今回はかっての百済の都があったとされる扶余(プヨ)で観光したことを書きたい。
5日目の午前中、最初にかって百済王朝の「扶蘇山城(プソサンソン)」があった山に行った。
百済の都は、初め、今のソウルにあったが、高句麗に侵入されて光州に下り、最後は扶余まで退き、538年、26代聖王が「白馬江(ペンマガン)」という黄海に続く大河を臨む標高102mの扶蘇山の上に山城を建立したのである。
現在は何も残っていないが、発掘調査で池の跡、軍倉跡が確認されているそうだ。
また38年前には王墓が見つかり、2906点もの遺物も収集されたという。
当時半島には、高句麗、新羅、百済の3国があり、互いに対立、懐柔を繰り返していたが、百済は日本とは特に友好関係にあり、538年、日本に仏教を伝えている。
百済王朝は31代続いたが、最後は唐と新羅の連合軍に攻め込まれ、最後の31代義慈王の660年7月に滅びた。
この時日本は、百済の援軍要請に応じて白馬江まで400隻の水軍を送り、唐、新羅の連合軍と戦ったが敗退した。
敗れた百済の貴族達は、その後日本に逃れて帰化人となった人も多く、飛鳥時代の芸術文化に大きな影響を与えたのだ。
中でも百済の副官2人は、急に唐に脅威を抱くようになった日本で、対馬、九州に幾つかの防備の山城を築く協力をしている。
(これらは田中明著「物語 韓国人」に詳しく書かれている)
当時、百済の義慈王は毎日、昼間から遊興にうつつを抜かす緊張感に欠けた生活をしていたが、攻められた日も3000人の宮女をはべらせて酒宴をしていたという。
その宮女たちは、攻めて来た敵軍から辱めを受けるのを恐れて断崖絶壁の上まで追い詰められた後、そこから次々と下の白馬江に身を投げたらしい。
後にその女性たちを悼んで、韓服のスカート「チマ」を風にひるがさせて落ちた姿を花びらに例え、そこに「百花亭」を建てて韓国女性の鏡としてたたえ、語り継いでいるという。
私たちは「扶蘇山城」の山門①の横を抜け、整備された紅葉の林道②を20分程登ると「百花亭」③に着いた。
① ② ③
その断崖からは、眼下に悠々と流れる白馬江を臨む事ができた。④
そこから急な石段を降りて行くと白馬江の船着場に着いた。観光用の古い帆をかけた遊覧船が待っていた。それに乗って10分程川を下って、川下の町で下船した。
船からは「落花巌」と刻まれた百花亭の下の絶壁⑤を見上げる事ができた。(写真ではよくわからないが、頂上には「百花亭」がある)
私は船に乗りながら、遥か昔、遠く日本からやって来て、ここで戦った水軍の兵士たちに思いを馳せた。負け戦だったのだから、この川に沈んだ兵士も数多かった事だろう。
④ ⑤
船を降りた後、バスで「宮南池(クンナムジ)公園」に行った。
百済時代ここに王の別邸があり、中島がある池が作られたのだが、中の築山では連日、宴会が盛大に行なわれたという。
今は中島まで橋が渡された人工池になっていた。⑥
この池のデザインは新羅や日本に伝えられ、長く池作りのモデルになったらしい。
⑥
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