この番組のテーマを
「自衛隊は国防として必要だ」
「他国と戦争する武力として拡大している」という警告
どちらに受け取るかで、「平和憲法」の解釈が変わり
日本の平和が変わる
軍靴の響きは、いつも私たちの感覚を少しずつ歪めながら
ある日突然、日常を戦場に変える
【内容抜粋メモ】
自衛隊史上初めて 事実上の空母に回収される護衛艦がある
全長248m
今回、このかがへの単独取材が許された
記者:ここから見ると一番長さ、大きさがわかりますね
自衛隊員:本当に個人的にはもう滑走路に見えますよね
発足以来 必要最小限度の実力組織として 国土の防衛に徹してきた自衛隊
この飛行甲板から 強力な攻撃力を持つ戦闘機の発着が可能となった
■
平成の30年 自衛隊はその姿を大きく変えた
「海外への部隊派遣」「アメリカ軍との一体化」
今回、その内幕を語る 膨大な証言と記録を入手した
自衛隊変貌の分岐点に何があったのか
平成は私たちにとってどのような時代だったのか
新たな証言や 新発見の資料から 激動の30年を見つめるシリーズ
戦争で甚大な犠牲を出した昭和の後
1度も戦火にさらされることがなかった 平成の日本
しかしこの30年 自衛隊は想定外の事態自体に
相次いで直面し その度に変化を求められてきた
●
1998年 北朝鮮テポドン1号発射
冷戦終結後に顕在化した 北朝鮮の軍事的挑発
●
1999年 能登半島沖不審船事件
海上自衛隊は初めて 武器を使用する局面に至った
その緊迫の舞台裏を記した 未公開資料を入手した
●
2004年イラク派遣
戦闘が続く中で実施されたイラク派遣
自衛隊は 自ら
戦死を想定する組織へと 変貌を遂げていたことがわかった
先の大戦を教訓に
「専守防衛」のもとで活動してきた自衛隊
平和を享受してきた私たちは、次の時代、自衛隊に何を求めるのか?
(永久に戦争をしないと決めたのに、どんどん軍備に税金を使うのは何のためか?
■
平成の自衛隊 任務拡大の30年
社会部 防衛担当デスク 吉田:
サマワの宿営地から運び出された物資は、国境を越えて連日この国道を…
私が防衛担当記者として 自衛隊の取材を始めたのは 20年ほど前
海外派遣や、アメリカ軍の支援など
自衛隊が その任務を拡大していった時期と重なります
そして、自衛隊の活動を広げるための
法整備も進みました
それまでの憲法解釈では許されてこなかった
「集団的自衛権の行使」
つまり同盟国への攻撃に 武力で対処する ことも可能になりました
北朝鮮、中国、ロシアの映像
4月1日 防衛省
9月1日に退任した自衛隊トップの幕僚長は、24万の隊員に向けてこう語りました
(あの胸のメダルは、まさか人を殺した証じゃないよね?
前統合幕僚長・河野克俊さん:
変革の時代に自衛隊に身を置くことができたことを幸運だったと感じています
一方で、信頼は一瞬で崩れ去るものでもあります
慢心することなく、常に謙虚な心を忘れず
同時に、防衛省自衛隊の一員であることに誇りと自信を持ち続けてください
任務の拡大が続いた平成の自衛隊
私たちは、その意味を本当に理解しているのか?
改めてその内実を取材することにしました
●
1989年(平成元年)冷戦終結
平成は東西冷戦が終結した、まさにその年に始まった
●
1990年代 朝鮮半島危機
世界各地で勃発した紛争
日本が初めて 国際情勢の変化に直面したのがいわゆる 朝鮮半島危機だった
「戦争が起きれば ソウルは火の海になるだろう」
北朝鮮が 密かに核やミサイルを開発していたことが表面化
朝鮮半島でアメリカ軍が 軍事行動を起こす可能性が高まったのだ
●
1998年 日本の上空を超える弾道ミサイルを発射
北朝鮮に対する警戒が急速に強まった
それは自衛隊にとって
「抑止力」として存在すれば良かった時代から
実際に武器を使用する時代への 転換を意味していた
今回私たちは、海上自衛隊が 初めて武器の使用を命じられた
ある事件に関する記録を入手した
●
1999年3月 能登半島沖 不審船事件事案
ニュース:
能登半島沖と佐渡沖の日本海で漁船の形をした不審な二隻の船が相次いで見つかり
防衛庁と海上保安庁では護衛艦や巡視船艇を出して 逃げている船を追跡しています
事件は2隻の北朝鮮の不審船が日本の領海内に侵入したことから始まった
船には「ロケットランチャー」などで武装した工作員が乗っていることが疑われた
隊員:停船しなければ攻撃する ライトで警告を発してから威嚇射撃を行った
本来、不審船に対応するのは海上保安庁
しかし、不審船は 猛スピードで逃走 海上保安庁の船を引き離した
対応できるのは ともに追尾していた 自衛隊の護衛艦だけとなった
(海上保安庁の船のほうが遅く造ってあるんだ
記録を残した
当時の海上幕僚長 山本氏は
防衛庁長官室で指揮を行った緊迫の舞台裏を書き留めていた
山本氏「何もせず逃げられたのでは大問題になる 顔を見合わせる」
深夜 政府は自衛隊に対し 不審船を停止させるため、
史上初の海上警備行動を発令
当時、官房長官の野中広務:
0時45分に防衛庁長官が自衛隊の部隊に対し
海上における警備行動を命ずることを承認いたしました
「海上警備行動」は、元々、ソビエトを念頭に
戦争の一歩手前で部隊が出動するような大掛かりなものが想定されていた
初めての武器使用は、不審船の周囲への警告射撃
山本が強く意識したのは、自衛隊に対する 国民の視線だった
ノート:どの程度射撃をしたら 国民が納得するのか シビル(防衛官僚)に聞く
「12、3回の射撃でいいのではないか」
山本さん:
追いかけて何もしないということは、これは
国民が納得しないだろうと思うし
また、海上自衛隊にやらせたら
「ここまでやっちゃうのか?」と 言うのもまた
影響は大きいだろうということで その範囲を考えておりました
12回の警告射撃、合計22発 北朝鮮の不審船が停まることはなかった
一歩対応を誤れば、国と国との 軍事的な衝突に発展しかねない緊迫した事態
山本氏は最後まで許可しなかった措置があった
ノート
「最も強い措置は、砲弾による実弾射撃 最後まで禁止」
専守防衛のもと、
軍隊とは一線を画してきた自衛隊
山本氏は武器の使用は「抑制」であるべきだと律してきた
山本さん:
武力を持った組織の一つの宿命ですね
歴史が色々あるじゃないですか 極端に走った歴史が
そういうのがやっぱり頭の中にあるんですよ
記録には、
積極的な対応を求める防衛庁長官の発言も残されていた
ノート:
ある幹部が大臣に立入検査危険と進言したところ、大臣怒る
「やらないで逃げられたと国会で答弁できるか?!」
それまで海上自衛隊は、立入検査を 具体的な任務として想定しておらず
防弾チョッキも積んでいなかった
実習を強く主張したのは、
当時の防衛庁長官の野呂田芳成だった
野呂田が 当時の判断について初めて証言した
野呂田:
「あんなボロ船を沈められないのか」っていうような感情になるわけ
「海上警備行動なんかやったら戦争につながるから駄目だ」と言う世論はすごい強いわけです
それがあるから50年間やらなかった
だけど、一晩中、自衛隊が攻撃しないで 威嚇だけやっているのを見たら
国民は「やっぱりこれじゃ国は守れない」と
この時、現場の指揮官として 不審船の追跡に当たった
当時 第3護衛隊群司令官 吉川英治氏
立入検査に備えて護衛艦の食堂に集めた 隊員20人の顔が忘れられないと言う
吉川:
何と言いますか 今まで経験したことのないような雰囲気でした
防弾チョッキではなくて
救命胴衣に雑誌とかを挟んで膨らんだような状況でしたし
なかなか声をかける雰囲気ではなかったですね
互いに見つめ合って「頼んだぞ」と
結局、不審船は北朝鮮へと逃走
立ち入り検査も実施されることはなかった
事件の後、海上自衛隊には一部の国民から厳しい声が届いた
「なぜ逃した」「税金泥棒」
(こういう事を言う人が 前線に立てばいいいい
自衛隊に強硬な対応を求める声があることに山本は戸惑ったと言う
山本:
これだけ予算付けて、これだけ装備を与えて
何もできないのか、ということではないですか
皆さんが
法体系とか知っておられる方ばかりではない
もしかしたら
一夜で一変する世論かもわからないです だから怖いですよね
だから時勢・時局に惑わされないのが一番ですよね 特に力を持っている組織はね
不審船事件が露わにした自衛隊に対する要求の変化
事態をエスカレートさせないよう自衛隊に何を、どこまで担わせるのか
突きつけられたのは その判断の重さだった
●
1991年(平成3年)湾岸戦争
安全保障環境によってその姿を変えていった自衛隊
その背後で常に大きく影響していたのが
同盟国アメリカとの関係
湾岸戦争で 日本はトラウマを抱えた
部隊派遣を見送ったことでアメリカから激しい非難を浴びたのです
(あらゆる紛争の火種に顔を突っ込んで、戦争で金儲けを常に企んでいる
アメリカの傘の下にずっといたままでは
日本がどう憲法で国を守ろうとしても限界があるのではないか?
ベトナム戦争で国が一変してしまったのに 人間って本当に懲りないんだなあ
朝鮮半島で有事が起こった場合どうするのか
アメリカ軍は直接支援するよう 日本に強く求めるようになります
■
自衛隊とアメリカ軍との間での極秘の交渉
その窓口となっていた陸上自衛隊の元幹部が取材に応じました
(自衛隊員も、家族の中に 戦争犠牲者がいる人も大勢いるのではないか?
陸上自衛隊 元陸将 山口昇:
米軍が要求したら物資を調達してくれるのか
あるいは自衛隊の武器を貸してくれるのかと言うと
そういう法律の枠組みがないわけですから、当時
そうするとできないというわけですよ
米軍側からすると「これが同盟国なのかよ」と
「もし日本の隣で 血なまぐさいことが起きて
そこで何もできないとなったらもう同盟はないぞ」と
(だから毎日のように脅迫状のようなニュースを流しているのか
本当の戦争の親玉は、いつの世も経済大国だった
●1999年(平成11年)
「周辺事態法」が成立
アメリカの求めに応じ、同盟国への支援の方法を根本的に変える法律
国会「法案に賛成の方の起立を願います」皆、起立する
日本が直接攻撃されていない場合でも
自衛隊はアメリカ軍の作戦に協力することが可能とされた
そして2000年代
自衛隊は
憲法に抵触しかねない任務まで 行うようになっていきました
●
2001年9月11日(平成13年)アメリカ同時多発テロ 空母護衛の内実
きっかけは「アメリカ同時多発テロ」 同盟国の中枢が攻撃されたことでした
(これは、アメリカが周辺諸国にしてきたことの因果応報
当時首相 小泉純一郎:
わが国は米国を強く支持し、必要な援助と協力を惜しまない
「アメリカ軍の空母キティホーク」
テロとの戦いに乗り出すために横須賀を緊急出港した
海上自衛隊がこの時行ったのは その護衛
キティホークが攻撃された場合、自衛隊が対処すれば
「集団的自衛権の行使」にあたるとして批判の声が上がりました
しかし、政府は、通常行っている
「警戒・監視」活動だとして
あくまで護衛ではないと説明しました
当時 防衛庁長官 中谷元
今回、その内実が初めて明らかになりました
作戦を中心になってめた
香田洋二さん 当時 海上幕僚監部 防衛部長
アメリカ軍から直接依頼され
事実上の護衛を決断していました
香田:まなじりを決して 頼んできましたから 米軍が
●
この時、自衛隊の幹部が最悪の事態として想定していたのは、9.11と同様のケース
羽田空港を飛び立った燃料満載の旅客機がハイジャックされ
キティホークに突っ込んでくる事態でした
幸田:
当時の一番大きな目的は、アメリカの心配を理解した上で
日米関係をできるだけ 正常に保つということ
それでしかも、アメリカに対して安心を与え
航空母艦をテロリストの攻撃から守る
当時の防衛事務次官も すぐに同意していたことを明かしました
戦争経験のある元閣僚から抗議を受けましたが
それでもアメリカ軍の作戦に主体的に貢献することを重視したといいます
当時 防衛事務次官 佐藤謙:
私の所にはいろいろなところから 抗議というかお叱りが随分入りましたが
日本の安全はアメリカと一緒にやらないと確保できないということは
もう骨に染みて 骨の髄までそういう考えは浸透していたということだと思います
しかし現場の自衛官にとって
護衛は「人に危害を加える武器使用を含む任務」を意味していました
旅客機がハイジャックされた場合、そこには多くの日本人が乗っています
日米同盟の堅持のため、旅客機を撃墜し、自ら国民の命を奪うのか
かつては想定しなかった 判断を迫られていたのです
幸田:
撃墜するかしないかということしかないわけで そこまでは考えました
しかしその後、最後、その場にならないとわからない できない
どっちに重きを置いたかといえば それはあります
それはここの場では、それだけは勘弁していただきたいのですが
繰り返しになりますが
日本人の乗客の命を犠牲にして
アメリカを助けて、日米体制を守ったと これもつらいです
これはもうおそらく、日本国が国際政治上は理解されても
人道上大きな負荷なんですね
それについて事前に決心ができるほど、私は強くありませんでした
アメリカケンタッキー州
自衛隊に支援を依頼したアメリカ軍の元幹部が取材に応じました
当時の在日 アメリカ海軍司令官 ロバート・チャプリン
自衛隊の行動が憲法で制約されることを知っていた元司令官は
海上自衛隊の行動を高く評価していました(そんな評価は要らない
チャプリン:
自衛隊が行った支援は、私たちの想像をはるかに超えるものでした
私達は民間機の撃墜については話し合っていません
それは言葉にしなくても済んだのです
Q:同盟国の海上自衛隊がそのような決心をしたことをどう受け止めましたか?
チャプリン:
命令を出す人間は、その決断と共に生きていかなければなりません
その責任は抱え続けるものなのです
同盟国を守るための究極の決断
アメリカ軍との一体化によって、自衛隊は専守防衛の内実を揺るがしかねない
任務をも負うことになったのです
●2015年(平成27年)
「安全保障関連法」 成立
アメリカ軍の艦艇などの防護は 平時から可能とされました
この3年間で18件 年々増えています
■
大きく変わった安全保障環境
●
1992年(平成4年)カンボジア PKO
日米同盟の深まり、その変換が 自衛隊にもたらしたのは
事実上の
戦場にまで 活動の領域を広げることだった
分岐点となったのは、2004年陸上自衛隊のイラク派遣だった
■
秘録 イラク派遣 非戦闘地域と戦死
●
2003年(平成15年)イラク戦争
イラクが大量破壊兵器を保有しているとして戦争に踏み切ったアメリカ
ドイツ、フランスなどが反対する中
日本は再び率先してアメリカへの支持を表明した
●
2004年(平成16年)イラク派遣
号外
当時 官房長官 福田康夫:
合理的に判断して決定したことですから 支持をしたんです
●
「イラク支援法」成立
開戦から4ヶ月後には 特別に法律が作られ
復興支援のため、自衛隊のイラク派遣が決まった
当時の官房長官 福田康夫:
アメリカは日本に対して「復興支援をぜひやってほしい」と
主要国が協力的ではなかったこともありましたので
日本に対する期待が非常に高まった
●
国連事務所爆破@イラク バグダッド
しかし、大規模戦闘が終結したと言われるイラクでは
各地でテロが頻発し、死者が増え続ける状況となっていた
(みんな分かっていたことなのに 日本はアメリカの捨て駒か
戦闘地域への派遣は憲法に抵触するおそれがあるため
政府は、自衛隊が行くのはあくまで
「非戦闘地域」だけだと説明した
当時 民主党代表 岡田克也:
非戦闘地域であると断言されたその根拠は何なのでしょうか?
小泉:
根拠と言えば、戦闘が行われていないということです
だからこそ非戦闘地域(なぜ笑ってる???
●
ある自衛隊員の日記
今回、私たちは部隊の派遣が 正式に決まる前に
準備のためイラクに入ったある自衛隊員の日記を入手した(膨大な量/驚
隊員はそこで、日本人が襲撃される事件に遭遇
日記には非戦闘地域という言葉とは裏腹に
「戦死」への備えを 迫られていく過程が記されていた
●
外務省から派遣されていた2人の外交官が 車で移動中に銃撃された
ニュース:イラクの付近で 日本人2人が乗った外交官車両が襲撃され、死亡しました
日記:
愕然とした あまりのことに実感として理解できない
ご遺族が対面する 変わり果てた姿を目にし、耐え難い悲しみに震えた声が聞こえる
うなるような悲痛な泣き声がテントを覆う あまりの残酷さに体が震える
遺族の対応にあたることになった隊員がアメリカ軍から
「戦場で犠牲が出た場合、遺体の搬送は その国の軍隊が行うものだ」と知らされた
携帯電話が鳴る 米軍の少佐からの電話である
戦場における後送調整については私の仕事だと認識しているようだ
大使館へ電話をする 相当混線している 繋がらない
大使館員の携帯電話にかける 繋がらない
結局、隊員は 2人の外交官への対応を アメリカ軍に頼ることになった
今後、非戦闘地域とされた場所で犠牲者が出ることに備えなければならない
テレビでニュースを見て泣く職員ら
(銃を持つ=人を殺す というとてもシンプルなこと
犠牲になるのは、いつも私たち国民
●
事件を受けたデモ
「自衛隊をイラクに送りません」「もう犠牲者はいらない」
自衛隊はその矛盾に直面していた
日記:
イラクに非戦闘地域はない
戦場に立ってしまっている Boots on the ground
日本はルビコン川の対岸に足をかけてしまった
(法案を成立させた人達が、「非戦闘地域」の前線に立てばいいのでは?
そういう法律を成立させよう
●
「R」と呼ばれる計画の内部資料
今回、この隊員の報告の後に 自衛隊内部でまとめられていた
「R」と呼ばれる計画の内部資料を入手した
自衛隊史上初めて
「戦死」を想定した 詳細な計画を立てていたことが明らかになった
遺体をイラクから 日本まで輸送する手順
そして棺を安置する台は12箱用意するとされた
当時 陸上幕僚長 先崎一が「R」の存在を初めて認めた
先崎:
政治の方はそういう危険なところへは行かせない
自衛隊がいるところは非戦闘地域ということだったのですが
でもそういう風なことでも、やっぱり現場をよく考え、分析し
変化の状況を見ると、やっぱり何かあるかもしれない
現にそれに近い事もあったわけですから、何回も
国の命令で派遣されて、亡くなって、不幸にして犠牲になって
事故扱いでは浮かばれないと それは無責任じゃないかと
●
2年半にわたった陸上自衛隊の活動で、派遣された隊員は 5600人に上った
会議:
昨日の当宿営地に対する迫撃弾でありますが
サマーワ陸自砲撃2発は宿営地内・・・
当時 イラク復興業務支援隊長 田浦正人氏が取材に応じた
当時の活動を記したメモには、現地の生々しい実態が残されていた
活動期間中、宿営地には
迫撃砲などによる 14回の攻撃が行われた
メモ:8月23日に 迫撃砲の弾着があった
「一発目発見 連絡頼む」
田浦が派遣されていた半年間 7回の攻撃を受け
共に活動していたオランダ軍の兵士が銃撃戦で死亡するなど
緊張を強いられる日々が続いていた
●
日本に向けたビデオレター
「業務支援隊 皆元気で~す! 安心して待っていてください!」みんな笑顔
(第2次世界大戦中に映画館で流れていたニュース映画と全く同じじゃないか
一人の犠牲も出してはならないと重圧を感じていた
国が法律で非戦闘地域と定めた場所での任務
政治の決定に従って任務を行う以上
その説明と矛盾しない結果が求められると
強く感じていたと言う 田浦さん
田浦さん:
もし何かあった時には、もちろん自衛隊、日本国に与える影響
その中には政府に与える影響は
当然少なからず大きなものはあるだろうと思っていました
私どもは、国のやりたいことを具現化する“装置”だと思っているので
そこはなりきってやるしかない
(完全に軍隊だ 国の命令は絶対
名前や体裁をいくら変えても やっていることは人殺し
当時 アメリカ軍 イラク多国籍軍司令官 ジョージ・ケーシー:
イラクで目にした自衛隊は、紛れもなく
軍事作戦を行う組織だった
日本が協力した多国籍軍の活動は、とても大きな政治声明となりました
自衛隊が犠牲者を出さずに任務をやり遂げたことは
大きな軍事的業績と言えるでしょう
陸上自衛隊のイラク派遣は、結果として一人の犠牲者も出すことなく活動を終えた
(この自衛隊の行進を見て 北朝鮮の映像を批判できるだろうか?
泣きながら父親を迎える妻と子ども達 父:ごめんね
しかし、田浦は、
危険な任務の内実が共有されていないのではないかと
複雑な思いを抱き続けてきた
田浦さん:
一人の犠牲者も出さなかったという意味においては
明らかに私は成功体験だったとみていいと思います
しかしながら、全て忘れてよかったかと言うとそうではなくて
次に新たな任務が来た時に
「イラクの時はこうしていたのだから、イラクのようにすればいい」と言った話が
たくさん出ていたので、これは非常に危惧すべきことだと
吉田:
自衛隊の大きな分岐点となったイラク派遣
現地で取材にあたった私は、その変化を まさに目の当たりにしました
しかし、その任務の
最も厳しい現実は 広く国民に知らされず
検証されることもありませんでした
その後も海外への派遣は続きます
■
苛烈な海外派遣 遠ざけられた内実
●
2012年(平成24年)南スーダン PKO
大規模な武力衝突が起き、
遺書をしたためた隊員もいたほど
かつてない苛烈な任務を経験します
しかし、法的な意味での戦闘行為はなかったと説明
●
日報隠蔽
さらに、現地の実態を記録した「日報」が隠蔽され
国民は意図的にその内実から遠ざけられました
■
変貌の30年 これからの自衛隊
この4月まで歴代最長4年5ヶ月にわたって
自衛隊のトップ統合幕僚長を務めた河野克俊さん
この30年の変貌の渦中に身を置いた河野さんに
これからの自衛隊はどうあるべきか問いました
吉田:
PKO 部隊の日報が隠蔽された あの問題は本当にショックだったですね
あの問題をどう受け止めるかというのは
ちゃんとを総括したほうがいいと思うのですが、いかがでしょうか?
河野:
今、深く反省して体制も立て直しましたので
そこは国民の皆様にお詫びするしかないと思っております
隠蔽は根本的なダメージになりますから
ここのところはよく自衛隊員、自衛官は認識を新たにしてもらいたい
(自衛隊員!? 政治家じゃなくて!?
Q:次の時代の自衛官の方に 伝えたい言葉はありますか?
河野:
厳密な
「シビリアンコントロール(文民統制)」のもと
政治の判断に従ってやると、
その裏にいるのは国民です
そこはもう絶対に踏み外してはいけないことだと思います
国民に顔の見える自衛隊であってほしいということ
国民の信頼を得るためには、やはり常に謙虚な姿勢 慢心しない
小泉内閣の官房長官として 自衛隊の転機となったイラク派遣などの
安全保障政策に携わった福田康夫
平成の時代 自衛隊に任務拡大を求める中
政治はその責任を果たしてきたのかと問いました(この人に?
Q:今振り返った時に 非戦闘地域という表現は適切だったでしょうか ?
福田:
かなり苦しい表現っていうか(笑
法律として 国会で議論するにはふさわしくない状況だったと思います
イラク派遣を決めた法律が 国会を通過した頃に
皮肉にもテロ活動が活発になってきたんです
それも大規模なテロ活動になってしまった
我々としては応えなければいけない状況に
さらに強い状況が生まれてきたという皮肉な状況になりました
これは我々の見通しが甘かったといえば、そうだったかもしれない
Q:
まさに憲法の下 専守防衛の原則の下に運用されていますが
内容によっては専守防衛と矛盾するのではないかという
厳しい指摘があった時期もあったと思いますが?
福田:
海外において、日本は軍事活動はしないと
この原則をいかにして守るかに必死になっていた
憲法の枠は崩せるものではないんです、そう簡単に
まさに憲法との戦いという感じです
ですから憲法を犯さないで、どこまでできるかという
ギリギリのところをやってきた そういう思いです
(どうしたら憲法の枠組みを そのままにしつつ
戦争ができるかを探ってるように聞こえる
自衛隊の活動が大きく様変わりした平成の30年
その統制にあたる
政治の責任が より問われることになりました
安全保障環境の変化で自衛隊の運用はこれまでになく難しくなろうとしています
政治の責任の重み そして政治に参加する 私たちの声の重みが
ますます増していると今回の取材で強く感じました
●
海上幕僚監部 広報室
冷戦終結後、北朝鮮の不審船事件など
時代の変化にいち早く直面した海上自衛隊の広報室
海上自衛隊は去年末、公式 Twitter にある投稿を行った
韓国軍にレーダー照射されたP1哨戒機の写真
日本と韓国の対立が深まる中での投稿に対し
煽るようなコメントも少なくなかった
(むしろ多いと思う
mixi とか びっくりするようなコメントがたくさんある 「殺せ」「死ね」「非国民」・・・
そういう人たちも影で煽るだけじゃなくて 実際、自衛隊に入ってみたらどうだろうか?
書いているのは、徴兵されないと高をくくっている世代か?
●
北海道 滝川駐屯地
自衛隊は 各地で新たな任務に向けた訓練に取り組んでいる
(ものすごい戦車の数! 全国の自衛隊基地にあるのだろうか?
銃や戦車=人殺し、戦争の道具
その指揮にあたっていたのは、イラクに派遣された田浦 北部方面総監
専守防衛の原則が変わらない一方で
装備の拡充は続けられている
隊員:
105m砲による迅速・正確な直射火力及び
軽快・機敏な路上機動力を駆使して
敵走行車両などを撃破する他
警戒・監視目標情報の獲得などに運用します!
田浦:素晴らしい装備品などでしっかり使いこなして、乗りこなして・・・
●
自衛隊は今 その戦闘能力を 高め続けている
時速100 km で移動できる車両、新型機動戦闘車
航空機が輸送し どこにでも展開することが可能になった
戦後70年余り
平和国家として歩んできた日本
自衛隊は、専守防衛の組織として この国の一つの姿を現してきた
その理念を受け継いでいくのか 令和の時代が始まろうとしている
子どもに戦闘服を着させて
「カッコいいじゃん」と褒める隊員 笑う子ども
さっき、妻子から迎えられて「ごめんよ」って泣いていた 自衛隊員がいたのに
隊員らは子どもが「自衛隊員になりたい」と言ったら、ならせるのだろうか?
なんで男の子って 銃や戦闘機などが好きなんだろうなあ
町中にあるポスターだけじゃなくて
こうして具体的に「自衛隊に入ろう!」っていう
勧誘活動をしているということも知らなかった 徴兵みたいなもの
子ども連れの家族もたくさんいて、フツーに写メっている
戦車の射撃訓練を見て「カッコいい」と洗脳されて
戦場に送られるかもしれないのに
今、その岐路に立っているんだ