≪「西安」観光≫(1)
上海空港で国内線に乗り継ぎ、2時間40分で「西安空港」に着陸した。しかし、ホテルに着いたのは23時近かった。
翌朝の2日目は、8時半にホテルを出発して「明代の城壁」から観光が始った。
①「明代の城壁」
この城壁は今でも西安市内の旧市街を四角く取り囲んでいて、高さ10~12m、底幅15~18m、頂上幅12~14mあり、東西に4256m、南北に2708m、周囲はほぼ14km近い距離で、古代の中国の城壁としては最も完全な状態で残されているものだ。
建設されたのは今から600年前、明の国の開祖「洪武帝」の時代の1370年~1378年だそうだが、僅か9年でこれだけの土木工事をやり終えたことに驚く。「洪武帝」の権力の大きさが想像できた。
私達が訪れたのは、「安定」と名づけられた「西門」だった。
因みに「東門」には「長東」、「南門」には「永寧」、「北門」には「安元」と名が付けられ、矢を射れる物見やぐらが設けられていたという。「南門」なら城壁に上る事ができるのだとか。残念だった。
城壁の直ぐ横に車道が造られていた。これは後で改良工事をしたものではないかと思った。
②「秦の始皇帝の兵馬俑」
城壁を見た後、バスは郊外を北東方面に50km、1時間走って、先ず窓外に「始皇帝陵」を見つつ、「秦の始皇帝の兵馬俑」に着いた。
私がここに来るのは3回目になるが、展示館の周辺の整備が進み、バスの駐車場も遠くなっていた。
7~8分歩いて入り口に入り、すぐ横のトイレを借りて驚いた。
世界遺産の博物館のトイレがひどく汚く、紙や使用した生理用品が隅の屑篭から溢れて散乱していたのだ。朝から一度も掃除されていないようで、その目を覆いたくなる有様に心が痛んだ。(帰りに展示室内のトイレに行ったが、そこは綺麗だった)
ここは42年前の1974年に、井戸を掘っていた農民達によって偶然発見された遺跡である。その時の発見者の一人「楊さん」は、みやげ物店を経営していて、まだ健在だと聞いた。
博物館は1号坑、2号坑、3号坑、文書陳列庁などに分かれている。まず、階段を登って1号坑に入った。
東西230m、南北62m、総面積14260㎡ある広大な体育館風の施設が5mの深さに掘利下げてあり、そこに兵馬俑が38列並んでいるのだ。
これまでに出土した陶製の兵馬俑は、兵2000体、戦車50輌以上(木製戦車20輌)だという。
入り内から全体を見下ろした時、一斉にこちらを向いて立つ兵馬俑にひどく圧倒される。
ずらりと立ち並ぶ「歩兵」や「戦車隊」の一人々々は、顔、髪型など皆微妙に異なっていて、当時の始皇帝が納めた広大な領地内の様々な民族が兵として参加していたことを物語っている。
「馬」の俑も実に写実的に造られていて、何度見ても驚く。
現在、発掘品を修復中の場所もあった。
中国の小中学生らしい生徒達が教師に引率されて見学に来ていた。実際に本物に触れられる機会を得られる中国の子ども達は幸せだと思った。
また、始皇帝の4頭立ての「銅馬車」と発掘品を展示してある坑の内部は、暗く凄く混み合っていたが、私は人を掻き分けてガラスで保護されている「銅馬車」を写した。
始皇帝は、これだけの数の兵馬を実際の兵隊や馬で自分と共に殉死させなかった事を思うと、私はいつもホッとするのだ。しかし、皇帝の墓を造る作業に携わった人々は、墓の場所の秘密を守るために皆殺されたとも聞く。
兵士や指揮官を身近に見られるよう一体ずつガラスケースに入れられた場所もあった。今にも動き出しそうな兵の様子に当時の製作集団の表現力は素晴らしかった事が良く分かる。
オリジナルは彩色されていたというが、発掘後は急速に退色するという。
兵馬俑はまだまだ未発掘の場所が多くあり、これから先の発掘で何が出土するか、楽しみが残されている。
この日は、他に「西安市内」の「青龍寺」「工芸品店」にも行ったが、割愛する。
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