火曜の夜11時 今晩は佐野元春です。
みなさん寛いでますか?元春レイディオショー
この番組は東京渋谷NHKのスタジオから届けています。
さて昨年末、大滝詠一さんが亡くなりました。とても残念なことです。突然の訃報に驚いた方もおられると思います。
謹んでお悔やみを申し上げます。70年代から現代まで大滝さんは独特の美学と方法論を持って日本のポップミュージックに一つの可能性を見出してきました。元春レイディオショーで4週に渡って、大滝詠一追悼特別番組「有難う大滝さん」を放送します。今回はその第3回目。80年代元春レイディオショーから現在まで過去30年間にわたる貴重なアーカイブを元にリスナーのみなさんと大滝さんの思い出を振り返ってみたいと思います。
DJ佐野元春。これからの1時間、どうぞ寛いでお聴きください。
1 颱風 : はっぴいえんど
2 君は天然色 : 大滝詠一
3 雨のウェンズデイ : 大滝詠一
1981年アルバム「LONG VACATION」から「君は天然色」そして「雨のウェンズデイ」2曲聴いてみました。
大滝詠一追悼特集続けます。
振り返ってみると大滝さんは常にレコーディングの技術についてとても意識的なミュージシャンでした。かつて大滝さんはレコーディングエンジニアの吉野金次さんと仕事をしていました。その影響もあって僕も「SOMEDAY」のエンジニアリングを吉野金次さんに頼んだという経緯があります。
良いサウンドを作るには良いレコードエンジニアと出会いが大事だ。
そのことを教えてくれたのは大滝さんでした。
ザ・ソングライターズ ゲスト 大滝詠一に戻って
吉野金次さんとの出会いについてこんなことを語っています。
佐野:
当時のレコーディング機材について聞きたいんですけど。タクは何チャンネルだったんですか?
大瀧:
あれは16です。
佐野:
確かエンジニアは吉野金次さん。
大瀧:
吉野金次さんでした。吉野金次さんに教わって、僕もあそこで、エンジニアリングの面白味を味わうことが出来て
佐野:
やっぱり当時は二元ストリームの歌謡曲という音がね、で大瀧さんたちが作ろうとしていたオルタ・ネイティブな音がある。でその音の違いは何かって言った時に、それはやっぱり録音にあるんだってことに気づいた最初の世代だと思うんですよね。大瀧さんも。吉田保(吉田美奈子の姉。教授の親友 生田朗の義理兄)さん、そして吉野金次さん。この二人が後のロック、ポップのね、レコーディングの礎を作ったノウハウを持った唯一の二人でしたよね。当時レコーディングでソロを作られた時に吉野さんというエンジニアに求めるものは何でした?大瀧さんは
大瀧:
吉野さんは兎に角、自分の音とドラムなんかは自分でチューンしてて、それからリミッターなんかも自分でポータブル型のものを持ってきて、その音作り、マイクのトーンとかマイクの種類とか、ってなことを色々と研究してた人だったので、我々とは本当に凄くあって
佐野:
仲間っていう感じがしてた。
大瀧:
そういや「指きり」って曲があるんですよ。ソロアルバムのね。
佐野:
ああ、良い曲ですね。
大瀧:
あれね、一回歌ったきりなんですよ、あれ。リハーサルの曲なのよ。あれからチャンと出す、これがガイドの歌ですよってつもりで一回やったら、吉野さんは「これは良い」って言うのよ。今のはガイドブックなんだけどって言ったんだけど、いやだ、これをOKにしてくんなきゃ降りるって。
佐野:
ああ、わかります。大瀧さんは御自信でエンジニアリングをされることが良く知られていますけれども、そのサウンドメイキングっていうか、実際レコーディング自体に興味を持ったキッカケっていうのは何だったんですか?
大瀧:
まあラジオだと思いますね。我々の世代の鉱石ラジオを自分で作ったり、3級スーパーとか5級スーパーとかを自分達で組み立てたりゆうようなあれで、ラジオでその音楽が流れて来てっていうようなところからだと思いますよ。小学校2年でテープレコーダーを買ったので、そん時も録音が楽しみだったよね。
佐野:
そしてナイアガラレーベルを設立する。このレーベルでもプロデューサーとしてもやられたんですけれど、エンジニアリングも同時にやれてた
大瀧:
全部一人しかいなかったからね、全部一人でやる。掃除する人もいないからね。掃き掃除から始まる、出前とったりね。それからですよ、皆が来て、譜面を渡してエンジニアの箱に入って行ったり来たりしてね。
佐野:
その時代はプロデューサー・エンジニアっていう。プロデューサーも出来るし、エンジニアリングも出来る。レーベルを作って、スターを育てて、でレコードをヒットさせて、後には時代がやってきますよね。そのさきがけだったと思うんですけど、ナイアガラ・レーベルで一番最初にレコーディングしたことって覚えてます?
大瀧:
覚えてますよ。はっぴいえんど から、つい最近の2003年の最後のレコーディングまで、細かく覚えているんです。どのレコーディングがどのように行われたかっていうのは。はい。自分でやってますからね、結局。
4 指切り : 大滝詠一
5 それはぼくぢゃないよ : 大滝詠一
1972年のアルバム「大滝詠一」から
2011年4月5日の放送から
佐野:
今更聞くのも何なんですけれど、シュガーベイブ、「SONGS」レコーディングにおいて、大瀧さんの立場は先ずプロデューサーですね。でありエンジニアであり。
大瀧:
そうですね。74年にもう前史があるんです。74年にレコーディングする前に。練習したりライブをやったり、結果は残ってないんですけど、74年に随分歴史があるんですね。そこで大体出来上がっていたので、レコーディングは楽でしたね。最後の方。
佐野:
編曲面で大瀧さんのアイディアっていうのは何か入っているんですか?
大瀧:
いやあ殆ど無いって言って良いと思いますよ。
佐野:
これはやっぱり達郎さんのアイディアが
大瀧:
うん、全部山下君があのバンドは全部仕切ってますね。
佐野:
「SONGS」の中では山下さん特有のしろたまのハーモニーが多くは言ってますけれども、あのハーモニーのレコーディングの方向は大瀧さんが提供した
大瀧:
まあ、そこは全員ぐるっと回るみたいなことはとってました。それは、その前に彼らのCMのコーラスで最初に入っているんですね僕の74年に、(三菱ラジオジーガム)その時に、あの手法で、シュガーベイブとシンガーズ・スリーと7人。一本のマイクを持つようにして7人いるんですけど、それでぐるっと全員で囲んでっていう録り方をその時にしていて、山下君だけ大きいんです。要するに一歩後ろ、二歩後ろ、三歩後ろみたいな、そういうようなことをやりながらやってました。
佐野:
大瀧さんが一番最初にポップソングを聴いたというのは何歳くらいなんですか。意識的にポップソングに目覚めたのは何歳くらい?
大瀧:
それは62年ですね。中学二年ですね、意識的なのは。
佐野:
やはりラジオですか
大瀧:
うん、ラジオです。その前からラジオも聴いてましたが、自分にとっては62年になりますね。
エルビスがリバイバルヒットしたんです。「ブルーハワイ」って映画が日本で大当たりして、それで昔の曲を再プレスしたらベストテンに入っちゃった。それが「ハウンド・ドック」と「冷たくしないで」(Don't Be Cruel)ってカップリング曲。その時に初めて聴いたんです。
佐野:
エルビス・プレスリーは確か1956年デビューですから。
大瀧:
「ハートブレーク・ホテル」はね。
佐野:
ええ。62年というとかなりエルビスはスターとしてかなりオーストライドされていて、大瀧さんにとってエルビスっていうのは、どれくらいの存在だったんですか?
大瀧:
「ブルーハワイ」で流行っている人っていう感じですかね。ああゆう、「I NEED YOU♪」っていうビング・クロスビーの持ち歌を自分のものにしちゃったんだからね
佐野:
そうですね。
大瀧:
考えてみれば凄い話ですね。自分の持ち歌をあややが全部取ったみたいなものですからね。そういう意味では凄い話ですよ。ちょっと例えが思い浮かばなかったんで何なんだけど。そういうようなことだったんだけれども、「ハウンド・ドック」と「Don't Be Cruel」のカップリングを聴いた時にちょっと凄いと思いましたね。
佐野:
なるほど。その頃、大瀧さんは楽器は弾かれてたんですか?
大瀧:
いや全く無いです。僕は楽器は はっぴいえんど になってから やったに等しいです。だから本当にもう素人も良いところで、どれもだめです。
佐野:
62年。まあ出会いがあり、その後どんな音楽に興味を示したんですか。
大瀧:
62年デビューがフォーシーズンズとビーチボーイズなんですよ。僕は本当にリアルタイムで彼らが出てきた第1曲目から「シェリー」と日本では「サーフィンUSA」とですけども、ここから出るものずっと追いかけるみたいな、これ以降の人達、62年以降のデビューのものは、全部ずーと67年まで追いかけましたね。
佐野:
つまりそうするとその頃ビートルズは64年に発奮しますけども、ビートルズ以前、ビートルズ以後というのをリアルタイムで経験している世代。
大瀧:
エルビスのリバイバルヒット、エルビスのタイムライン的には遅いんですけどね。エルビスの方がメインだったわけですよ。ビートルズが出てきた時にはそのビートルズのなにそれものっていう感覚もあるんですよ。一方ではね、とは言いながらもビートルズの魅力も抗し難いのでイギリス勢の方に入っていくっていうのと、アン時にエルビスを友達に任した。64年以降は友達が買ったんですよエルビスは。でー友達が買ってきて、それを聴くというのに任して、後はビートルズ以降のイギリス勢を聴きました。
佐野:
なるほど。その後実際に楽器を持ったり自分で曲を作ってみようと思ったのは何歳くらい?
大瀧:
高校3年の時にたまたまドラムを持っている人がいて買わないかって言われて、買う前にどんなものかっていうので借りて、田舎だったもんですから、友達の田んぼの真ん中にある一軒家の所に行って、柱の所にバスドラをとめて、そこでドラムを叩いたのが最初の僕の、最初はドラマーなんですね。最初に叩いたドラムの音ですけれど、録音があるんです。初めてのビートの下手ですけど、ドン・スタターン・ドーンの。あのー叩いてました。
佐野:
ああ、そうですかー。それは勿論、オープンリールのテープレコーダー
大瀧:
61年くらいからカセットの第1号みたいなのが出てきていて、それで二人持っていたんで、あの頃ダビングみたいなこともやってました。
佐野:
大瀧さんはじゃあリズムから始まったんですね。ドラムから始まったんですね。興味深いですね。
大瀧:
僕はドラマーだと自分では思っています。時々だからドラムのフレーズなんかはほとんど自分で考えているものが多いと思っています。
佐野:
その頃、大瀧詠一さん、ソロの色んな楽曲に見られるリズムアレンジは色んなバリエーションがあるんですけど、これ大瀧さん一番最初にドラムだから
大瀧:
やっぱりドラムが気になるんですよ。さっきの「サムシング・エルス」でもアル・パーマーの方に耳がいってしまうんですけどね。
佐野:
非常に興味深い。はい。その後今度、自分で曲を作ったり詩を書いたりするんですけど、同時に多重録音というものにも興味を持ち始めるんですよね。
大瀧:
そのカセットと二台あったら多重録音が出来るんだってことを高3くらいの時に、まあ誰でもね、あの頃買ってた人はみんなやっている訳ですけれど、まあ、あれを一人でやったら面白いんじゃないかってことで、それでソロアルバム、さっきの吉野金次さんと一緒にやったソロアルバムの中で随分多重録音、自分ひとりで。そのあとB面の「五月雨」っていうのがあるんですけど、あれはベース以外は全部自分でやってるんですけどね。それは僕じゃない以外は全部やってますね。一人多重録音みたいなものにこったのは72年か73年くらいかその辺。
6 五月雨(シングル・バージョン) 大瀧詠一
7 1969年のドラッグレース : 大滝詠
佐野:
ソングライターズで松本隆さんをゲストとして迎えた時に、「1969年のドラッグレース」あの曲の詩は松本隆さんによると 暗に大瀧さんに送ったものだ と仰っていたんです。
大瀧さんもそう思いますか?
大瀧:
あのー僕は69年に細野さんと僕と松本君と松本君が運転してですね。軽井沢からくるっと一回りする旅というのをやったんですよ。あん時の歌です。
佐野:
そうですか
大瀧:
うん、でね、結局曲は出来なかった。彼はアン時の思い出を詩にした。
佐野:
ではあの詩というのは、大瀧さん、松本さん、細野さんが共有していた景色だと僕らは思ってよいんですね。
大瀧:
良いと思います。はっぴいえんど直前、はっぴいえんど 始めるぞっていうような。それが84年になって15年経ってわけですよね「EACH TIME」の時には。その時にあの、まだ終わりじゃないってなことを彼は言いたかったんではないですか?
(現在の佐野さん)
大滝詠一追悼特集
2011,4,12の元春レイディオショーの放送を振り返ってみました。
松本隆さんの作詞が多かったですが、
僕は大滝さんの作詞も好きです。
(アーカイブより)
佐野:
あー素晴らしい。素晴らしい。それともう一つは、大瀧さんが作詞をし、作曲をした曲をちょっと比較してみたいんですが。
大瀧:
(笑)どうも、気を使って頂いて。フフフ、大した歌ないですよ、言っときますよ僕の詩はね。
佐野:
初期の作品の歌は擬音がやっぱり多いですね。
大瀧:
ああ多いですね。
佐野:
ドドドドド、とかイライライラとか
大瀧:
宮沢賢治は僕は一回も読んだことが無いんだけれども、オノマトペが多いっていうのは後でききましたね。やっぱり同県人だからなんでしょうか。
佐野:
まあ言葉の韻律というところにちょっと焦点をあわせてみて、やっぱり大瀧さん僕は今日初めて聞いたんですけれど、初めてやった楽器がドラムだった、リズムから先に来る人なんだなってことが先ずわかったんです。
大瀧:
リズムです、はい。
佐野:
そうするとソングライティングにおいても、歌詞を書いた時に、その意味性よりも、やはりその韻律の方に先にこう歌詞じゃなく・・
大瀧:
そう!意味性なし。(笑)
佐野:
音律100%。けっこう意味が出ているとは思いますけれど。
大瀧:
うーん後でこじ付け。
佐野:
はい。(笑)
大瀧:
意味がね全くないと思いますよ。自慢じゃないけど。「あつさのせい」ってのがあって、みんな良く言ってて、「あっ」ってね、あの頃「あっ」っていうので始まる流行語が当時あったんです。あっと驚くためごろう ってのが流行ってたんです。その「あっ」っていうのを言ったら、次の人は「っとおどろくためごろう」と頭浮かぶだろうと。で「あっ つさでのぼせ上がった心は」って歌ったらドキっと来るだろうと
佐野:
受けた
大瀧:
受けてるねー。良いよ。
8 あつさのせい : 大滝詠一
今夜の元春レイディオショー楽しんでもらえましたか?番組ではWEBサイトを用意しています。
是非リクエスト
来週は大滝詠一追悼特集の最終回
さて残念なお知らせとなりますが、この元春レイディオショー
この3月をもって終わりとなります。
先ずは皆さんにお礼を言いたいと思います。「どうもありがとう」
最終回まであと4回あります。最後まで楽しんで下さいね。
ではまた来週、御機嫌よう。
みなさん寛いでますか?元春レイディオショー
この番組は東京渋谷NHKのスタジオから届けています。
さて昨年末、大滝詠一さんが亡くなりました。とても残念なことです。突然の訃報に驚いた方もおられると思います。
謹んでお悔やみを申し上げます。70年代から現代まで大滝さんは独特の美学と方法論を持って日本のポップミュージックに一つの可能性を見出してきました。元春レイディオショーで4週に渡って、大滝詠一追悼特別番組「有難う大滝さん」を放送します。今回はその第3回目。80年代元春レイディオショーから現在まで過去30年間にわたる貴重なアーカイブを元にリスナーのみなさんと大滝さんの思い出を振り返ってみたいと思います。
DJ佐野元春。これからの1時間、どうぞ寛いでお聴きください。
1 颱風 : はっぴいえんど
2 君は天然色 : 大滝詠一
3 雨のウェンズデイ : 大滝詠一
1981年アルバム「LONG VACATION」から「君は天然色」そして「雨のウェンズデイ」2曲聴いてみました。
大滝詠一追悼特集続けます。
振り返ってみると大滝さんは常にレコーディングの技術についてとても意識的なミュージシャンでした。かつて大滝さんはレコーディングエンジニアの吉野金次さんと仕事をしていました。その影響もあって僕も「SOMEDAY」のエンジニアリングを吉野金次さんに頼んだという経緯があります。
良いサウンドを作るには良いレコードエンジニアと出会いが大事だ。
そのことを教えてくれたのは大滝さんでした。
ザ・ソングライターズ ゲスト 大滝詠一に戻って
吉野金次さんとの出会いについてこんなことを語っています。
佐野:
当時のレコーディング機材について聞きたいんですけど。タクは何チャンネルだったんですか?
大瀧:
あれは16です。
佐野:
確かエンジニアは吉野金次さん。
大瀧:
吉野金次さんでした。吉野金次さんに教わって、僕もあそこで、エンジニアリングの面白味を味わうことが出来て
佐野:
やっぱり当時は二元ストリームの歌謡曲という音がね、で大瀧さんたちが作ろうとしていたオルタ・ネイティブな音がある。でその音の違いは何かって言った時に、それはやっぱり録音にあるんだってことに気づいた最初の世代だと思うんですよね。大瀧さんも。吉田保(吉田美奈子の姉。教授の親友 生田朗の義理兄)さん、そして吉野金次さん。この二人が後のロック、ポップのね、レコーディングの礎を作ったノウハウを持った唯一の二人でしたよね。当時レコーディングでソロを作られた時に吉野さんというエンジニアに求めるものは何でした?大瀧さんは
大瀧:
吉野さんは兎に角、自分の音とドラムなんかは自分でチューンしてて、それからリミッターなんかも自分でポータブル型のものを持ってきて、その音作り、マイクのトーンとかマイクの種類とか、ってなことを色々と研究してた人だったので、我々とは本当に凄くあって
佐野:
仲間っていう感じがしてた。
大瀧:
そういや「指きり」って曲があるんですよ。ソロアルバムのね。
佐野:
ああ、良い曲ですね。
大瀧:
あれね、一回歌ったきりなんですよ、あれ。リハーサルの曲なのよ。あれからチャンと出す、これがガイドの歌ですよってつもりで一回やったら、吉野さんは「これは良い」って言うのよ。今のはガイドブックなんだけどって言ったんだけど、いやだ、これをOKにしてくんなきゃ降りるって。
佐野:
ああ、わかります。大瀧さんは御自信でエンジニアリングをされることが良く知られていますけれども、そのサウンドメイキングっていうか、実際レコーディング自体に興味を持ったキッカケっていうのは何だったんですか?
大瀧:
まあラジオだと思いますね。我々の世代の鉱石ラジオを自分で作ったり、3級スーパーとか5級スーパーとかを自分達で組み立てたりゆうようなあれで、ラジオでその音楽が流れて来てっていうようなところからだと思いますよ。小学校2年でテープレコーダーを買ったので、そん時も録音が楽しみだったよね。
佐野:
そしてナイアガラレーベルを設立する。このレーベルでもプロデューサーとしてもやられたんですけれど、エンジニアリングも同時にやれてた
大瀧:
全部一人しかいなかったからね、全部一人でやる。掃除する人もいないからね。掃き掃除から始まる、出前とったりね。それからですよ、皆が来て、譜面を渡してエンジニアの箱に入って行ったり来たりしてね。
佐野:
その時代はプロデューサー・エンジニアっていう。プロデューサーも出来るし、エンジニアリングも出来る。レーベルを作って、スターを育てて、でレコードをヒットさせて、後には時代がやってきますよね。そのさきがけだったと思うんですけど、ナイアガラ・レーベルで一番最初にレコーディングしたことって覚えてます?
大瀧:
覚えてますよ。はっぴいえんど から、つい最近の2003年の最後のレコーディングまで、細かく覚えているんです。どのレコーディングがどのように行われたかっていうのは。はい。自分でやってますからね、結局。
4 指切り : 大滝詠一
5 それはぼくぢゃないよ : 大滝詠一
1972年のアルバム「大滝詠一」から
2011年4月5日の放送から
佐野:
今更聞くのも何なんですけれど、シュガーベイブ、「SONGS」レコーディングにおいて、大瀧さんの立場は先ずプロデューサーですね。でありエンジニアであり。
大瀧:
そうですね。74年にもう前史があるんです。74年にレコーディングする前に。練習したりライブをやったり、結果は残ってないんですけど、74年に随分歴史があるんですね。そこで大体出来上がっていたので、レコーディングは楽でしたね。最後の方。
佐野:
編曲面で大瀧さんのアイディアっていうのは何か入っているんですか?
大瀧:
いやあ殆ど無いって言って良いと思いますよ。
佐野:
これはやっぱり達郎さんのアイディアが
大瀧:
うん、全部山下君があのバンドは全部仕切ってますね。
佐野:
「SONGS」の中では山下さん特有のしろたまのハーモニーが多くは言ってますけれども、あのハーモニーのレコーディングの方向は大瀧さんが提供した
大瀧:
まあ、そこは全員ぐるっと回るみたいなことはとってました。それは、その前に彼らのCMのコーラスで最初に入っているんですね僕の74年に、(三菱ラジオジーガム)その時に、あの手法で、シュガーベイブとシンガーズ・スリーと7人。一本のマイクを持つようにして7人いるんですけど、それでぐるっと全員で囲んでっていう録り方をその時にしていて、山下君だけ大きいんです。要するに一歩後ろ、二歩後ろ、三歩後ろみたいな、そういうようなことをやりながらやってました。
佐野:
大瀧さんが一番最初にポップソングを聴いたというのは何歳くらいなんですか。意識的にポップソングに目覚めたのは何歳くらい?
大瀧:
それは62年ですね。中学二年ですね、意識的なのは。
佐野:
やはりラジオですか
大瀧:
うん、ラジオです。その前からラジオも聴いてましたが、自分にとっては62年になりますね。
エルビスがリバイバルヒットしたんです。「ブルーハワイ」って映画が日本で大当たりして、それで昔の曲を再プレスしたらベストテンに入っちゃった。それが「ハウンド・ドック」と「冷たくしないで」(Don't Be Cruel)ってカップリング曲。その時に初めて聴いたんです。
佐野:
エルビス・プレスリーは確か1956年デビューですから。
大瀧:
「ハートブレーク・ホテル」はね。
佐野:
ええ。62年というとかなりエルビスはスターとしてかなりオーストライドされていて、大瀧さんにとってエルビスっていうのは、どれくらいの存在だったんですか?
大瀧:
「ブルーハワイ」で流行っている人っていう感じですかね。ああゆう、「I NEED YOU♪」っていうビング・クロスビーの持ち歌を自分のものにしちゃったんだからね
佐野:
そうですね。
大瀧:
考えてみれば凄い話ですね。自分の持ち歌をあややが全部取ったみたいなものですからね。そういう意味では凄い話ですよ。ちょっと例えが思い浮かばなかったんで何なんだけど。そういうようなことだったんだけれども、「ハウンド・ドック」と「Don't Be Cruel」のカップリングを聴いた時にちょっと凄いと思いましたね。
佐野:
なるほど。その頃、大瀧さんは楽器は弾かれてたんですか?
大瀧:
いや全く無いです。僕は楽器は はっぴいえんど になってから やったに等しいです。だから本当にもう素人も良いところで、どれもだめです。
佐野:
62年。まあ出会いがあり、その後どんな音楽に興味を示したんですか。
大瀧:
62年デビューがフォーシーズンズとビーチボーイズなんですよ。僕は本当にリアルタイムで彼らが出てきた第1曲目から「シェリー」と日本では「サーフィンUSA」とですけども、ここから出るものずっと追いかけるみたいな、これ以降の人達、62年以降のデビューのものは、全部ずーと67年まで追いかけましたね。
佐野:
つまりそうするとその頃ビートルズは64年に発奮しますけども、ビートルズ以前、ビートルズ以後というのをリアルタイムで経験している世代。
大瀧:
エルビスのリバイバルヒット、エルビスのタイムライン的には遅いんですけどね。エルビスの方がメインだったわけですよ。ビートルズが出てきた時にはそのビートルズのなにそれものっていう感覚もあるんですよ。一方ではね、とは言いながらもビートルズの魅力も抗し難いのでイギリス勢の方に入っていくっていうのと、アン時にエルビスを友達に任した。64年以降は友達が買ったんですよエルビスは。でー友達が買ってきて、それを聴くというのに任して、後はビートルズ以降のイギリス勢を聴きました。
佐野:
なるほど。その後実際に楽器を持ったり自分で曲を作ってみようと思ったのは何歳くらい?
大瀧:
高校3年の時にたまたまドラムを持っている人がいて買わないかって言われて、買う前にどんなものかっていうので借りて、田舎だったもんですから、友達の田んぼの真ん中にある一軒家の所に行って、柱の所にバスドラをとめて、そこでドラムを叩いたのが最初の僕の、最初はドラマーなんですね。最初に叩いたドラムの音ですけれど、録音があるんです。初めてのビートの下手ですけど、ドン・スタターン・ドーンの。あのー叩いてました。
佐野:
ああ、そうですかー。それは勿論、オープンリールのテープレコーダー
大瀧:
61年くらいからカセットの第1号みたいなのが出てきていて、それで二人持っていたんで、あの頃ダビングみたいなこともやってました。
佐野:
大瀧さんはじゃあリズムから始まったんですね。ドラムから始まったんですね。興味深いですね。
大瀧:
僕はドラマーだと自分では思っています。時々だからドラムのフレーズなんかはほとんど自分で考えているものが多いと思っています。
佐野:
その頃、大瀧詠一さん、ソロの色んな楽曲に見られるリズムアレンジは色んなバリエーションがあるんですけど、これ大瀧さん一番最初にドラムだから
大瀧:
やっぱりドラムが気になるんですよ。さっきの「サムシング・エルス」でもアル・パーマーの方に耳がいってしまうんですけどね。
佐野:
非常に興味深い。はい。その後今度、自分で曲を作ったり詩を書いたりするんですけど、同時に多重録音というものにも興味を持ち始めるんですよね。
大瀧:
そのカセットと二台あったら多重録音が出来るんだってことを高3くらいの時に、まあ誰でもね、あの頃買ってた人はみんなやっている訳ですけれど、まあ、あれを一人でやったら面白いんじゃないかってことで、それでソロアルバム、さっきの吉野金次さんと一緒にやったソロアルバムの中で随分多重録音、自分ひとりで。そのあとB面の「五月雨」っていうのがあるんですけど、あれはベース以外は全部自分でやってるんですけどね。それは僕じゃない以外は全部やってますね。一人多重録音みたいなものにこったのは72年か73年くらいかその辺。
6 五月雨(シングル・バージョン) 大瀧詠一
7 1969年のドラッグレース : 大滝詠
佐野:
ソングライターズで松本隆さんをゲストとして迎えた時に、「1969年のドラッグレース」あの曲の詩は松本隆さんによると 暗に大瀧さんに送ったものだ と仰っていたんです。
大瀧さんもそう思いますか?
大瀧:
あのー僕は69年に細野さんと僕と松本君と松本君が運転してですね。軽井沢からくるっと一回りする旅というのをやったんですよ。あん時の歌です。
佐野:
そうですか
大瀧:
うん、でね、結局曲は出来なかった。彼はアン時の思い出を詩にした。
佐野:
ではあの詩というのは、大瀧さん、松本さん、細野さんが共有していた景色だと僕らは思ってよいんですね。
大瀧:
良いと思います。はっぴいえんど直前、はっぴいえんど 始めるぞっていうような。それが84年になって15年経ってわけですよね「EACH TIME」の時には。その時にあの、まだ終わりじゃないってなことを彼は言いたかったんではないですか?
(現在の佐野さん)
大滝詠一追悼特集
2011,4,12の元春レイディオショーの放送を振り返ってみました。
松本隆さんの作詞が多かったですが、
僕は大滝さんの作詞も好きです。
(アーカイブより)
佐野:
あー素晴らしい。素晴らしい。それともう一つは、大瀧さんが作詞をし、作曲をした曲をちょっと比較してみたいんですが。
大瀧:
(笑)どうも、気を使って頂いて。フフフ、大した歌ないですよ、言っときますよ僕の詩はね。
佐野:
初期の作品の歌は擬音がやっぱり多いですね。
大瀧:
ああ多いですね。
佐野:
ドドドドド、とかイライライラとか
大瀧:
宮沢賢治は僕は一回も読んだことが無いんだけれども、オノマトペが多いっていうのは後でききましたね。やっぱり同県人だからなんでしょうか。
佐野:
まあ言葉の韻律というところにちょっと焦点をあわせてみて、やっぱり大瀧さん僕は今日初めて聞いたんですけれど、初めてやった楽器がドラムだった、リズムから先に来る人なんだなってことが先ずわかったんです。
大瀧:
リズムです、はい。
佐野:
そうするとソングライティングにおいても、歌詞を書いた時に、その意味性よりも、やはりその韻律の方に先にこう歌詞じゃなく・・
大瀧:
そう!意味性なし。(笑)
佐野:
音律100%。けっこう意味が出ているとは思いますけれど。
大瀧:
うーん後でこじ付け。
佐野:
はい。(笑)
大瀧:
意味がね全くないと思いますよ。自慢じゃないけど。「あつさのせい」ってのがあって、みんな良く言ってて、「あっ」ってね、あの頃「あっ」っていうので始まる流行語が当時あったんです。あっと驚くためごろう ってのが流行ってたんです。その「あっ」っていうのを言ったら、次の人は「っとおどろくためごろう」と頭浮かぶだろうと。で「あっ つさでのぼせ上がった心は」って歌ったらドキっと来るだろうと
佐野:
受けた
大瀧:
受けてるねー。良いよ。
8 あつさのせい : 大滝詠一
今夜の元春レイディオショー楽しんでもらえましたか?番組ではWEBサイトを用意しています。
是非リクエスト
来週は大滝詠一追悼特集の最終回
さて残念なお知らせとなりますが、この元春レイディオショー
この3月をもって終わりとなります。
先ずは皆さんにお礼を言いたいと思います。「どうもありがとう」
最終回まであと4回あります。最後まで楽しんで下さいね。
ではまた来週、御機嫌よう。