教えたと思っている
兄弟は、車で10分の屋根付きコートで練習できたから非常に恵まれていた
コートでのきわどい言葉は母の影響かもしれない
●テニスキッズの姑息な親たち
ジュニアのテニス界は、気の弱い親には向いていない
試合に負けた12歳の娘の首を締めようとしていた父
他の子がミスすると歓声をあげたりするトリックを使う親もいた
マレーが6歳でスコットランド以外で初めてのレクサムの大会に出た時
ドロップショットで勝ったが、審判も観客もいないため
相手はそのドロップショットを3回バウンドした後に打ち返した
マレーはあまりのショックに次のポイントを落とした
これはいい教訓になった
ジュディ:
「バックハンドに打て」と貼り紙をした水のボトルを渡す親もいた
右の耳をこすったらフォア側にサーヴなどの暗号を決めていた親もいた
●母の教育方針
ジュディ:
テニスが好きでないとダメ
親が自分の夢を子どもに押し付けているのは残念
ジュディは父からいつも「勝ってこいよ」と言われて送り出され
負けるのを怖れるようになったため、息子にはプレッシャーをかけないよう気をつけてきた
自分で決断し、責任をとる中で成長すべきと考えていた
息子や他のジュニアが井の中の蛙にならないよう、イングランドのトーナメントに出場させた
アンディが11歳の時、母にコーチされるのはダサいと言われ
後年、ローンテニス協会のトップになったレオン・スミスに相手を頼んだ
●兄ジェイミーとのライバル関係
兄弟はカメラやテープが回っているところでもよくケンカをした
兄とのライバル関係は爪が物語っている
兄に激しく殴られ、爪がまともに伸びなくなった
ソリハルでの12歳以下の大会で、10歳のAはJに初めて勝ち
バスで兄をけなし続けたため、普段おおらかな性格のJは
Aの左薬指を打ち、爪が剥がれかけた
Aはシングルスより、Jとのダブルスのほうがプレッシャーを感じて緊張する
右利きのAはシングルス、左利きのJはダブルスになったのはラッキーだった
ウィリアムズ姉妹は、朝ご飯を食べながらお喋りした後
コートで互いを倒すため、世界中が観る中、死闘を繰り広げなければならない日々を送ってきた
ジュディは2人の試合を同じ回数観るようにしている
Jは一時期、世界NO.2のジュニアプレーヤーだった
ジュディ:
AはいつもJにすごく感謝していると思う
少し年上で、ちょっと上手だったから、いつも追いつこうと頑張っていたの
●父と母の離婚
父ウィリーはスコットランドのチェーン店の地区マネージャーをしている
ジュディは仕事で出かけることが多く、家族との時間が持てなかった
兄弟が10代の時に離婚 その数年前から別居
ジュディ:息子たちと家庭生活を送ったのは私だった
A:
クリスマスにどちらと一緒に過ごすべきか迷った
僕がなにより望んだのは、仲の良い家族だった
両親の言い争いから逃れるためにテニスに行っていた
Aのミドルネームの「バロン」は古英語で若き戦士の意味
A:父はいつも厳しかった
●無差別殺傷事件での命拾い
1996年3月13日 小さな町ダンブレーンの小学校で発砲事件が起きた
トーマス・ハミルトンが16人の子ども、教師1人を射殺 自殺した
ジュディも兄弟もそれについて滅多に語らない
2004年のUSオープンの勝利を事件の犠牲者と
2004年にロシアの学校がテロリストに占拠された事件の犠牲者に捧げた
Tが発砲した時、兄弟は体育館に向かっていたが
校長室に迂回し、机の下に隠れた
A:
最悪なのは、犯人が知人だったこと
母の車に乗っていたと思うとゾッとする
ボーイスカウトでの知人が犯人だなんて
兄弟は数年後、テニスの向上のため町から引っ越したが、家族は残った
町の人々もあまり語りたがらない
「この事件を忘れてはいないが、ダンブレーンと聞いて
人々が事件意外のことを思い浮かべてくれるようになったのは嬉しい」
(福島も同じ思いかなあ
●ナダルとの出会い
Aのテニスの進化に影響を与えた一人
マヨルカ訛りが強く、同郷のカルロス・モヤと練習
モヤは元世界ランキング1位 全仏の優勝経験もあるトッププレーヤーだった
ナダルと話した後、スコットランドを離れる決心を話した
A:
ラファは、学校にあまり行かず、太陽の下、1日4時間も練習しているが
僕は週に4時間しかプレーしていない
●スペインへのテニス留学
Jは12歳でローンテニス協会の寄宿舎制のアカデミーに入ったが
幻滅して数ヶ月でやめた
Aはローンテニス協会がJを潰したと思い、何年も怒りを抱いた
アガシが「蝿の王」と感じていたフロリダのニック・ボロテリー・アカデミーも視野に入れたが
結局、サンチェス・カサル・アカデミーに決めた
寮費は2万5000ポンド/年
ダブルスの元世界チャンピオン、エミリオ・サンチェスが初めてAを見た時
「痩せて、なで肩で、テニスプレーヤーらしくなかった」
Aはサンチェスをストレートで負かし、ランキング200~700位のグループに入れた
練習相手になるジュニアを求めてアカデミーに来るトッププレーヤーも結構いた
●英国のしがらみからの解放
英国デビスカップ元監督で、ステファン・エドバーグのコーチ経験もあるトニー・ピッカードは
「Aは自国で戦うべきだ」と忠告した
Aは2003年、二分膝蓋骨と診断され、スコットランドに戻った
ジュディ:あれはAのテニス人生で最悪の時期だった
だが、Aの意志に関係なく、スポーツ界で注目されはじめた
●2012年全米オープン1回戦
Aは金メダリストとして、フラッシング・メドウを制すべき男と言われていた
フェデラーもジョコビッチもオリンピックの金メダルは手にしていない
オリンピックの準決勝でジョコビッチを下し
フェデラーに勝って金メダル
Aの長年の夢はグランドスラムでの優勝
ドロー表が発表されると、プレーヤーは1回戦のことしか考えないという
パリの観客は、すぐにブーイングしたりする
ニューヨーカーは騒がしいが、国籍を捨てた人にさほど残酷ではなかった
芝コートからアメリカのプレーに移るには
ハードコートに体を慣らすだけでなく、気候になじませる必要がある
北アメリカで水分をしっかりとらないと痙攣を起こす可能性もある
Aは日没後のニューヨークが大好きだ
第2章 取っ替え引っ替えのコーチ
●下位選手の厳しい現実
グランドスラムと、プロの下位トーナメントは天と地ほどの差がある
クロアチアのイワン・ドディグは経済的に苦しく
数年間、野宿するしかなかった
ボスニア戦争後、だれもテニスプレーヤーに資金援助などしなくなったため
浮浪者のような生活をしながら、少しでも勝って賞金を稼ぎ、転戦し続けた
●変わり者のレンドル
マレーのコーチのイワンも駅に寝泊りしていた選手の一人
彼は下品なジョークで有名だった
Aがコートにいる時、レはほとんど笑顔を見せないが
いたずらで練習中にテニスボールをぶつけたりする
現役時代、試合で相手にボールをぶつける練習をしていたと言われ
正当な戦術だと楽しんでいた
35試合中32勝し、全米の序盤、「レンドル現象」が起きた
彼の試合になるとスタジアムはがら空きになった
●新コーチにレンドル?
レには常に二面性があった
レはAがあまりによく笑うので驚いた
レ:Aのユーモアは俺のと同じくらい病的だ だからうまくいっているんだろう
レにはコーチの経験がなかったが、誰もが注目するコーチとなるのは避けられない
ライバルたちは長い間同じコーチだ
ナダルは叔父のトニー
ジョコビッチはマリアン
フェデラーはサンプラスの元コーチ、アナコーン
Aはプロになって以来、何人もの違うタイプのコーチの指導を受けた
レはすでに何人もの選手からコーチ就任を要請されていたが断っていたが
Aには惹かれるものがあった
●マレーは守りのプレーヤー
ジュディ:Aは相手の調子を狂わせる
Aは相手が決めにきたどんなボールも返球するカウンター・パンチャーを自負していたが
これが仇となり、守りのテニスを得意とし、主導権を取れなくなった
Aは17歳で史上最年少の英国選手としてデビスカップに出場し
すでにシニアで注目されていた
●マレーは大成しない?
ペッチーをコーチに迎えた当時「マレーは大成しないだろう」と言われた
AはATPツアーで初優勝を飾っていた
全仏ジュニアのシングルス準決勝で敗退したAに
「ジュニア大会なんて気にするな」とティム・ヘンマンは言った
●初めてのウィンブルドン
Aは急に注目され、テレビ番組に出演依頼された
ショーン・コネリーと友だちになった
グランドスラムのシニア大会のキャリアは古い2番コートから始まった
そこは選手の成績が落ちるため「大会の墓場」と呼ばれていた
Aはストレート勝ちし、サイン攻めにあい
ヴィーナス・ウィリアムズは外で待たされた
Aは芝コートは好きではないと言っていたが、センターコートの初試合は感動的だった
だが、まだ6回しかツアー経験がなく、脚の疲労から痙攣を起こして敗戦した
●ペッチー・コーチとの蜜月
前年の全米ジュニア大会の優勝者は、ワイルドカードを与えられ
本戦に出場できると期待していたが却下され激怒した
予選の3回戦、決勝を勝ち抜き、本戦の初戦でAはコートに嘔吐した
(サンプラスも試合中に嘔吐して、ウォーニングを受けてたな 体の不調は仕方ないじゃない?
ついに世界ランキング100位の壁を超えた
初めてATPでフェデラーと対戦
ヘンマン:聖火もバトンも、次世代に引き継いだ
●ペッチーとの不和
サンノゼに同行しなかったのも解雇の一因
2人がうまくいてないのは明らかだった
Aは彼を解雇し、友情に変わりはないと語った
●名コーチ・ギルバートとの不和
アガシはブラッド・ギルバートのお蔭でテニス人生を好転できたと感謝している
1997年にランキングを141位まで落とし、自叙伝でその理由を
アメリカ下層階級にはびこり、常習性の高いクリスタルメッシュという薬物に溺れていたと告白した
1999年に生涯グランドスラムを達成した時
ギの心に響く言葉がなかったら勝てなかったと語った
ギはベストセラー『ウイニング・アグリー』で
コートで緊張をほぐす方法をアドバイスしている
その彼を役立たずと怒りをぶちまけているAを何度か目撃されている
ギはテニス界で最もお喋りで、水中でも喋れるだろうといわれていた(w
コーチを罵る選手はこれまでほとんどいなかった
ギ:Aは大体、完璧にできない自分に怒っていた
Aはペッチー解雇後、子どもの頃のコーチ、レオン・スミスに臨時コーチを頼んだが
口論の末、解消していた
Aとギは異常なほど行動をともにしていた
ギ:
Aは一滴も酒を飲まない 対戦相手のプレーをDVDで研究していた
コーチになるまでAのことを知らなかった
Aはアガシのようにテニスを憎んだことは一度もない
手首を傷めて、全仏を辞退するしかなかった
ギ:Aは最もネガティブな人物の一人
Aは自分をそうは思わない
Aはローンテニス協会を通じてギを解雇した
後にギに対する態度は未熟で愚かだったと告白した
●チーム・マレー
マイルズ・マクラガンがコーチをしていた時代は、Aの成長期だった
1999年のウィンブルドンでボリスから3回マッチポイントを握り
敗退したものの、ボリスの現役最後の大会になった
ギと別れた後、Aは自分に忠実な人材を集めた
コーチのマイルズ、フィットネストレーナーのジェズ、マット
コンサルタントのアレックス 彼らは「チーム・マレー」として知られる
罰ゲームとして真っ裸で氷風呂に入ったりして
周りには罰ゲームだと言ってはいけない
Aは世界ランキング2位になり、英国初のグランドスラム準優勝者になった 当時21歳
A:全米の決勝の敗者として記憶されたくない
2010年全豪でフェデラーに負け
A:ロジャーのように泣くことはできても、彼のようにプレーできないのは残念だ
その後、契約を解消し、握手を交わした
●ケイヒル・コーチの勧め
ケイヒルもアガシの元コーチ
テレビ解説者も務めていたため、いつも同行はできなかった
アディダスがスポンサーで、対戦相手も契約している場合
ケイヒルは戦術のアドバイスを禁じられていた
ケイヒルはレンドルを勧めた
Aはマイルズを解雇後、親友ダニー・パルベルデュがコーチのようになった
彼のランキングは2005年の727位がピークだった
●レンドルとの共通点
レはウィンブルドン以外、グランドスラムをすべて制覇
Aはレとランチをともにし、自分と似ていると思った
Aはグランドスラム決勝戦に3度行き、敗退
レは決勝戦の最初の4回を連敗した
2人とも自己鍛錬を怠らない
レはダイエット、フィットネス、トレーニングに真剣に取り組んだ最初のプレーヤーだ
ボリスはレを現代的プレーヤーのパイオニアと見なしていた
2人とも母からテニスを習った
レはプレー中、病的なほど神経質だったが
共産圏の独裁政権下で育った者には珍しくないかもしれない
レがこれまでのコーチと違ったのは威厳だった
最初の会食でレはフェデラー、ナダル、ジョコビッチの攻略法を語った
●レンドル体制でさらに飛躍
微動だにしないレの表情は、シーズンを通してAを落ち着かせる効果があった
不動の姿勢でも、コーチはいくらでも選手とコミュニケーションがとれる
クリス・エバート:
イワンは徹底したポーカーフェイス
Aはよく自分を責めて調子を崩したけど、精神的に安定した
レは「そんなに一喜一憂するな」というメッセージを送っているのよ
最も変わったのは、危機的状況でAが落ち着けるようになった点
レは進んでリスクを犯し、大胆に打ち込むようにさせた
レ:
腕がちぎれるまでやるのか? もう少し気楽にやれ
Aはなんでも聞いてきて、驚かされる 質問されるほど嬉しくなる
アーサー・アッシュ・スタジアムでプレーする時、選手はチェンジエンドに流す音楽を
3曲までリクエストできる(驚
Aは気が散らないよう何もリクエストしなかった
レはワム!とカルチャークラブを頼んだ(驚×5000
全米の間、もっと静かなホテルに移るよう勧めた
●2012年全米オープン2回戦
Aはツアーで出会う選手について常に研究し、事前にビデオを観ていた
第3章 マシーンのようなボディー
●苛酷なグランドスラム
フラッシング・メドウは地面全体が太陽の熱を増幅させ、照り返している
イズナーとマウーは、全米オープン1回戦で12時間戦い続けた
メルボルンでは、灼熱の太陽の下、路面電車の線路が溶けた
プレーヤーは体が正常に機能せず、寒気を感じたりする日がある
全仏で、ナダルや、クレーコーターと対戦したら、脚や肺をやられてしまう
NYは湿度が高く、オーストラリアの暑さより不快だ
全豪は多少なりとも休養をとった後に臨めるが
8ヶ月間戦い続けた後に迎える全米オープンはプレーヤーは心身ともに疲れている
2012年、気温は32度 一部のジュニアは熱中症で練習を中断した
Aはもはやジムで鍛え上げたプロ選手で「僕のボディはマシーンのようだ」と言っていた
●進化した現代テニス
テニスはかつてないほど激しいスポーツになっている
ラケットなどの進化もあるが
今日のテニスはAの世代が真剣に肉体改造に取り組んだ結果、可能になったものだ
「キネティック・エネルギー」
昔の試合を見ると呆れるほど遅い
今はフォアハンドウィナーのスピードは160km/hだ
●肉体改造に励むトップ選手たち
プレーヤーが練習後、1970年代にセレブの社交場となっていた
NYのディスコ「スタジオ54」に行っていた時代は過ぎた
現代のプレーヤーは鍛えなければならない
ナダルは膝の痛みをやわらげるため、涙を浮かべながら血小板注射の治療を受けている
「フェデラーがギアを上げると、コート上を浮いたまま動いているように見える」
フェデラーは体調が万全でないと才能を発揮できないと分かっている
テニス界では、これまで奇妙な似非科学が行われてきた
シュナイダーは毎日オレンジジュースを2L飲むよう言われていた
ジョコビッチはかつてひ弱で笑い者にされていた
いつも病気がちで、暑さに弱く、すぐ試合を棄権しようとしていたが
2011年 別人のように3つのグランドスラムを制した
両親はピザ店を営み、彼はピザで育ったようなものだったが
ある医師に炭水化物とグルテン抜きの食事に変えるよう勧められた
さらに、高地にいるのと同じような高気圧酸素カプセルに入っている
Aは母親譲りの強靭なふくらはぎのお蔭で
深刻な脚の怪我はなかったと2012年に語ったが
食事に無頓着で、ある時、トイレで失神した
Aは何度かほかにも珍しい事故の被害に遭っている
NYで自動車事故に巻き込まれ、軽度のむちうちになった
パリの大会中、衝突事故で腰痛を患った
●コート外のトレーニング
ギルバードは、体重を4kg増やし、サーヴを13km/h上げるようAに命じた
友人マイケル・ジョンンソンを紹介し、過去最高に苛酷なトレーニングをした
マーク・グラボーはアメリカのバスケのフィットネスコーチだった
理学療法士のアンディ・アイルランドのメニューもすべてこなした
42度のスタジオでビクラムヨガもやった
プレーヤーはフィットネススタッフと秘密保持契約を結んでいるが
隠し事はAの性分に合わない
腰、首周りに重りをつけて腹筋する方法などを読者に紹介した
毎回セッション後には、恐ろしい氷風呂が待っていた
筋肉から乳酸を除去するためだ
(これらも数年すれば似非科学と言われるかもよ
●禁酒禁煙と驚異的な食事
Aは10代半ばからタバコ、アルコールを口にしていない
(えっと・・・イギリスの法律は日本と違うようだな
1日6000カロリー摂取するため、エルヴィスの自殺的過食症かと思われていた
寿司は多くのプレーヤーが大好物だが、Aはカルフォルニア巻の王者だ
(こないだの質問にも、人生の最後に食べたいものとして答えていたねw
Aは試合中にバナナを食べない
痛ましい果物として嫌っている
ジャンクフードを食べるのは大会の間、家にいる時だけ
A:アイスクリームだけはやめられない 昼から夜までずっと食べ続けられる(分かる
●厄介な薬物検査
「ルゼドスキー事件」
ナンドロロンの検査で陽性反応が出た
裁判で、この禁止薬物はサプリメントに混入していたものだと認められて無罪となった
Aはサプリを多用しないようにしている
検査の必要性は理解し、選手が薬物を利用して戦績を上げるのは許せないが
プライバシーの侵害にはイライラさせられる
1年中、毎日、決められた1時間
どこにいるかを正確に薬物検査員に報告しなければならない(驚
時間外テストだと朝から来て
A:これじゃ検査時間を登録しても無駄だよ
全豪準決勝でジョコビッチに負けた後、尿検査を受け、30分後に血液検査があった
●ボクシングからのヒント
Aは子どもの頃からボクシングが大好きだ
ボクシングには多くの類似点がある
どちらも敏捷性、スピード、攻撃性、連係動作、戦術が重要だ
プレーヤーは自分と敵がネットで隔てられている点が気に入ってると言う
A:
精神的に安定するには、もっと真剣に体を鍛えなければならない
強い気持ちで試合に臨める
●プロ選手としての自覚
2008年北京オリンピックに行く飛行機で脱水症状になり
食事を何度か抜いたせいで4.5kgも体重が減った
1回戦敗退後、飛行機にはプロテインドリンクを持ち込もうと決意し
大会会場でも体重計にのることにした
同世代の選手には、ウィンブルドン大会中にバーではしゃぎすぎて
助成金を打ち切られたものもいた
●不本意な批判
Aは痛みや試練を大げさに言っていると言われ続けた
2012年、Aの背中は痙攣し、サーヴは100km/hも出なかった
ウェイド:時々、棄権しそうな様子を見せて、トレーナーが来た後、猫のように動けるようになる
と言い、Aは怒りを露にした
ダビデンコ:
彼はとても疲れてもう走りたくないという様子でコートに入ることがあるが
たぶん、スコットランド人特有の行動なんだろう
●ケガとの戦い
痛みがなく、マッサージを受けないままコートにはいる選手は現代テニスでは滅多にいない
Aは、10代から二分膝蓋骨の痛みとうまく付き合っていくしかない
彼を苦しめたのはクレーだった スライディングは膝に余計に負担がかかる
カイロプラクターとトレーニングしていた頃
「誰にも惑わされるな 自分の身は自分で守るしかない
ケガで苦しい時は、プレーすべきではない」
Aはモンフィスのスーパーショットや、ジョコビッチの股関節の柔らかさに舌を巻いている
だが、彼は優れたオールラウンダーだ
男子テニス界では背の高い選手が増えている
●対戦相手に恋した母
2012年 全米オープン フェリシアーノ・ロペスと対戦するまでに
母は彼を「デリシアーノ(香しいフェリシアーノ)」と呼んで
何度も恥ずかしい思いをした
(えっと・・・今のダブルスのパートナー?
●試合の日のルーチン
ジェズ・グリーン:
携帯電話で連絡する際には暗号を使う
試合の日の朝食では決められたメニューがあり
決まったカロリーを摂取する すべて監視されている
大会期間中、尿検査で水分とミネラルが適度な割合に保たれているかなどチェックしている
●2012年 全米オープン3回戦
14日間の大会期間中ずっと縁起を担いで、同じレストラン、同じ席、
同じメニューを注文する選手もいる
Aはバラエティに富んだ食事を好む
ロペスとの試合後、軽く2、3kgは体重が落ちてしまうため
筋肉はたんぱく質を要求していた
ラオニッチも、試合前にはいつもミディアムステーキを食べていた
男子のトップ選手には菜食主義者はあまりいない
(宗教絡みの国の選手にはきついね
第4章 厳しい批判を乗り越えて
●お気に入りの全米オープン
Aは全米オープンのロッカーで「今後すべての試合で負けるよう念じている」などの
手紙が送られたりすることは一度もない
全米オープンの夜の試合はもっと好きだ
ジュニア大会で優勝した場所で
アメリカのテニスファンの陽気で楽天的な雰囲気をいつも楽しんでいた
●自国民からの批判
2006年FIFAワールドカップで「イングランド以外なら」どこでも応援すると言って誤解された
インタビューでスコットランドが出場できないことをティム・ヘンマンにからかわれ
ジョークのつもりで言ったが、後に頭痛の種になった
「Aはイングランドを嫌っている だからAは大嫌いだ」という
フェイスブックのグループまで形成された
テレビ、新聞、雑誌、ブログ、直に、Aはひどい中傷を受けてきた
ペッチー:叫ぶ姿から想像するより、ずっと繊細な心の持ち主だ
●優勝できない英国男子
ティム・ヘンマンは「真面目すぎる」
「中流階級だから大成しないのだろう」とよく言われた
「タイガー・ティム」という最悪のあだ名までつけられた
世界ランキング4位、グランドスラムで準決勝どまりは「敗者」とみなされた
イングランドの中流階級はAにテニスに敬意を表し、下品な言葉を慎むべきと言った
1930年代以来、なぜ英国男子はウィンブルドンで優勝できないのかという議論に
飽き飽きし、会話の種が必要だった
●抑えきれない感情
Aほど言葉や態度をいちいち批判される人物はいない
コートに備え付けられたマイクや、テレビで
口汚い言葉や叩き割られたラケットがはっきり確認できた
A:
感情を抑えるのは好きじゃない 何も言わずコートにいると落ち着かない
テニスファンは感情が出るのを怖れている
ほかのスポーツではブーイングなんてしょっちゅうだ
僕は人を怒らせるつもりはない
Aの罵りは、大体、自分に向けた本音だった
Aはイライラすると自傷行為に走り、ラケットのストリングをパンチして
指が血まみれになったりもした
大声で叫ぶAの喜び方を気にいらない人もいる
大英帝国末期以来、グランドスラムの男子シングルスチャンピオンが生まれない
英国テニス界の苦悩のせいばかりではない
(同じ島国の日本と気質や状況がシンクロする部分も多いなあ
錦織圭くんもこれまでずっと、佐藤次郎さんの記録を背負わされている
・錦織圭より松岡修三より、もっと凄い日本人がいた!その名は佐藤 次郎
●哀しき英国人プレーヤーたち
フレッド・ペリーも冷遇されていた
プロに転向し、アメリカに移っても、自国での立場は改善しなかった
ウィンブルドンでは、ランキングの低い選手がシード選手を倒したり
脅かすと、一時的にちやほやされることもあるが、すぐに忘れられる
●自国のプレーヤーへの厳しさ
32歳のヴィーナス・ウィリアムズは、2012年の全米オープンで
「初めて自分はアメリカ人だと実感した」と言う
全仏オープンの観衆は、自国プレーヤーに厳しいことで悪名高い(そう?
ガスケのような才能がありながら、精神的に脆いフランス人プレーヤーが
ウィンブルドンで良いプレーができるのはそのためだろう
●誤解されるジョーク
Aは何年も、テニス界一の怒りん坊とからかわれた
「なぜAは嬉しそうに話せないのか?」と批評家は言う
だが、Aのドライなユーモアセンスには触れていない
Aは2006年の大会で性差別主義者ととられたジョークが
世界的ニュースになった
A:(自分も相手も)女子みたいなプレーをした
クライチェクが女子テニスプレーヤーの大半を「怠慢な太ったブタ」と言ったのとは
まったく次元が異なる 彼は後に謝罪した
●スコットランド人としての誇り
テニス記事では、10番目のメッセージまでにAの落書きに行き当たる
反イングランド人にとって、Aは判断しにくい
サリー州に住み、GFも、友人も、スタッフの数人もイングランド人だ
Aはイングランド人と誤解されるのは望まない
スコットランド人として誇りをもっている
アメリカ人にスコットランド人とイングランド人の違いを聞かれて
A:
僕はスコットランド生まれだ
英国人(イギリス人)と言われるのはいいけど
イングランド出身じゃないのにそう言われると困る
フランス人をドイツ人と呼ぶようなものだから
(『翔んで埼玉』状態な雰囲気があるしね
国籍については、なおみちゃんもずっと言われ続けるのかなあ
どうでもいいことなのに
●英国人かスコットランド人か
スコットランド人であると同時に英国人で
イングランド人が好きだと言うほど、
スコットランド人の世論形成者を怒らせる危険が高まる
Aは「勝てば英国人、負ければスコットランド人」にされる
●英国テニス界の救世主
A:
できるだけ自分らしくありたい それで嫌われたら仕方ない
自分や周りに誠実にしていれば、いつか状況はよくなると思う
Aが英国テニス界を敗北と才能不足の暗闇から救う
ウィンブルドンの輝く騎士だと気負わないのは立派だ
●自分のためのプレー
テニスが個人競技という点は忘れられがちだ
A:
母国でプレーするのにストレスやプレッシャーは感じないし、言い訳したこともない
それはローンテニス協会の課題で、議会政治で話し合うべき問題だ
ウィンブルドン大会中は自分のベッドで眠れるので
最もリラックスできるとAは思っている
●「英国のマスコミは世界最低」
Aは3つのマネジメント会社から専門家のアドバイスを受けてきた
ティム・ヘンマン:
テニスのジャーナリストと話すと、いかにテニスを知らないかに気づく
ヘンマンは、賞金の平等化、収入格差についてコメント後も
過剰反応されたため、“退屈なヤツ”になることに決めた
これがAのメディア対応の基本になった
●メディアへの苛立ち
Aは当時、インタビューで言うべきでないこともつい口を滑らせることを自覚していた
テニス界の八百長疑惑について語り、真意から外れた報道をされた
BBCにより捻じ曲げられ、しばらく許せなかった
自分もトラブルに巻き込まれないよう、ジョークを言うのをやめ
感情を表に出さないようになった
●マレーの素顔
素のAは穏やかで、マナーが良い
セリーナの父:Aはベースラインの外に広い世界があるのを知っている
ライバルと仲が良いことからも分かる
1980年代では、ジョン、レンドル、ボリス、コナーズが互いに中傷し合っていた
Aとナダルは、互いにジュニアの大会を転戦していた頃からの知り合いで
友情を育んできた
2011年 ジョコビッチと組んでダブルスに出て(!)、屈託のなさに
J:こいつ、気に入ったよ
●ウィンブルドンへの思い
AはBIG4の中で唯一、自国開催のグランドスラムがある
A:
みんなウィンブルドンが最高だと言うが
僕はグランドスラムの中で全米オープンが好きだ
ジュニアの大会でのウィンブルドンと全米オープンの違いを感じていた
全米オープンでは、シニアと同じロッカー、ラウンジを自由に使えるが
ウィンブルドンでは、学生用ロッジ、練習用コートのパビリオンで着替える
自分のプレーは芝よりコンクリートに合っていると思っていて
自分の好きなウェアを自由に着たい
だが、サーヴのポジションに入ると、センターコートが静まり返る
ウィンブルドンの良さが分かるようになった
全米オープンに静寂はない
●ウィンブルドンで見せた涙
2012年 ウィンブルドン後に涙を流したのを見て
英国のテニスファンは、Aがそれまでずっと感情を押し殺していたことに気づいた
Aがコートで泣いたのは、それが始めてではない
デビスカップでも、コートでのインタビューで言葉を詰まらせた
●マレーへの評価の変化
レンドルと歩み始めてから、気持ちをコントロールできるようになった
Aを酷評していたデイリー・ミラー紙のコラムでも
「Aに対して冷たくしてきた我々は、初めて彼の全人格を見た気がした」
●ロンドン・オリンピック優勝
泣き顔を見せたほんの数日後、いかにもいじられそうなコメディのクイズ番組に出演する
グランドスラムの準優勝者は滅多にいない
レギュラー・パネリストが試合中のレンドルがどれほど無表情だったかをギャグにし
AとGFは笑いっぱなしだった(ww
ロンドン・オリンピックでは珍しい光景が見られた
準決勝でジョコビッチを破り、金メダルをかけてフェデラーを懲らしめた
何年も英国のデビスカップ代表を辞退したため、愛国心に欠けるとみなされてきたが
オリンピックで優勝し、ミックスダブルスで銀メダルを獲得し、かつてないほど人気者になった
●2012年全米オープン4回戦
2009年に間に合うよう、ウィンブルドンのセンターコートに
開閉式の屋根が取り付けられて以来、日没後もプレーできるようになった
ナイトセッションはないが、夜まで延長されることはある
地元の議会との協定により、午後11時で打ち切らなければならない
全米テニス協会はAとラオニッチの1回戦をテレビのゴールデンタイムに合わせたかったが
その夜は暴風雨になると聞かされた2人は別のコートに移され、20:30に試合開始
何年もBIG4を脅かす選手は現れなかったが
ラオニッチは宝石の原石のような腕と野心がある
少年の頃、サンプラスに憧れ、ピストル・ピートのようなサーヴを打てる日を夢見た
Aは統計を見ても、ベストリターナーの1人だ
アガシは「延長アーム」と呼んだ
Aの最大の武器は相手のサーヴを読む能力
ラオニッチ:Aは僕にプレーをさせてくれない
雨が降る前にストレートで破り、Aは8回連続でグランドスラム準々決勝に進出 相手はチリッチ
・アンディ・マレーの“開戦” テニスIQで勝負に挑む(後半)
マーク・ホジキンソン (著) 渡邊 玲子 (翻訳)
2013年 初版 イギリスでの発行は2012年
マレーを応援するうちに、ついに本まで買ってしまった
マレーとともによく出てくる「テニスIQ」とは何かが気になったのが
最初のきっかけなんだけど、マレー自身が考え出したものではないのか?
私がファンになったのは、ずっと後で、本書の発行年も2013年だから
10代の頃から見てきた著者が、七十数年ぶりにイギリス人で初の
グランドスラム優勝を制するまでの経緯を知るのはとても興味深い
スポーツライターがどこまで本人に取材して書いているかは分からないが
読んでいる感じでは、当時の発言(タブロイド紙も含めて)や経緯などを
客観的に書いている姿勢も好意的
アンディママに対する見方も「フェアじゃない」としているし
レンドルをコーチにした経緯とともに
彼がオフでは下世話で全く笑えないジョークを言うって想像すると可笑しいw
最初の数ページは、あらゆる転機ごとの写真が載っていて
最後にはとても細かい大会成績が載っている
グランドスラムで誰と当たり、勝敗など
今ではネットやYouTubeで当時の試合や画像を検索すれば
いくらでも見ることが出来るのは本当に便利
【著者:マーク・ホジキンソン】
thetennisspace.com.の発起人で編集者。
アンディ・マレーがバルセロナ郊外のアカデミーで寮生活を送っていた17歳の頃から、彼の成長を追ってきた。
デイリーテレグラフ紙の元テニス記者。BBCがウィンブルドンを特集したテレビ番組の原稿を執筆。
英国のGQ誌に寄稿。2012年ロンドン・オリンピック公式プログラムのテニスのページを担当。
デイリーテレグラフ記者時代に、ジュディ・マレーが記事やコラムを執筆するのをサポート。
また、ボリス・ベッカーのゴーストライターでもある。エイミーと娘のモリーとともにロンドン南西部に在住。
【内容抜粋メモ】
プロローグ
Aは見かけにこだわるタイプではない
フェデラーの完璧なヘアスタイルが主流だった時、スコットランド人のボサボサ頭が現れた
2012年9月10日 全米オープン決勝
ジョコビッチから2セット先取して、1936年のフレッド・ペリー以来
英国初のグランドスラム男子シングルス優勝に近づいたかに見えた
その後2セット、ディフェンデングチャンピオンのジョコビッチは素晴らしいプレーをして
2セットオール これまでも彼にはグランドスラム決勝で敗れてきた
コーチのイワン・レンドルは準優勝者として4回スピーチをして
5度目で屈辱を晴らした
選手がトイレに行く時、ラインパーソン1人に付き添われる
コーチなどからアドバイスを受けさせないためだ
頭から否定的なことを締め出せるのは自分自身だけ
鏡に向かい、こう言い聞かせた
「この1セットにすべてを賭ける
コートを去る時、後悔はしたくない
後ろ向きになるな ファイト」
第1章 テニス小国での生い立ち
●母ジュディの苦悩
ジュディはドレスコードにも従わない
「ウィンブルドンは少々堅苦しすぎ」
テニス選手の親は、ほかのどのアスリートの親より目立つ
ジュディ:(息子の試合観戦は)船酔いと心臓発作に同時に見舞われるようなもの
ジュディの声はコートの反対側まで響き
レンドル:今度またオレの後ろに座る時は、耳栓を用意してくれ
●スポーツ史上最もお騒がせな母
ジュディは英国テニス界の「タイガーママ」と呼ばれてきた
これまで激しやすい母がいなかったわけではない
レンドルの母オルガは気性が激しく、イワンが口答えすると引っ叩いていた
コナーズとレンドルの母は、まさにテニス界の女家長だったが
ジュディはスポーツ史上最もお騒がせな母と思われている
体罰など与えたことはないのに
●母への暴言に怒り爆発
大きな大会で対戦相手の暴言から母をかばったのはマレーが初めてだった
デルポトロがジュディを非難し、マレーはいまだにジュディの言いなりだとほのめかした
ベンチで90秒間怒りを爆発させ、マレーがテニスコートでこれほど怒ったのは初めて
マ:
自分の悪口はたくさん言われてきたが気にしない
だが、だれより大切な母のことを言われるのはおもしろくない
●世界で一番のママ
スコットランド代表チームの元監督、現イギリスのフェドカップ代表チームの監督のジュディは
テニス界には性差別がある気がしていた
ウィリアムズ姉妹の父は、姉妹が産まれる前からテニス選手にさせるつもりだった
ナダルには、これまでたった1人のコーチしかいない 叔父のトニー
ジュディは年に数回しか観戦しないのに、なぜ「首領」と呼ばれるのか分からない
かつてスコットランド高級紙のテニス記者だったジュディは批判に傷ついていた
ボリス・ベッカーは、ジュディが息子にプレッシャーをかけすぎると批判した
テニスに向かない気候のダンブレーンでどうやって2人の少年をトップレヴェルに育てたのか
マレーは、母は自分を理解してくれる唯一の人と語った
●テニスと国籍
アレックス・ボゴモロフJr.は、アメリカからロシアに移住する「背信行為」をして以来
初めてUSオープンに出場
全米テニス協会と関係が悪化し、支援を返済するよう請求された
彼は10代から何の援助も受けていないと裁判に持ち込もうとしたが、結局、全額支払った
アメリカのデビスカップの監督ジム・クーリエに、アメリカ代表チームで活躍の道はないと宣告され
母国の代表としてプレーした
●テニスの僻地スコットランド
フレッド・ペリー以来、グランドスラムの男子シングルスで優勝が途絶えている英国は
世界から笑い者にされてきた
『空飛ぶモンティ・パイソン』(!)で世界一テニスが下手なスコットランド人が
ウィンブルドンで優勝しようとするスケッチがある
(だって、イギリスはサッカーでも一度も優勝したことがないってクイズもあったしw
●母ジュディの選手時代(テニス選手だったのか/驚
ジュディの両親はテニス好きだった
ジュディは「タータンを纏ったクリス・エバート」とでもいうべき重鎮だ
スコットランドで64回優勝したが、世界は甘くなかった
10代でバルセロナ行きのバスでバッグを盗まれた日
ジュディの選手生活は事実上終わった
その中にはパスポート、両親からの仕送り、航空券が入っていた
父にテニスを続けるか考えるよう言われ
秘書、保険会社、製菓メーカーなどに勤め
ウィリー・マレーと出会い結婚した
●マレーの幼少時代
1986年ジェイミー、1987年アンディが誕生
マレーのテニス人生は、幼少時、家や庭でスポンジボールを打つことから始まる
その後、ひもで結んだボールを打つ「スウィングボール」に移行
これか?↓
(私はおもりにゴムひもが伸びた先にソフトボールがついていたやつを
狭い舗装されてない道で打って遊んでいたな 小学校のテニス部時代
マレーは自伝『Hitting Back』(2008)で回想している
「最初のコーチは母だった 僕は集中力がなく、身体の連係動作も鈍く、癇癪持ちという欠点があった」
(この自伝も読みたいが、和訳本はないみたいだ
●アガシへの憧れ(驚
マレーはテニス界の異端児アガシが大好きで
「ホットラバ」スタイルを真似て、テレビに釘付けになった
後にアガシは自著で「あれはカツラだった」と暴露した(そうそう 私も驚いた
マレーは初めてウィンブルドンを観に行ったが
小さすぎて気づいてもらえず
アガシのサインがもらえなかったことに意気消失した経験から
今はできるだけ大勢にサインをするようにしている
アガシとマレーの類似点はいろいろあるが、2人とも屈指のリターナーだ
テニスとの出会いは対照的
アガシの父マイク(元ボクサー)は、息子をボールマシーンの前で何時間もボールを打たせた
●テニスIQを高める
レンドル:マレーは生まれながらの負けず嫌い
5歳で「ちゃんとした大会で、ほんとの試合をしたい」と言った
ジュディはマレーに技術より戦術を教えたと思っている
兄弟は、車で10分の屋根付きコートで練習できたから非常に恵まれていた
コートでのきわどい言葉は母の影響かもしれない
●テニスキッズの姑息な親たち
ジュニアのテニス界は、気の弱い親には向いていない
試合に負けた12歳の娘の首を締めようとしていた父
他の子がミスすると歓声をあげたりするトリックを使う親もいた
マレーが6歳でスコットランド以外で初めてのレクサムの大会に出た時
ドロップショットで勝ったが、審判も観客もいないため
相手はそのドロップショットを3回バウンドした後に打ち返した
マレーはあまりのショックに次のポイントを落とした
これはいい教訓になった
ジュディ:
「バックハンドに打て」と貼り紙をした水のボトルを渡す親もいた
右の耳をこすったらフォア側にサーヴなどの暗号を決めていた親もいた
●母の教育方針
ジュディ:
テニスが好きでないとダメ
親が自分の夢を子どもに押し付けているのは残念
ジュディは父からいつも「勝ってこいよ」と言われて送り出され
負けるのを怖れるようになったため、息子にはプレッシャーをかけないよう気をつけてきた
自分で決断し、責任をとる中で成長すべきと考えていた
息子や他のジュニアが井の中の蛙にならないよう、イングランドのトーナメントに出場させた
アンディが11歳の時、母にコーチされるのはダサいと言われ
後年、ローンテニス協会のトップになったレオン・スミスに相手を頼んだ
●兄ジェイミーとのライバル関係
兄弟はカメラやテープが回っているところでもよくケンカをした
兄とのライバル関係は爪が物語っている
兄に激しく殴られ、爪がまともに伸びなくなった
ソリハルでの12歳以下の大会で、10歳のAはJに初めて勝ち
バスで兄をけなし続けたため、普段おおらかな性格のJは
Aの左薬指を打ち、爪が剥がれかけた
Aはシングルスより、Jとのダブルスのほうがプレッシャーを感じて緊張する
右利きのAはシングルス、左利きのJはダブルスになったのはラッキーだった
ウィリアムズ姉妹は、朝ご飯を食べながらお喋りした後
コートで互いを倒すため、世界中が観る中、死闘を繰り広げなければならない日々を送ってきた
ジュディは2人の試合を同じ回数観るようにしている
Jは一時期、世界NO.2のジュニアプレーヤーだった
ジュディ:
AはいつもJにすごく感謝していると思う
少し年上で、ちょっと上手だったから、いつも追いつこうと頑張っていたの
●父と母の離婚
父ウィリーはスコットランドのチェーン店の地区マネージャーをしている
ジュディは仕事で出かけることが多く、家族との時間が持てなかった
兄弟が10代の時に離婚 その数年前から別居
ジュディ:息子たちと家庭生活を送ったのは私だった
A:
クリスマスにどちらと一緒に過ごすべきか迷った
僕がなにより望んだのは、仲の良い家族だった
両親の言い争いから逃れるためにテニスに行っていた
Aのミドルネームの「バロン」は古英語で若き戦士の意味
A:父はいつも厳しかった
●無差別殺傷事件での命拾い
1996年3月13日 小さな町ダンブレーンの小学校で発砲事件が起きた
トーマス・ハミルトンが16人の子ども、教師1人を射殺 自殺した
ジュディも兄弟もそれについて滅多に語らない
2004年のUSオープンの勝利を事件の犠牲者と
2004年にロシアの学校がテロリストに占拠された事件の犠牲者に捧げた
Tが発砲した時、兄弟は体育館に向かっていたが
校長室に迂回し、机の下に隠れた
A:
最悪なのは、犯人が知人だったこと
母の車に乗っていたと思うとゾッとする
ボーイスカウトでの知人が犯人だなんて
兄弟は数年後、テニスの向上のため町から引っ越したが、家族は残った
町の人々もあまり語りたがらない
「この事件を忘れてはいないが、ダンブレーンと聞いて
人々が事件意外のことを思い浮かべてくれるようになったのは嬉しい」
(福島も同じ思いかなあ
●ナダルとの出会い
Aのテニスの進化に影響を与えた一人
マヨルカ訛りが強く、同郷のカルロス・モヤと練習
モヤは元世界ランキング1位 全仏の優勝経験もあるトッププレーヤーだった
ナダルと話した後、スコットランドを離れる決心を話した
A:
ラファは、学校にあまり行かず、太陽の下、1日4時間も練習しているが
僕は週に4時間しかプレーしていない
●スペインへのテニス留学
Jは12歳でローンテニス協会の寄宿舎制のアカデミーに入ったが
幻滅して数ヶ月でやめた
Aはローンテニス協会がJを潰したと思い、何年も怒りを抱いた
アガシが「蝿の王」と感じていたフロリダのニック・ボロテリー・アカデミーも視野に入れたが
結局、サンチェス・カサル・アカデミーに決めた
寮費は2万5000ポンド/年
ダブルスの元世界チャンピオン、エミリオ・サンチェスが初めてAを見た時
「痩せて、なで肩で、テニスプレーヤーらしくなかった」
Aはサンチェスをストレートで負かし、ランキング200~700位のグループに入れた
練習相手になるジュニアを求めてアカデミーに来るトッププレーヤーも結構いた
●英国のしがらみからの解放
英国デビスカップ元監督で、ステファン・エドバーグのコーチ経験もあるトニー・ピッカードは
「Aは自国で戦うべきだ」と忠告した
Aは2003年、二分膝蓋骨と診断され、スコットランドに戻った
ジュディ:あれはAのテニス人生で最悪の時期だった
だが、Aの意志に関係なく、スポーツ界で注目されはじめた
●2012年全米オープン1回戦
Aは金メダリストとして、フラッシング・メドウを制すべき男と言われていた
フェデラーもジョコビッチもオリンピックの金メダルは手にしていない
オリンピックの準決勝でジョコビッチを下し
フェデラーに勝って金メダル
Aの長年の夢はグランドスラムでの優勝
ドロー表が発表されると、プレーヤーは1回戦のことしか考えないという
パリの観客は、すぐにブーイングしたりする
ニューヨーカーは騒がしいが、国籍を捨てた人にさほど残酷ではなかった
芝コートからアメリカのプレーに移るには
ハードコートに体を慣らすだけでなく、気候になじませる必要がある
北アメリカで水分をしっかりとらないと痙攣を起こす可能性もある
Aは日没後のニューヨークが大好きだ
第2章 取っ替え引っ替えのコーチ
●下位選手の厳しい現実
グランドスラムと、プロの下位トーナメントは天と地ほどの差がある
クロアチアのイワン・ドディグは経済的に苦しく
数年間、野宿するしかなかった
ボスニア戦争後、だれもテニスプレーヤーに資金援助などしなくなったため
浮浪者のような生活をしながら、少しでも勝って賞金を稼ぎ、転戦し続けた
●変わり者のレンドル
マレーのコーチのイワンも駅に寝泊りしていた選手の一人
彼は下品なジョークで有名だった
Aがコートにいる時、レはほとんど笑顔を見せないが
いたずらで練習中にテニスボールをぶつけたりする
現役時代、試合で相手にボールをぶつける練習をしていたと言われ
正当な戦術だと楽しんでいた
35試合中32勝し、全米の序盤、「レンドル現象」が起きた
彼の試合になるとスタジアムはがら空きになった
●新コーチにレンドル?
レには常に二面性があった
レはAがあまりによく笑うので驚いた
レ:Aのユーモアは俺のと同じくらい病的だ だからうまくいっているんだろう
レにはコーチの経験がなかったが、誰もが注目するコーチとなるのは避けられない
ライバルたちは長い間同じコーチだ
ナダルは叔父のトニー
ジョコビッチはマリアン
フェデラーはサンプラスの元コーチ、アナコーン
Aはプロになって以来、何人もの違うタイプのコーチの指導を受けた
レはすでに何人もの選手からコーチ就任を要請されていたが断っていたが
Aには惹かれるものがあった
●マレーは守りのプレーヤー
ジュディ:Aは相手の調子を狂わせる
Aは相手が決めにきたどんなボールも返球するカウンター・パンチャーを自負していたが
これが仇となり、守りのテニスを得意とし、主導権を取れなくなった
Aは17歳で史上最年少の英国選手としてデビスカップに出場し
すでにシニアで注目されていた
●マレーは大成しない?
ペッチーをコーチに迎えた当時「マレーは大成しないだろう」と言われた
AはATPツアーで初優勝を飾っていた
全仏ジュニアのシングルス準決勝で敗退したAに
「ジュニア大会なんて気にするな」とティム・ヘンマンは言った
●初めてのウィンブルドン
Aは急に注目され、テレビ番組に出演依頼された
ショーン・コネリーと友だちになった
グランドスラムのシニア大会のキャリアは古い2番コートから始まった
そこは選手の成績が落ちるため「大会の墓場」と呼ばれていた
Aはストレート勝ちし、サイン攻めにあい
ヴィーナス・ウィリアムズは外で待たされた
Aは芝コートは好きではないと言っていたが、センターコートの初試合は感動的だった
だが、まだ6回しかツアー経験がなく、脚の疲労から痙攣を起こして敗戦した
●ペッチー・コーチとの蜜月
前年の全米ジュニア大会の優勝者は、ワイルドカードを与えられ
本戦に出場できると期待していたが却下され激怒した
予選の3回戦、決勝を勝ち抜き、本戦の初戦でAはコートに嘔吐した
(サンプラスも試合中に嘔吐して、ウォーニングを受けてたな 体の不調は仕方ないじゃない?
ついに世界ランキング100位の壁を超えた
初めてATPでフェデラーと対戦
ヘンマン:聖火もバトンも、次世代に引き継いだ
●ペッチーとの不和
サンノゼに同行しなかったのも解雇の一因
2人がうまくいてないのは明らかだった
Aは彼を解雇し、友情に変わりはないと語った
●名コーチ・ギルバートとの不和
アガシはブラッド・ギルバートのお蔭でテニス人生を好転できたと感謝している
1997年にランキングを141位まで落とし、自叙伝でその理由を
アメリカ下層階級にはびこり、常習性の高いクリスタルメッシュという薬物に溺れていたと告白した
1999年に生涯グランドスラムを達成した時
ギの心に響く言葉がなかったら勝てなかったと語った
ギはベストセラー『ウイニング・アグリー』で
コートで緊張をほぐす方法をアドバイスしている
その彼を役立たずと怒りをぶちまけているAを何度か目撃されている
ギはテニス界で最もお喋りで、水中でも喋れるだろうといわれていた(w
コーチを罵る選手はこれまでほとんどいなかった
ギ:Aは大体、完璧にできない自分に怒っていた
Aはペッチー解雇後、子どもの頃のコーチ、レオン・スミスに臨時コーチを頼んだが
口論の末、解消していた
Aとギは異常なほど行動をともにしていた
ギ:
Aは一滴も酒を飲まない 対戦相手のプレーをDVDで研究していた
コーチになるまでAのことを知らなかった
Aはアガシのようにテニスを憎んだことは一度もない
手首を傷めて、全仏を辞退するしかなかった
ギ:Aは最もネガティブな人物の一人
Aは自分をそうは思わない
Aはローンテニス協会を通じてギを解雇した
後にギに対する態度は未熟で愚かだったと告白した
●チーム・マレー
マイルズ・マクラガンがコーチをしていた時代は、Aの成長期だった
1999年のウィンブルドンでボリスから3回マッチポイントを握り
敗退したものの、ボリスの現役最後の大会になった
ギと別れた後、Aは自分に忠実な人材を集めた
コーチのマイルズ、フィットネストレーナーのジェズ、マット
コンサルタントのアレックス 彼らは「チーム・マレー」として知られる
罰ゲームとして真っ裸で氷風呂に入ったりして
周りには罰ゲームだと言ってはいけない
Aは世界ランキング2位になり、英国初のグランドスラム準優勝者になった 当時21歳
A:全米の決勝の敗者として記憶されたくない
2010年全豪でフェデラーに負け
A:ロジャーのように泣くことはできても、彼のようにプレーできないのは残念だ
その後、契約を解消し、握手を交わした
●ケイヒル・コーチの勧め
ケイヒルもアガシの元コーチ
テレビ解説者も務めていたため、いつも同行はできなかった
アディダスがスポンサーで、対戦相手も契約している場合
ケイヒルは戦術のアドバイスを禁じられていた
ケイヒルはレンドルを勧めた
Aはマイルズを解雇後、親友ダニー・パルベルデュがコーチのようになった
彼のランキングは2005年の727位がピークだった
●レンドルとの共通点
レはウィンブルドン以外、グランドスラムをすべて制覇
Aはレとランチをともにし、自分と似ていると思った
Aはグランドスラム決勝戦に3度行き、敗退
レは決勝戦の最初の4回を連敗した
2人とも自己鍛錬を怠らない
レはダイエット、フィットネス、トレーニングに真剣に取り組んだ最初のプレーヤーだ
ボリスはレを現代的プレーヤーのパイオニアと見なしていた
2人とも母からテニスを習った
レはプレー中、病的なほど神経質だったが
共産圏の独裁政権下で育った者には珍しくないかもしれない
レがこれまでのコーチと違ったのは威厳だった
最初の会食でレはフェデラー、ナダル、ジョコビッチの攻略法を語った
●レンドル体制でさらに飛躍
微動だにしないレの表情は、シーズンを通してAを落ち着かせる効果があった
不動の姿勢でも、コーチはいくらでも選手とコミュニケーションがとれる
クリス・エバート:
イワンは徹底したポーカーフェイス
Aはよく自分を責めて調子を崩したけど、精神的に安定した
レは「そんなに一喜一憂するな」というメッセージを送っているのよ
最も変わったのは、危機的状況でAが落ち着けるようになった点
レは進んでリスクを犯し、大胆に打ち込むようにさせた
レ:
腕がちぎれるまでやるのか? もう少し気楽にやれ
Aはなんでも聞いてきて、驚かされる 質問されるほど嬉しくなる
アーサー・アッシュ・スタジアムでプレーする時、選手はチェンジエンドに流す音楽を
3曲までリクエストできる(驚
Aは気が散らないよう何もリクエストしなかった
レはワム!とカルチャークラブを頼んだ(驚×5000
全米の間、もっと静かなホテルに移るよう勧めた
●2012年全米オープン2回戦
Aはツアーで出会う選手について常に研究し、事前にビデオを観ていた
第3章 マシーンのようなボディー
●苛酷なグランドスラム
フラッシング・メドウは地面全体が太陽の熱を増幅させ、照り返している
イズナーとマウーは、全米オープン1回戦で12時間戦い続けた
メルボルンでは、灼熱の太陽の下、路面電車の線路が溶けた
プレーヤーは体が正常に機能せず、寒気を感じたりする日がある
全仏で、ナダルや、クレーコーターと対戦したら、脚や肺をやられてしまう
NYは湿度が高く、オーストラリアの暑さより不快だ
全豪は多少なりとも休養をとった後に臨めるが
8ヶ月間戦い続けた後に迎える全米オープンはプレーヤーは心身ともに疲れている
2012年、気温は32度 一部のジュニアは熱中症で練習を中断した
Aはもはやジムで鍛え上げたプロ選手で「僕のボディはマシーンのようだ」と言っていた
●進化した現代テニス
テニスはかつてないほど激しいスポーツになっている
ラケットなどの進化もあるが
今日のテニスはAの世代が真剣に肉体改造に取り組んだ結果、可能になったものだ
「キネティック・エネルギー」
昔の試合を見ると呆れるほど遅い
今はフォアハンドウィナーのスピードは160km/hだ
●肉体改造に励むトップ選手たち
プレーヤーが練習後、1970年代にセレブの社交場となっていた
NYのディスコ「スタジオ54」に行っていた時代は過ぎた
現代のプレーヤーは鍛えなければならない
ナダルは膝の痛みをやわらげるため、涙を浮かべながら血小板注射の治療を受けている
「フェデラーがギアを上げると、コート上を浮いたまま動いているように見える」
フェデラーは体調が万全でないと才能を発揮できないと分かっている
テニス界では、これまで奇妙な似非科学が行われてきた
シュナイダーは毎日オレンジジュースを2L飲むよう言われていた
ジョコビッチはかつてひ弱で笑い者にされていた
いつも病気がちで、暑さに弱く、すぐ試合を棄権しようとしていたが
2011年 別人のように3つのグランドスラムを制した
両親はピザ店を営み、彼はピザで育ったようなものだったが
ある医師に炭水化物とグルテン抜きの食事に変えるよう勧められた
さらに、高地にいるのと同じような高気圧酸素カプセルに入っている
Aは母親譲りの強靭なふくらはぎのお蔭で
深刻な脚の怪我はなかったと2012年に語ったが
食事に無頓着で、ある時、トイレで失神した
Aは何度かほかにも珍しい事故の被害に遭っている
NYで自動車事故に巻き込まれ、軽度のむちうちになった
パリの大会中、衝突事故で腰痛を患った
●コート外のトレーニング
ギルバードは、体重を4kg増やし、サーヴを13km/h上げるようAに命じた
友人マイケル・ジョンンソンを紹介し、過去最高に苛酷なトレーニングをした
マーク・グラボーはアメリカのバスケのフィットネスコーチだった
理学療法士のアンディ・アイルランドのメニューもすべてこなした
42度のスタジオでビクラムヨガもやった
プレーヤーはフィットネススタッフと秘密保持契約を結んでいるが
隠し事はAの性分に合わない
腰、首周りに重りをつけて腹筋する方法などを読者に紹介した
毎回セッション後には、恐ろしい氷風呂が待っていた
筋肉から乳酸を除去するためだ
(これらも数年すれば似非科学と言われるかもよ
●禁酒禁煙と驚異的な食事
Aは10代半ばからタバコ、アルコールを口にしていない
(えっと・・・イギリスの法律は日本と違うようだな
1日6000カロリー摂取するため、エルヴィスの自殺的過食症かと思われていた
寿司は多くのプレーヤーが大好物だが、Aはカルフォルニア巻の王者だ
(こないだの質問にも、人生の最後に食べたいものとして答えていたねw
Aは試合中にバナナを食べない
痛ましい果物として嫌っている
ジャンクフードを食べるのは大会の間、家にいる時だけ
A:アイスクリームだけはやめられない 昼から夜までずっと食べ続けられる(分かる
●厄介な薬物検査
「ルゼドスキー事件」
ナンドロロンの検査で陽性反応が出た
裁判で、この禁止薬物はサプリメントに混入していたものだと認められて無罪となった
Aはサプリを多用しないようにしている
検査の必要性は理解し、選手が薬物を利用して戦績を上げるのは許せないが
プライバシーの侵害にはイライラさせられる
1年中、毎日、決められた1時間
どこにいるかを正確に薬物検査員に報告しなければならない(驚
時間外テストだと朝から来て
A:これじゃ検査時間を登録しても無駄だよ
全豪準決勝でジョコビッチに負けた後、尿検査を受け、30分後に血液検査があった
●ボクシングからのヒント
Aは子どもの頃からボクシングが大好きだ
ボクシングには多くの類似点がある
どちらも敏捷性、スピード、攻撃性、連係動作、戦術が重要だ
プレーヤーは自分と敵がネットで隔てられている点が気に入ってると言う
A:
精神的に安定するには、もっと真剣に体を鍛えなければならない
強い気持ちで試合に臨める
●プロ選手としての自覚
2008年北京オリンピックに行く飛行機で脱水症状になり
食事を何度か抜いたせいで4.5kgも体重が減った
1回戦敗退後、飛行機にはプロテインドリンクを持ち込もうと決意し
大会会場でも体重計にのることにした
同世代の選手には、ウィンブルドン大会中にバーではしゃぎすぎて
助成金を打ち切られたものもいた
●不本意な批判
Aは痛みや試練を大げさに言っていると言われ続けた
2012年、Aの背中は痙攣し、サーヴは100km/hも出なかった
ウェイド:時々、棄権しそうな様子を見せて、トレーナーが来た後、猫のように動けるようになる
と言い、Aは怒りを露にした
ダビデンコ:
彼はとても疲れてもう走りたくないという様子でコートに入ることがあるが
たぶん、スコットランド人特有の行動なんだろう
●ケガとの戦い
痛みがなく、マッサージを受けないままコートにはいる選手は現代テニスでは滅多にいない
Aは、10代から二分膝蓋骨の痛みとうまく付き合っていくしかない
彼を苦しめたのはクレーだった スライディングは膝に余計に負担がかかる
カイロプラクターとトレーニングしていた頃
「誰にも惑わされるな 自分の身は自分で守るしかない
ケガで苦しい時は、プレーすべきではない」
Aはモンフィスのスーパーショットや、ジョコビッチの股関節の柔らかさに舌を巻いている
だが、彼は優れたオールラウンダーだ
男子テニス界では背の高い選手が増えている
●対戦相手に恋した母
2012年 全米オープン フェリシアーノ・ロペスと対戦するまでに
母は彼を「デリシアーノ(香しいフェリシアーノ)」と呼んで
何度も恥ずかしい思いをした
(えっと・・・今のダブルスのパートナー?
●試合の日のルーチン
ジェズ・グリーン:
携帯電話で連絡する際には暗号を使う
試合の日の朝食では決められたメニューがあり
決まったカロリーを摂取する すべて監視されている
大会期間中、尿検査で水分とミネラルが適度な割合に保たれているかなどチェックしている
●2012年 全米オープン3回戦
14日間の大会期間中ずっと縁起を担いで、同じレストラン、同じ席、
同じメニューを注文する選手もいる
Aはバラエティに富んだ食事を好む
ロペスとの試合後、軽く2、3kgは体重が落ちてしまうため
筋肉はたんぱく質を要求していた
ラオニッチも、試合前にはいつもミディアムステーキを食べていた
男子のトップ選手には菜食主義者はあまりいない
(宗教絡みの国の選手にはきついね
第4章 厳しい批判を乗り越えて
●お気に入りの全米オープン
Aは全米オープンのロッカーで「今後すべての試合で負けるよう念じている」などの
手紙が送られたりすることは一度もない
全米オープンの夜の試合はもっと好きだ
ジュニア大会で優勝した場所で
アメリカのテニスファンの陽気で楽天的な雰囲気をいつも楽しんでいた
●自国民からの批判
2006年FIFAワールドカップで「イングランド以外なら」どこでも応援すると言って誤解された
インタビューでスコットランドが出場できないことをティム・ヘンマンにからかわれ
ジョークのつもりで言ったが、後に頭痛の種になった
「Aはイングランドを嫌っている だからAは大嫌いだ」という
フェイスブックのグループまで形成された
テレビ、新聞、雑誌、ブログ、直に、Aはひどい中傷を受けてきた
ペッチー:叫ぶ姿から想像するより、ずっと繊細な心の持ち主だ
●優勝できない英国男子
ティム・ヘンマンは「真面目すぎる」
「中流階級だから大成しないのだろう」とよく言われた
「タイガー・ティム」という最悪のあだ名までつけられた
世界ランキング4位、グランドスラムで準決勝どまりは「敗者」とみなされた
イングランドの中流階級はAにテニスに敬意を表し、下品な言葉を慎むべきと言った
1930年代以来、なぜ英国男子はウィンブルドンで優勝できないのかという議論に
飽き飽きし、会話の種が必要だった
●抑えきれない感情
Aほど言葉や態度をいちいち批判される人物はいない
コートに備え付けられたマイクや、テレビで
口汚い言葉や叩き割られたラケットがはっきり確認できた
A:
感情を抑えるのは好きじゃない 何も言わずコートにいると落ち着かない
テニスファンは感情が出るのを怖れている
ほかのスポーツではブーイングなんてしょっちゅうだ
僕は人を怒らせるつもりはない
Aの罵りは、大体、自分に向けた本音だった
Aはイライラすると自傷行為に走り、ラケットのストリングをパンチして
指が血まみれになったりもした
大声で叫ぶAの喜び方を気にいらない人もいる
大英帝国末期以来、グランドスラムの男子シングルスチャンピオンが生まれない
英国テニス界の苦悩のせいばかりではない
(同じ島国の日本と気質や状況がシンクロする部分も多いなあ
錦織圭くんもこれまでずっと、佐藤次郎さんの記録を背負わされている
・錦織圭より松岡修三より、もっと凄い日本人がいた!その名は佐藤 次郎
●哀しき英国人プレーヤーたち
フレッド・ペリーも冷遇されていた
プロに転向し、アメリカに移っても、自国での立場は改善しなかった
ウィンブルドンでは、ランキングの低い選手がシード選手を倒したり
脅かすと、一時的にちやほやされることもあるが、すぐに忘れられる
●自国のプレーヤーへの厳しさ
32歳のヴィーナス・ウィリアムズは、2012年の全米オープンで
「初めて自分はアメリカ人だと実感した」と言う
全仏オープンの観衆は、自国プレーヤーに厳しいことで悪名高い(そう?
ガスケのような才能がありながら、精神的に脆いフランス人プレーヤーが
ウィンブルドンで良いプレーができるのはそのためだろう
●誤解されるジョーク
Aは何年も、テニス界一の怒りん坊とからかわれた
「なぜAは嬉しそうに話せないのか?」と批評家は言う
だが、Aのドライなユーモアセンスには触れていない
Aは2006年の大会で性差別主義者ととられたジョークが
世界的ニュースになった
A:(自分も相手も)女子みたいなプレーをした
クライチェクが女子テニスプレーヤーの大半を「怠慢な太ったブタ」と言ったのとは
まったく次元が異なる 彼は後に謝罪した
●スコットランド人としての誇り
テニス記事では、10番目のメッセージまでにAの落書きに行き当たる
反イングランド人にとって、Aは判断しにくい
サリー州に住み、GFも、友人も、スタッフの数人もイングランド人だ
Aはイングランド人と誤解されるのは望まない
スコットランド人として誇りをもっている
アメリカ人にスコットランド人とイングランド人の違いを聞かれて
A:
僕はスコットランド生まれだ
英国人(イギリス人)と言われるのはいいけど
イングランド出身じゃないのにそう言われると困る
フランス人をドイツ人と呼ぶようなものだから
(『翔んで埼玉』状態な雰囲気があるしね
国籍については、なおみちゃんもずっと言われ続けるのかなあ
どうでもいいことなのに
●英国人かスコットランド人か
スコットランド人であると同時に英国人で
イングランド人が好きだと言うほど、
スコットランド人の世論形成者を怒らせる危険が高まる
Aは「勝てば英国人、負ければスコットランド人」にされる
●英国テニス界の救世主
A:
できるだけ自分らしくありたい それで嫌われたら仕方ない
自分や周りに誠実にしていれば、いつか状況はよくなると思う
Aが英国テニス界を敗北と才能不足の暗闇から救う
ウィンブルドンの輝く騎士だと気負わないのは立派だ
●自分のためのプレー
テニスが個人競技という点は忘れられがちだ
A:
母国でプレーするのにストレスやプレッシャーは感じないし、言い訳したこともない
それはローンテニス協会の課題で、議会政治で話し合うべき問題だ
ウィンブルドン大会中は自分のベッドで眠れるので
最もリラックスできるとAは思っている
●「英国のマスコミは世界最低」
Aは3つのマネジメント会社から専門家のアドバイスを受けてきた
ティム・ヘンマン:
テニスのジャーナリストと話すと、いかにテニスを知らないかに気づく
ヘンマンは、賞金の平等化、収入格差についてコメント後も
過剰反応されたため、“退屈なヤツ”になることに決めた
これがAのメディア対応の基本になった
●メディアへの苛立ち
Aは当時、インタビューで言うべきでないこともつい口を滑らせることを自覚していた
テニス界の八百長疑惑について語り、真意から外れた報道をされた
BBCにより捻じ曲げられ、しばらく許せなかった
自分もトラブルに巻き込まれないよう、ジョークを言うのをやめ
感情を表に出さないようになった
●マレーの素顔
素のAは穏やかで、マナーが良い
セリーナの父:Aはベースラインの外に広い世界があるのを知っている
ライバルと仲が良いことからも分かる
1980年代では、ジョン、レンドル、ボリス、コナーズが互いに中傷し合っていた
Aとナダルは、互いにジュニアの大会を転戦していた頃からの知り合いで
友情を育んできた
2011年 ジョコビッチと組んでダブルスに出て(!)、屈託のなさに
J:こいつ、気に入ったよ
●ウィンブルドンへの思い
AはBIG4の中で唯一、自国開催のグランドスラムがある
A:
みんなウィンブルドンが最高だと言うが
僕はグランドスラムの中で全米オープンが好きだ
ジュニアの大会でのウィンブルドンと全米オープンの違いを感じていた
全米オープンでは、シニアと同じロッカー、ラウンジを自由に使えるが
ウィンブルドンでは、学生用ロッジ、練習用コートのパビリオンで着替える
自分のプレーは芝よりコンクリートに合っていると思っていて
自分の好きなウェアを自由に着たい
だが、サーヴのポジションに入ると、センターコートが静まり返る
ウィンブルドンの良さが分かるようになった
全米オープンに静寂はない
●ウィンブルドンで見せた涙
2012年 ウィンブルドン後に涙を流したのを見て
英国のテニスファンは、Aがそれまでずっと感情を押し殺していたことに気づいた
Aがコートで泣いたのは、それが始めてではない
デビスカップでも、コートでのインタビューで言葉を詰まらせた
●マレーへの評価の変化
レンドルと歩み始めてから、気持ちをコントロールできるようになった
Aを酷評していたデイリー・ミラー紙のコラムでも
「Aに対して冷たくしてきた我々は、初めて彼の全人格を見た気がした」
●ロンドン・オリンピック優勝
泣き顔を見せたほんの数日後、いかにもいじられそうなコメディのクイズ番組に出演する
グランドスラムの準優勝者は滅多にいない
レギュラー・パネリストが試合中のレンドルがどれほど無表情だったかをギャグにし
AとGFは笑いっぱなしだった(ww
ロンドン・オリンピックでは珍しい光景が見られた
準決勝でジョコビッチを破り、金メダルをかけてフェデラーを懲らしめた
何年も英国のデビスカップ代表を辞退したため、愛国心に欠けるとみなされてきたが
オリンピックで優勝し、ミックスダブルスで銀メダルを獲得し、かつてないほど人気者になった
●2012年全米オープン4回戦
2009年に間に合うよう、ウィンブルドンのセンターコートに
開閉式の屋根が取り付けられて以来、日没後もプレーできるようになった
ナイトセッションはないが、夜まで延長されることはある
地元の議会との協定により、午後11時で打ち切らなければならない
全米テニス協会はAとラオニッチの1回戦をテレビのゴールデンタイムに合わせたかったが
その夜は暴風雨になると聞かされた2人は別のコートに移され、20:30に試合開始
何年もBIG4を脅かす選手は現れなかったが
ラオニッチは宝石の原石のような腕と野心がある
少年の頃、サンプラスに憧れ、ピストル・ピートのようなサーヴを打てる日を夢見た
Aは統計を見ても、ベストリターナーの1人だ
アガシは「延長アーム」と呼んだ
Aの最大の武器は相手のサーヴを読む能力
ラオニッチ:Aは僕にプレーをさせてくれない
雨が降る前にストレートで破り、Aは8回連続でグランドスラム準々決勝に進出 相手はチリッチ
・アンディ・マレーの“開戦” テニスIQで勝負に挑む(後半)