≪「レイテ島」観光≫(2)
③「マッカーサー上陸記念碑」
日本軍は侵略中「タクロバン」に臨時政府を置いてフィリピンを支配していた時、「抗日ゲリラ」が作られ抵抗を続けたという。
1944年10月20日に島に上陸した「マッカーサー」と米軍兵士7人が最初に上陸し、その後レイテ島を日本軍の手から奪還した。その時の様子を忠実に表す像が「レッドビーチ」の上陸地点に造られていた。
④「日本兵の記念碑」
バスが「リモン峠」に向かう途中、道路沿いにある碑の前で止まった。
降りると、それはある「日本兵」の記念碑だった。私達はその碑にお参りをした。
上下は同じ碑文だった。カメラに収めたのでそのまま紹介したい。〇は判読不明な字
『 記 念 碑
第2次大戦の傷跡が今なを残り 住民の半日感情も根強いレイテ島ドラグ市を日本軍が占領中に 公平で友好的な態度を貫き市民の信望を集めた日本兵陸軍大尉 山添勇夫 並びに勇士の遺徳を偲び 地元市民の手で記念碑が建立された
1943年4月18日 この地点で戦死されました
出身地 京都府与謝郡岩滝町〇田
寄贈者 坂本喜計 河野アメ〇ア 』
⑤「静岡県レイテ碑」
次にトイレ休憩でバスから降りた際、バスの後方にこの碑があった。
静岡県が建てた慰霊碑なのだろう。50坪程あると思われた碑の土地の草が綺麗に刈られていた。傍に男性が立っていたので「この草はあなたが刈っているの」と聞くと「イエス」と答えた。彼に「フェルナンド」というサインをしてもらってから、私は感謝の気持のチップを渡し、握手してバスに戻った。
⑥「リモン峠小学校訪問」
山道をバスが1時間半も登っただろうか。やっと目的の小学校に着いたのは17時を過ぎていた。
大勢の子ども達が私達を出迎えてくれた。教室が3つしかない山奥の公立小学校だ。
説明してくれた40代の女性校長の話では、8時~12時半の幼稚園と1時~5時の学校には5~17歳の子ども256人が在籍し、教員は7名である。
家庭事情があって昼通えない子どものためと補修授業のために5時半からのクラスもあるという。
途中退学者もいるが、70%は卒業後、高校に進学する。30%は小学校止まりであり、家事労働や牧畜などの山でする仕事に就くという。
私達はそれぞれ日本から持参した学用品などを校長先生に渡した。
最後に子ども達が合唱してくれ、急な坂の下で待機していたバスの所まで下りて来て、私達を見送ってくれた。
子ども達や先生との交流は50分程だったが、「フィリピン」の貧しい家の子ども達が通う山の小学校の実情を知る事ができた。私は子ども達の純真な輝く瞳を胸に、その夜のホテルの町「オルモック」まで降りたのだった。
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