≪「オランダ」の「マーストリヒト」観光≫
「ドイツ」に別れを告げて国境を越え「オランダ」に入った。かっての国境税関の建物らしきものは残っていたが、使われていなかった。今回の国境にも、両側にそれぞれ立て札があっただけだった。「EU統合」とは、人、物、経済、文化の統合であり、本当に歴史的な事だったのだと改めて考えさせられた。
「オランダ」に入ると、何故か田園風景が広がり出した。
まず「牧草」を栽培→翌年「牧畜」をして農地を肥やす→その翌年に「小麦や野菜」栽培→肥料分が少なくなるので次年は「牧草」という輪作を繰り返して、農地の地力を維持しながら農業を続ける方法が取られている様だった。
町が見えて来た。家々の窓にカーテンはない。添乗員は「オランダでは質素倹約の精神を尊ぶ「プロテスタント」が多いので、家の中はさっぱりと整理整頓してあり、カーテンをせずに見せるのです。」と言っていた。
また、「オランダ」の消費税は、贅沢品は21%らしい。
約1時間後、「オランダ」最古の町「マーストリヒト」に着いた。バスは駐車場に止まって、そこから「旧市街」まで歩いた。
途中で大きな「マース川」に出た。この川はかっての「神聖ローマ帝国」の国境だったそうで、925kmもあるのだそうだ。大きな「聖セルファース橋」が架かっていたが、右側半分が「跳ね橋」になっているのだという。ローマ時代から交通交易の要所として大型船舶が通過した場所だ。
旧市街にある大きな「セルファース教会」は、外側を一回りしただけで入場しなかった。傍にある広場の街路樹「プラタナス」の新芽が出る前の姿が印象深かった。また、道ですれ違うオランダ人の身長がとても高いので、自分が小人に思えた。
レストランやカフェーの内外は、まだ冬の厚いコートを着て、食事やコーヒーを楽しむ人達で溢れていた。老人が物乞いをしていた。
自由時間が少しあったので駄菓子屋に入った。カラフルな包み紙で包まれた飴や菓子がぎっしりと並べられていた。私達にはどぎつい色に着色された菓子類も多く驚いた。
夕食は「スキポール」のホテルのレストランだった。写真の様な食事が出たのを少しずつ食べたが、部屋に戻ったら間も無く気分が悪くなり、何度も嘔吐を繰り返した。翌朝まで続き、ツアーに参加する事ができなかった。幸いにもそのホテルは2連泊だったので、3日目は1日寝ていた。
(ポテトサラダに薄いローストビーフが被せてある) (鶏胸肉のソースかけ、ブロッコリー添え)
(デザートのチョコレートアイスクリーム)
その結果、残念ながら「リッセ」の「キューケンホフ公園」と「レンブラント」の「夜警」の絵がある事で有名な「アムステルダム」の「国立美術館」、それと「運河クルーズ」の参加を見送った。まだ行っていない3~5月の間2ヶ月間だけ開園するという「キューケンホフ公園」が悔しかった。
写真は知人が撮った中の一部。
≪ドイツの「アーヘン」観光≫②
ドイツ「アーヘン」までの高速道路は、ヒットラーが建設させたと言う。道路の厚さは75cm、勾配は4%以内で航空機も離発着できるようにしてあるとか。
その道路に「速度制限」は無いと思われているが、実際は時速120kmだという。
添乗員の説明では、ドイツの「消費税」は、一般的な必需品には7%だ。しかし、贅沢品は19%なので、牛乳は7%だが豆乳は19%、また、ハンバーグを注文してその店で食べると19%だが、テイクアウトすると7%と複雑なのだそうだ。
「アーヘン」に着くと、世界遺産の「アーヘン大聖堂」に行くために駐車場から15分程歩いた。郵便配達は3輪車で配達していた。
途中に歴史的な建築物の「アーヘン市庁舎」があった。立派だった。前庭には「カール大帝」の銅像が広場を見下ろしていた。
通りのプランターに色とりどりの春の花が美しく飾られていた。「大聖堂」には立派な「木蓮」の大木があり、蕾が膨らんでいた。
表門の傍には2尾の魚を抱えた裸の子供の像があったが、意味するところは分からなかった。パン屋のパンが美味しそうに飾られていた。
聖堂内部の装飾は、圧倒されるほどの金が天井やステンドグラスに使われていて、往時の繁栄を物語っていた。