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メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

令和元年8月6日 広島平和記念式典

2019-08-07 14:00:05 | テレビ・動画配信
「広島市平和公園」




原爆の投下から 74年目を迎えました

先ほどから雨が降ってきました
雨の中、式典が行われるのは2014年以来

今年はおよそ5万人が参列

平和公園の北にある相生橋




この橋を目標にして 人類史上初めて、市民の頭上に原子爆弾が投下されました
数千度の「熱線」と「爆風」「放射線」が街を襲い 命と営みを奪いました

その年のうちに14万人が亡くなったと言われています




広島市の松井一実市長と遺族の代表が原爆死没者の名前が記された名簿を慰霊碑に収めます




この一年に亡くなったことが分かった被爆者の数は合わせて5068人
これまでに名前が納められた方は31万 9186人となりました

式典には 過去2番目に多い 92の国と代表が 参列しています

今年被爆者は初めて 15万人を切りました
平均年齢は 82歳を超えています

あの日のことを語れる人が少なくなる中で 原爆の記憶をどのように伝えていくか


「広島平和記念資料館」




今年、原爆資料館では、戦後最大規模となるリニューアルが行われました

新たな展示で大切にしたのは あの日、きのこ雲の下にいた
一人一人に思いを馳せてもらうことです

持ち主のエピソードを一つ一つ調査し
かけがえのない日常や 大切な家族を奪われた悲しみを記し展示することにしました
遺品に宿る物語を 自分のこととして感じてもらおうとしたのです














原爆資料館 前館長 志賀賢治さん




志賀賢治さん:
皮膚感覚のレベルで被爆の実相を感じ取っていただける
そういう生々しさと言うか

その遺品を持っていた人たちの苦しさや
あるいは生前の夢や 人間の生きざまを見通していただきたい







わずか2歳で被爆した ひろおくんの履いていたパンツです
どれだけ洗っても落ちなかった 人間の脂とみられるシミ
ひろお君が負った傷の深さを物語っています




明るく元気な子だったひろお君の姉 長谷部松子さんは
その姿を今もはっきりと覚えています






長谷部松子さん:
元気な頃 部屋でかけっこして、追いかけて
笑顔の可愛らしい弟だったので

ひろお君は 爆心地から1.9 km で母親に背負われている時に被曝し
「あつい、あつい」と水をねだりました

水を飲むと死んでしまうと聞いていた母親は
最後まで水を飲ませることができませんでした

最近見つかった母の遺品
このコップで毎日お水を仏壇にあげていました
飲ませなかったことが やっぱり悔いが残ったのではないですかね




姉の松子さんは、毎年8月
ひろおくんの遺品に会うために、自宅のある京都から広島を訪れています


広島が核兵器の恐ろしさを訴え続ける一方で
世界では、核を巡った厳しい状況が続いています

アメリカとロシアの「INF 中距離核ミサイルの撤廃条約」が失効
さらにアメリカが 核爆発を伴わない「臨界前核実験」を行なっていたことも分かりました

核兵器を法的に禁じる「核兵器禁止条約」
おととし国連で採択されましたが
唯一の戦争被爆国である日本は参加していません


広島市長は、今年の平和宣言で、核兵器禁止条約への署名・批准を望む
被爆者の思いを尊重するよう政府に訴える予定です

政府は、核兵器禁止条約に参加しない考えを変えていません

安倍総理大臣は条約についてこう述べています
「核廃絶と言うゴールは共有しているが、我が国の考え方とアプローチを異にしている」


8月6日の今日 平和を願う祈りは、県内各地で捧げられています

広島市の隣り町には 今年 新たな気持ちで原爆の火と向き合う人たちがいます
広島市の中心部から 車で30分ほどの場所にある坂町 小屋浦地区です
74年前ここに広島市内で被爆した人々が治療のために運び込まれました




小屋浦では 朝から雨が降ったり止んだりしています
そんな中、亡くなった被爆者たちを弔うために
朝から住民達50人以上が集まっています




ここ小坂町は去年7月の西日本豪雨で大きな被害を受けました

(あちこち被災地だらけだ この番組中も九州の台風情報がずっと流れていた






坂町では、住宅街に大量の土砂が流れ込む被害が出ました
災害関連死を含む18人が犠牲となり、今も一人が 行方不明となっています

住民たちが長年守ってきた原爆慰霊碑も土砂に埋まってしまいました




今年6月
原爆の被害を埋もれさせてはならない
地元では災害からの復旧と同時に慰霊碑の移設を行いました




こちらがその慰霊碑です 高台に移設されました
慰霊碑には93人の名前が刻まれています




移設を中心となって進めてきた西谷さん73歳です
西谷さんも母親のお腹の中で被爆しました




去年は西日本豪雨の被害がありました
そんな中で迎えた今年のこの会をどんな思いで迎えていらっしゃいますか?

西谷さん:
豪雨災害で町全体がどん底に沈みました
そんな中で一歩一歩進めて、今日の日を迎えたということで感慨深いものがあります

苦労が多かったぶん、また後世に伝えていかねばならないという使命感が一段と強くなりました
今回の移設でおそらく町全体の復興の一里塚になってくれるというふうに思います



そして、今日の慰霊会には、家族を原爆で失った遺族も参列しています
被爆した父を小屋浦で看取った阿部愛子さん89歳です






阿部さんの父山根さんは、広島市内の自宅で被爆
この小屋浦の救護所に運び込まれました
阿部さんは父をつきっきりで看病しましたが、作一さんは息を引き取りました

あの日看取った父に思いを馳せ、小屋浦後で祈りを捧げます

災害から立ち上がり、再び被爆の記憶をつなごうとする小屋浦地区
慰霊碑に刻まれた一人一人の命と向き合う祈りが続きます


まもなく原爆が投下された8時15分です 鐘が鳴る
鐘を合図に原爆死没者の霊を慰め、世界恒久平和の実現を祈念し
1分間の黙祷を捧げます


黙祷






広島市長による「平和宣言」




平和宣言
いま世界では「自国第一主義」が台頭し、国家間の排他的、対立的な動きが緊張関係を高め
核兵器廃絶への動きも停滞しています
このような世界情勢を皆さんはどう受け止めますか

2度の世界大戦を経験した私たちの先輩が
決して戦争を起こさない理想の世界を目指して
国際的な協調体制の構築を誓ったことを
私たちは今一度思い出し、人類の存続に向けて
理想の世界を目指す必要があるのではないでしょうか

特に、次代を担う戦争を知らない若い人にこの事を訴えたい
そしてそのためにも1945年8月6日を体験した被爆者の声を聞いてほしいのです

当時5歳だった女性はこんな歌を読んでいます

「おかっぱの 頭から流るる血しぶきに 妹抱きて 母は阿修羅に」

また、男女の区別さえできない人々が 衣類は焼け爛れて裸同然
髪の毛もなく、目玉は飛び出て 唇も耳も引きちぎられたような人

顔面の皮膚も垂れ下がり、全身血まみれの人、人
という惨状を18歳で体験した男性は

絶対にあのようなことを後世の人たちに体験させてはならない
私たちのこの苦痛は、もう私達だけでよいと訴えています

生き延びた者の心身に深刻な傷を負い続ける被爆者の
こうした訴えが皆さんに届いていますか

一人の人間の力は小さく弱くても、一人一人が平和を望むことで
戦争を起こそうとする力を食い止めることができると信じています

という当時15才だった女性の信条を単なる願いに終わらせて良いのでしょうか

世界に目を向けると、一人の力は小さくても
多くの人の力が結集すれば 願いが実現するという事例がたくさんあります

インドの独立はその事例の一つであり、独立に貢献したガンジーは
辛く厳しい体験を経て、こんな言葉を残しています

「不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、真の民主的精神の成長を妨げるものです」

平和で、持続可能な世界を実現していくためには
私たち一人一人の立場や人の違いを 互いに乗り越え
理想を目指し、共に努力するという寛容の心を持たなければなりません

そのためには、未来を担う若い人たちが原爆や戦争を
単なる過去の出来事と捉えず

また被爆者や平和な世界を目指す人たちの声や努力を自らのものとして
たゆむことなく前進していくことが重要となります

そして、世界中の為政者は、市民社会が目指す理想に向けて
共に前進しなければなりません

そのためにも、被爆地を訪れ、被爆者の声を聞き
平和記念資料館、追悼平和祈念館
犠牲者や遺族一人一人の人生に向き合っていただきたい

また、かつて核競争が激化し緊張状態が高まった際に
米ソの両核大国の間で理性の発露と対話によって
核軍縮に舵を切った勇気ある先輩がいたということを思い起こしていただきたい

今、広島市は 約7800の平和市長会議の加盟都市と一緒に
広く市民社会に「ヒロシマの心」を共有してもらうことにより
核廃絶に向かう為政者の行動を後押しする環境づくりに力を入れています

世界中の為政者には、核不拡散条約第6条に定められている核軍縮の誠実交渉義務を果たすとともに
核兵器のない世界への一里塚となる核兵器禁止条約の発効を求める市民社会の思いに応えていただきたい

こうした中、日本政府には唯一の戦争被爆国として
核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを
しっかりと受け止めていただきたい

その上で、日本国憲法の平和主義を体現するためにも
核兵器のない世界の実現にさらに一歩踏み込んで
リーダーシップを発揮していただきたい

また平均年齢が82歳を越えた被爆者をはじめ
心身に悪影響を及ぼす放射線により
生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い
その支援策を充実するとともに
「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます

本日、被爆74周年の平和記念式典にあたり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに
核兵器廃絶と、その先にある 世界恒久平和の実現に向け
被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います


鳩が放たれる




「平和への誓い」こども代表
毎年子ども達の言葉には泣いてしまう

今年は、小学6年生の金田秋佳さんと石橋忠大さんです

金田さんは、今も世界で子どもたちが苦しんでいることを忘れずに
平和への思いを誓いたいと話していました

被爆者の祖父を持つ石橋さんは、74年が経った今も
苦しんでいる人がいることを伝えたいと言います




平和への誓い
私たちは広島の街が大好きです
ゆったりと流れる川 美しい自然 「おかえり」と声をかけてくれる地域の人
どんな時でも前を向いて生きる人々 広島には私達の大切なものが溢れています

昭和20年(1945年)8月6日
あの日から血で染まった川 瓦礫の山
皮膚が剥がれた人 たくさんの亡骸

見たくなくても目に飛び込んでくる 地獄のような光景が広がったのです
大好きな街の悲惨な過去です

被爆者は語ります
戦争は忘れることのできない特別なものだと

私たちは大切なものを奪われた被爆者の魂の叫びを受け止め
次の世代や世界中の人たちに伝え続けたい

悲惨な過去を悲惨な過去のままで終わらせないために
二度と戦争を起こさない未来にするために

国や文化や歴史の違いはたくさんあるけれど
大切なもの、大切な人を想う気持ちは同じです

みんなの「大切」を守りたい
「ありがとう」や「ごめんね」の言葉で認め合い、許し合うこと

寄り添い、助け合うこと
相手を知り、違いを理解しようと努力すること

自分の周りを平和にすることは、私たち子どもにもできることです

大好きな広島に学ぶ私たちは、互いに思いを伝え合い、相手の立場に立って考えます
意志を持って学び続けます

被爆者の思いに私たちの想いを重ねて平和への想いを世界につなげます

拍手が起きた 炎に向かって一礼 とても堂々とした態度


内閣総理大臣挨拶
(これは省いてもいいんじゃないの?
 誰かに書いてもらった紙を読むだけだし
 核廃絶を遅らせている張本人だし

今から74年前の今日 原子爆弾により十数万とも言われる尊い命が失われました
町は焦土と化し、人々の夢や明るい未来が容赦なく奪われました
一命を取り留めた方々にも 筆舌に尽くしがたい日々をもたらしました

原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊に対し謹んで哀悼の誠を捧げます
そして今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に心からお見舞い申し上げます

核兵器によってもたらされた広島と長崎の悲劇をけっして繰り返してはなりません
唯一の戦争被爆国として 核兵器のない世界の実践に向けた努力を続けること
これは令和の時代においても 変わることのない 我が国の使命です

(果たして令和の時代の間にどれほどの核兵器を減らせるだろうか?

新しい時代を平和で希望に満ち溢れた時代としなければなりません

近年、世界的に安全保障環境は厳しさを増し
核軍縮を巡っては、各国の立場の隔たりが拡大しています

(他人ごとのように言ってるが、恐怖を煽って軍備を増やしているのは国だ

我が国は核兵器のない世界の実践に向け「非核三原則」を堅持しつつ
被爆の悲惨な実相への理解を促進してまいります

核兵器国と非核兵器国との橋渡しに努め、双方の協力を得ながら
対話を粘り強く促し、国際社会の取り組みを指導していく決意です

核兵器不拡散条約発効 50周年という節目の年を迎え
5年に1度のNPT(核兵器不拡散条約)運用検討会議が開催されます

この会議において意義ある成果を生み出すために
一昨年、ここ広島から始まった核軍縮に関する賢人会議の提言等を
十分踏まえながら、各国に積極的に働きかけていく決意です

私たちには唯一の戦争被爆国として核兵器の非人道性を
世代や国境を越えて伝え続ける務めがあります

被爆者の方々から伝えられた被爆体験をしっかりと
若い世代へと 語り継いでいく

そして、広島や長崎を訪れる 世界中の人々が被ばくの悲惨な実相に触れることで
平和への決意を 新たにすることができる
そうした取り組みを我が国として大切に推し進めてまいります

被爆者の方々に対して保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め
今後も被爆者の方に寄り添った援護策を総合的に推進してまいります

特に原爆症の認定について一日も早く結果をお知らせできるよう
できる限り迅速な審査を行なってまいります

むすびに、国際平和文化都市として発展を遂げたここ広島市において
核兵器のない世界 恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを お誓い申し上げます

原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と
ご遺族、被爆者の皆様 並びに参列者 広島市民の皆様の
ご平和を祈念いたしまして 私の挨拶といたします

(毎年ここに来て「核軍縮」について一体これまで何回言ってきたんだろう
 その成果が出ていないばかりか、流れてくるニュースはきな臭いものばかり


核兵器のない世界へ
74年間 声を上げ続けてきた被爆者たち

その努力を無駄にしないためには
若い世代が 広島の記憶を 受け継いでいかなければなりません

あの日、きのこ雲の下には
家族に囲まれ、夢を持った、私たちと同じ人間がいた




***

式典全部は流さずに30分ほどで番組は終わった

先日放送された映画『この世界の片隅に』を久々観て、改めて感動した
この映画が世界中に届きますように/祈

今なら「GYAO!」でも無料で観られる(2019年9月3日(火) 23:59まで


【ブログ内関連記事】

『さがしています』(童心社)

記録のえほん『ひろしまのピカ』(小峰書店)

※「読書感想メモリスト3」カテゴリー内【戦争】参照



コメント

放射能 マリーが愛した光線@フランケンシュタインの誘惑 E+ 選 #9

2019-08-07 11:52:51 | テレビ・動画配信
放射能 マリーが愛した光線@フランケンシュタインの誘惑 E+ 選 #9

このタイトルで「キュリー夫人」のことだとつながらなかった

「キュリー夫人」と言えば“科学者の夫を支えた賢い妻”として
これまで何冊も児童書にも書かれてきたけれども
放射能について書かれた本があっただろうか 記憶がない

この番組に出てくるイラストレーションの画風は
『ムジカ・ピッコリーノ』の高橋昂也さんと似ていた


【内容抜粋メモ】

●プロローグ

「この番組には人間や動物を使った実験や
 科学的事件の被害者の映像が含まれています」


科学は人間に夢を見せる一方で、時に残酷な結果を突きつける
理想の人間を作ろうとした青年フランケンシュタインが怪物を生み出してしまったように




今から200年前 一冊の小説が世に出ました 主人公は科学を志す若き男
彼は死体をつなぎ合わせて命を吹き込みました

生み出されたのは醜悪な怪物
主人公は 恐ろしい復讐を受けることになります
その小説の名は「フランケンシュタイン」


大量殺戮兵器「原子爆弾」

ガンから命を救う「放射線治療」



巨大なエネルギーを生み出す「原子力発電」

これらはすべて「放射能」の発見から始まった
見つけたのは世界で最も有名な女性科学者マリー・キュリー

研究の先駆者として 女性初のノーベル賞を受賞
しかしその偉業の陰で 悲惨な死を遂げた多くの被害者たちがいた

マリーは放射能の危険性を認識しながら 続出する被害にあえて背を向けた

自らの研究成果「放射能」を我が子のように愛し続けたマリー



第1章 世界で最も有名な女性科学者
1867年 マリーはポーランドのワルシャワに生まれた




幼い頃から科学への関心と才能を発揮し、24歳でパリのソルボンヌ大学に入学
1891年 女性の進学が珍しかった当時、研究者としての道を歩み始める

1895年 物理学者ピエール・キュリーと結婚




ピエールが勤めていた 専門学校の物置小屋を実験室代わりにして 研究テーマを探していた




「不思議な光線」
マリーが目を付けたのは、当時発見されたばかりの不思議な光線だった

1895年 物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見




目に見えないこの光線は 人体の内部まで見ることができる
レントゲンは、これを「新種の光線」と題した論文で発表
不思議な光線に世界が熱狂した






1896年 アンリ・ベクレルは、X線に似た性質の別の光線が
ウランから放出されているのを発見した




目に見えない光線の研究にエジソンら、世界中の科学者が取り組み始めた
まだ20代だったマリーもこの光線の研究に没頭していく

研究者としての地位を確立しようと邁進するマリーに
様々な助言を与え、実験や計測をともに行ったピエール


「光線のエネルギーはどこから得られているのか?」
マリーはエネルギーが生まれる原因を突き止めようと
ウランに熱を加えたり、湿り気を与えたりするなど
あらゆる条件のもとで光線の強さを計測した

この光線の強さをの計測にはピエールの知識と技術が不可欠だった
当時最先端の測定器が使われた




徹底した実験と緻密な計測
どんな条件でも光線の強さは変わらなかった
そこからマリーが導き出した結論は科学界に衝撃を与えた

1898年 マリーは論文を発表
それは、全ての物質を構成する「原子」の概念を根底から覆してしまった

原子は古代ギリシャ以来、物質の最小単位であり
決して変化しないと考えられていた

しかしマリーは断言した

マリー:
光線の源になるエネルギーが他には存在しない
これはウランそのもの
つまり、原子そのものが変化して、この光線を発していることを意味する

マリーの説は常識を完全に否定してしまったのである


「マリー研究の拠点 キュリー博物館@パリ」




ロナウド・ウィン館長:
マリーの発見は原子とは何かに迫りました
全ての物質は原子で構成されています

原子そのものが変化するとすれば
物質も、この世界そのものも不変ではあり得ないということになります
これは全く新しい考えでした

(「諸行無常」なら、もっと前からあっただろうに
 白人じゃない、“科学的ではない”から問題視されなかったか


不思議な光線の研究は、原子の新しい概念を導き出した
マリーはこの光線の自然に発生する性質を
「放射能(radioactivite ラジオアクティビテ 光線を自然発生する性質)」と名付けた


「未知の放射性元素」
さらに、ある鉱石の中から はるかに強い放射線が出ていることを発見

当時、存在が明らかになっていた80以上の元素全てについて
放射線の強さを計ったマリーは
それらとは違う未知の放射性元素が存在するはずだと考えた

鉱石を一つずつ細かく砕き、蒸留して成分を分離
4年の歳月をかけて調べた鉱石は実に8トン

その中にわずか0.1g だけ含まれていた
未知の放射性元素を取り出すことに成功した

その元素は「ウラン」と同じく、見えない放射線を発し
放射能の強さはその100万倍にも達した

マリーはこの鉱石を「ラジウム(radium)」と命名した
放射能、ラジウム どちらも「光」を意味するラテン語に由来する

1903年 放射能の研究が評価され、マリーとピエールは2人でノーベル賞を受賞した
マリーは世界初の女性ノーベル賞受賞者として歴史に名を刻んだ




第2章 マリーと夫 放射能への愛
マリーとピエールは、自分たちが発見した放射性元素ラジウムの性質について
様々な実験を試みている

例えばピエールは、ラジウムを自分の腕に貼り、経過観察
ピエールの腕は火傷のように赤くただれた



これはラジウムから発せられる「放射線」によって
細胞がダメージを受けた状態による「放射線障害」

この結果に対する2人の反応は意外なものだった

知人に当てたピエールの手紙:火傷ができて嬉しい 妻も私と同様に喜んでいる


「医療への可能性」
細胞を破壊してしまうラジウムの放射線は、病気の治療に利用できると考えたのだ
ラジウムを使えば がん細胞を殺すことができるかもしれない
マイナスをプラスに変える 逆転の発想だった

2人は生体への影響をさらに調べるため
マウスをラジウムと一緒に容器に入れて観察した
全てのマウスが9時間以内に死んだ




マウスの肺からは、非常に強い放射線が検出され
白血球の多くは破壊されていた

それでも2人は ラジウムは何かの役に立つはずだと研究を続けた

ロナウド館長:
科学者のこのような態度には、ある種の感動を覚えます
科学的な好奇心に駆られ、人類に役立つ結果を導き出すには
自分の体を使ってでも実験しています

ラジウムが病気の治療に使えるかもしれないという
光の面だけしか目に入らなかったのです
科学は人類の幸福に貢献する為にあると2人は信じていました

(科学や医療の名のもとにネズミを大量に殺し続けても?

マリー:
人生には恐れなければならないものは何もありません
理解しなければならないものがあるだけです



マリーが残した実験ノート、日記を丹念に取材し
伝記を執筆した作家・ジャーナリスト バーバラ・ゴールドスミスさん




バーバラ:
科学は、彼女にとってキリスト教で言う聖杯のような
この上なく神聖なものだったのです
マリーは科学に執着し、愛し、常に科学に身を捧げていたのです


「ラジウムに産業界が注目」
ピエールがマリーに提案したことがある




ピエール:
我が家の生活は苦しい その上娘が生まれた
ラジウムの発見者として特許を取るという考えもある

マリー:
できないわ そんなこと 科学の精神に反するもの
そこから利益を引き出すなんて 私にはとんでもないわ

2人は特許を取らず、ラジウムを取り出す技術を全面的に公開した

自分たちのラジウムに関する情報を公開し、研究が進むように
他の研究室にサンプルを提供した

放射能の研究を人類の幸福のため、社会のために
もっと発展させるのだという信念があった

2人は放射能とラジウムの研究にますますのめり込んだ


「ラジウムの青白い光」
ラジウムは、暗闇で青白く光る性質がある

マリー・キュリー著『自伝的ノート』より
「暗闇を打ち消そうとするかのようなその光は、いつも私たちをうっとりさせました」




夫ピエールは、ノーベル賞受賞記念講演でこう言いました

ピエール:ラジウムは使い方次第で人類にとって大きな害になる可能性もある

マリーも その危険性を理解していました


第3章 愛が壊れるとき
1906年 ノーベル賞受賞から3年
マリーは一度の流産を経て、2人目の娘を出産 長女イレーヌ 次女エーヴ
子どもの世話に追われていた




4月19日
夫はマリーに「もう少し実験室に顔を出すよう」に言った
しかしマリーは「行けるかどうか分からない 無理を言って困らせないでほしい」と言う

放射能の研究を続ける中で 数年前から体調不良に悩まされ
足取りがおぼつかなくなっていたピエールは一人 仕事に向かった

2頭立ての馬車がすぐそばを通りかかる
重い荷物を積んでいた馬車の車輪はピエールの頭蓋骨を砕いた
即死だった 享年46歳

ピエールの遺体と対面し 茫然自失するマリーの様子を 次女エーヴはこう記している
「マリーは身じろぎもしなかった まるで人形のようになってしまった」




愛する夫 何より科学に身を捧げる同志の喪失だった

マリーはピエールが死んだ時に身につけていた服をずっと取っておいた
そこにはピエールの脳の欠片がこびりついていた

その腐った残骸を瞬きもせずに見つめ、触り、我を忘れてキスをした
天才としての独創的な発想を生み出していた脳


「再び研究漬けの日々」
ピエールとともに進めていた放射能の研究を一人黙々と続けた

マリーの日記より
「あなたの誇りとなることだけが私の生きる支えです」

マリーの娘達は ピエールが死んだその日から
母の人格がガラッと変わったのを目の当たりにした
マリーは研究に身を捧げ、放射能だけに執着した

(もっとも愛する者の喪失で、心を病んでいたのでは?

マリーは、朝から夜中の2時、3時まで実験室にこもった
学会に出席するために何日か家を空けることもあった

母との時間を失った娘たち
長女はマリーにこんな手紙を送っている

「私の優しいお母さん いつ私たちたちのもとに戻ってくるのですか?
 お母さんが戻ってくればとても幸せです 私はとても抱きつきたいからです」


しかしマリーが見ていたのは科学だけだった
この頃マリーは子ども達について日記にこう綴っている

「どちらも優しく、可愛く、いい子です
 ですが娘たちでは私の生命力を呼び覚ますことはできないのです」


第4章 ラジウム狂想曲
特許を取らなかったことが後押しし、その利用が広がって行くラジウム

がん治療に役立つというキュリー夫妻の発表をきっかけに
1910年代には多くの病院でラジウム治療が実践されるようになった




ラジウムは「生命の万能薬」「魔法の力」ともてはやされ
様々な商品にラジウムが配合された

(なんてこった! だから最新科学、最新医療をなんて信じられないんだ
 金と結びつくとろくなことにならない

美しい肌をつくると言われたラジウム入りの化粧品(ヤバイ・・・




強壮剤になるというふれこみの「ラジウムウォーター」を作るポット




ラジウムパン、入浴剤など ラジウム商品が続々と登場した




そうした商品の中から恐ろしい事件が発生する


「ラジウム時計」
文字盤をラジウム入りの塗料で塗り、暗闇でも見えるようにしたものだった
(そういう目覚まし時計、昔使ってたな さすがにラジウムじゃないだろうけど




特にアメリカで大量に生産された

当時のラジウム時計の工場




「ラジウムガール」
1920年には400万個のラジウム時計を生産
文字盤を塗る工員だけで 2000人以上が働いた その多くが若い女性だった
彼女たちは 細かい塗装を施すため ラジウムが付いた筆を舐めて尖らせた






一人一日何百という文字盤を塗った
その女性たちが 次々と病に倒れた

顎にできた腫瘍
がん細胞の腐敗が起こり、激しい痛みの中で死んでいった
彼女たちは後に「ラジウムガール」と呼ばれた






被害関係者:
被害者のほとんどは高校生でした
顎に大きな腫瘍ができたり
骨の癌を発症したりして死んでいったのです




公衆衛生学の専門家で、ラジウムガール被害について研究したロス・ミュルナー教授:
ラジウムは、体に取り込むと、骨に沈着し、長期間にわたり放射線を出し続けます
そして顎が崩壊し、壊死します
さらに崩壊が進むと、下顎が完全に取れてしまいました


ニュージャージー州 ラジウム時計の工場跡地




かつては高い放射線が検出され
除染作業には 10年の歳月を要した


当時の状況を知る人物を訪ねた
母親が時計の塗装をしていたロナルド・ウィリアムスさん

彼の母はイリノイ州にあった工場で3年間働いた
筆先を舐めずに仕事をしていたため幸いにも被害を免れた






ロナルド:
女性たちはみんな健康的で、若々しく
おしゃれをしたり高収入を得たいと思っていました

より多くの文字盤を塗って、少しでも稼ごうとして筆の先を舐めたのです
会社側は何度も繰り返し「ラジウムは危険じゃない」と言っていたそうです
母達は騙されていたのです


1925年 ラジウムガールの被害が初めて小さな記事で報じられた




24歳の工員マーガレット・カーロウが会社を相手取り 訴訟を起こした
これをきっかけに病気の原因の調査が本格的に始まった

亡くなった被害者を解剖したところ、肺などの器官や骨から
高い放射線が検出された

ラジウム被害に関する調査をまとめた報告書:
女性たちを死に至らしめた謎の病気の原因は、微小な放射性物質である

ラジウム時計に使われていたラジウムが非常に少量であったため
当時の科学者たちはそれが人間を死に至らしめるなどと考えもしませんでした
しかし調査の結果、ほとんどの科学者がラジウムが原因だと認めました

さらに報告書の発表後にも女性たちが次々と亡くなっていき
ラジウムの危険性は一層明白になりました

(これはマリーの研究のせいもあるけど
 それに乗じていろんな商品を作った企業の責任も重大
 ピエールは害になる可能性も指摘していたわけだし

「ラジウム産業」に恩恵を与え、人類に貢献したと考えていたマリーは
ラジウムガールの被害についてアメリカの新聞が行ったインタビューにこう答えている

マリー:
体内に入ってしまったラジウムを除去する方法はありません
最適な方法は、仕事を辞め、雇われていた工場から限りなく離れた場所に住むことです




「放射線障害」
その頃、マリーはパリのラジウム研究所の初代所長として
放射能の研究に邁進していた

しかし、マリー自身、いくつもの体調不良に襲われていた
貧血、慢性的な疲労感、指先はただれ、ひび割れていた






研究所では ラジウムによる指先の火傷は、科学の戦場で勝ち取った勲章だった
(マッドドクター?! 天才となんとかは紙一重とか

マリーと一緒に研究をした学生や研究者たちは
放射線の火傷の跡のある手を見せて自慢していました

それは、貴重な物質を取り扱っている誇り
最先端の科学者である証明だったのです

体調を崩した職員には短い休暇を与え、山の新鮮な空気を吸ってくるよう勧めた

(治療法が見つかる前の結核患者と同じアドバイス


かつての同僚にも被害者が出た モーリス・ドムニトロー
20年間ラジウムを使い続け、突然激しい疲労感と手足の痛みに襲われて入院
ひと月も待たずに悪性貧血で死亡した
死の間際「放射性のガスに殺された」と漏らしたと言う

彼の死因について報告書を作らせたマリーは、そこにこう書いた
「彼は新鮮な空気を十分にとることができなかった」

放射能の危険性を認識していたにも関わらず
マリーはなぜ そこに科学者の目を向けることができなかったのか

マリーは知人にこう語った

放射能も私が産んだ子どもなの
 その子の教育のために、自分の力の全て
 自分の研究生活の全てを捧げようと思っているわ」


バーバラ:
マリーは自分の発見したラジウムを溺愛していたのです
それ以外のことはすべて二の次でした
ラジウム、放射能はマリーにとって我が子同然

ピエールという同志を失ってからも心を満たしてくれるものでした
危険性があるからといって失うわけにはいかなかったのです
マリーはラジウムと放射能にひたすら執着したのです


「2度目のノーベル化学賞を受賞」
研究を続けたマリーは1911年 再びノーベル化学賞を受賞
この賞を2度受賞した科学者は 2018年までに4人しかいません



(ノーベル賞って、必ずしも平和や幸福に基づく観点から選ばれるものじゃないんだな
 新しいモノを見つけた人に「イイねv」みたいな感覚


やがて世間や他の科学者たちが 放射能の危険性に気づき始めました(遅いよ

ラジウムガール達が働いていた会社では
男性社員たちには その危険性を警告していました(ここにまで性差別!?
女性達とは対照的に 男性たちは 鉛のエプロンで 身を守っていました

また 同時代のドイツの物理学者 リーゼ・マイトナーは
直接手で触れないように放射線対策をとっていたといいます




しかしマリーは 最後まで放射線の死の側面から目を逸らし続けたのです



■第5章 マリーが切り開いた核の時代
年を重ねるごとにマリーの体は蝕まれていった

肝臓と腎臓の障害、極度の貧血、絶え間ない耳鳴り
視力も衰え、両目とも白内障の恐れがあった


日に日に弱っていく中で、親しい友人にだけ漏らした告白がある

マリー:
私の白内障の本当の原因は ラジウムかもしれないの
ふらついて 歩くのに苦労するのも ラジウムのせいかもしれない

1934年7月4日 マリー 死去 享年66歳
死因は「放射線被曝」による再生不良貧血


母の愛を渇望していた長女はマリーの背中を追って科学の道に進んでいた




科学者の夫と共に、母が切り開いた放射能の研究を進め
1935年 夫妻でノーベル化学賞を受賞
しかし、イレーヌ夫妻もまた「放射線障害」で亡くなった

マリーの発見は、世界中の科学者を「原子」そのものの研究へと向かわせた
それはその後の世界のありようを変えてしまう「禁断の扉」でもあった


「原子爆弾」
原子は「原子核」を持ち、その原子核が分裂する際、大きなエネルギーを発する これが原子力




1945年8月6日
人類は 原子力を大量破壊兵器として利用する原子爆弾を完成させ 初めて実戦で使用
広島に投下された原子爆弾は、爆心地から2kmの建物ほとんど全てを吹き飛ばし
一瞬にして人々の命を奪った

原爆投下後の広島




さらに、大量に放出された「放射線」の影響が生き延びた人々にも後々までつきまとう






その後も核兵器の開発・拡散は続いた

バーバラ:
マリーは、自分が愛した発見は、必ず世界を良い方向に導くと信じていました
まさか悪い方向に行くなんて そんな可能性を考えていたでしょうか
それはキノコ雲となってしまいました
彼女が知ったら後悔したでしょう 自分がその扉を開いてしまったことを



(もっと罪深いのは、放射能、原子爆弾が 一瞬にして大勢を殺すと知っていながら
 今なお大量に持ち続けている 世界中の国々だ


「原子力発電」
核分裂のエネルギーを利用した「原子力発電」が
1950年代以降 各国で実用化され、各国で実用化される




放射性物質を燃料に 巨大な電力を生み出すが
ひとたび制御不能になれば大惨事を引き起こす



※東京電力ホームページより引用


1986年 チェルノブイリ




2011年 福島




バーバラ:
起きたことを元に戻すのは難しいのです
我々は今後、何世代にもわたって
この恐ろしい力と付き合っていかなければなりません


人類は放射能の恐怖と切り離せない「核の時代」へと突き進んでいったのだ
科学上の偉大な発見は、時に世界をこれまでとはまったく違うものに変えてしまいます


「パリの国立図書館」






ここにマリーの研究ノートが保管されているが
マイクロフィルムの閲覧でしか許されていない
今なお放射性物質の影響が残っているのだという






ラジウム被害が続出している渦中にあった 晩年のマリー
慣れ親しんだラジウムの光を じっと見つめ こう呟いたと言う

マリー:なんて美しいんでしょう




<次週の番宣>








ラジウムもウランも 自然の物質
自然はすべからく美しく、我々を魅了するが
使い方によっては 地球そのものも
滅ぼしてしまう力があることを忘れてはならない



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