穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

村上春樹「職業としての小説家」:1・・補遺

2015-10-02 20:21:40 | 村上春樹

村上氏によると「長年」小説家としてメシを食っている人物を職業的小説家という。そう言う意味ではチャンドラーも永井荷風も職業的小説家である。しかし「生業としている、あるいは、メシを食っている・・という条件を小説だけでメシを食っているという意味を含意するととるなら、チャンドラーも荷風も職業的小説家にはあてはまらない。

村上氏のいう意味は小説執筆だけで生計をたてている、という意味にとれないことがないから、確認するわけである。あえて異をとなえることもないのだが、前にも書いたがチャンドラーは20年間に長編7冊、それも大した部数が売れた訳ではない。これだけで生計をたてるのは困難ではないか。

ビジネスマンからスリラー作家になったチャンドラーにとって収入的には小説は生計の一部を満たしただけではないか、全くの推測である。ビジネスマンといっても『勤め人』の美称ではない。彼は石油販売会社の重役であった。金融、金銭運用の知識もあったに違いない。

永井荷風は銀行員であった。作家になってもその交友関係は財界関係が中心である。また、株等の資産を大規模に運用していたことでも知られている(戦前)。

戦後もブームで作家収入が増えると利殖にせいをだしていた。作家収入がどの程度の比重を占めていたのか。残念ながらその方面の評伝はないので分からないが。

もうひとつ、村上氏が論じている「小説家」というのはどういう種類の小説家なのか。小説家ならエンタメ関連であろうと、純文学であろうと関係なく当てはまると考えているのだろうか。まだ全部読んでいないが、目次を見るとこの点には触れていないようである。すこし鈍感なのではないか。

村上氏自身の作風がジャンルのごった煮を思わせる。芥川賞との関連で話題になるからには一応「純文学」、古くさい言葉だが、なのだろう。また、オカルト、怪奇、ファンタジーなどのエンタメ味もふりかけている。だから小説ならなんでも彼の理屈はあてはまる(勿論体験的理論だが)というつもりなのか。

このあたりははっきりと述べた方が良いのではないか。あえて「職業的」と「非職業的」作家を区別するくらいなら*、シリアス系かエンため系かぐらいは(あるいは両方)明言すべきではないか。

*この区別はきわめて特異で、あるいはユニーク、独創的で村上的である。ジャンルについても一言あるべきだろう。ジャンルに関係ないか、あるかでも。

私の印象では無意識のうちに「純文学」に限った話をしているように見える。

うそか本当か、村上氏が書中で引用しているチャンドラーの手紙ではチャンドラーはノーベル賞をぼろくそにけなしているが、これは少なくともチャンドラーはノーベル賞を意識していたということなのだろうか。この辺ももう少し膨らましてもらえるとよかった。おもしろく、かつ、意外な話題なのでね。

 


村上春樹『職業としての小説家』:1

2015-10-02 08:14:18 | 村上春樹

第一回 小説家は寛容な人種なのか

さる小規模リブロで買った。まだ第一刷だった。この間大規模リブロ書店で見た時には第二刷だったが、まだこの書店では第一刷が捌けていないようだ。出版社が変わっている。スイッチ・パブリシングというところだ。素人の私には初めて目にした名前だ。売り方も変わっているし、出版社も変わっている。 

この本は12章(回)になっているが、それぞれ雑誌に掲載された短文を集めた物のようだから書評も一つずつやった方がやりやすそうだ。

この本は小説論でもあるが、タイトルにあるように「小説家」論である。それも「職業的小説家論」である。職業的とはなにか。センサスの定義と同様に報酬を得て行う仕事である。それも過去一週間とか一ヶ月ではなくて長い間、一生それで食って行く仕事である。これは村上氏の定義である。 

一作で終わる作家は職業作家ではない。最低10年以上小説執筆だけで食っていかなかければならない。村上氏は35年間小説だけで食っている。この立ち位置ははっきりとしていて、それを説明するために「職業的でない小説家」も詳述している。

それは作品の程度の高さではない。一作だけ、あるいは比較的短期間で水準を抜いた複数の作品を発表する人はかなりいる(歴史的に見て、という意味だと思うが)。あくまでも長期間小説だけで生活している「職業的小説家」という人種はいかなるものかを、網羅的にではなく、村上氏の体験に即して記述している。

さて、この章のタイトルであるが、職業的小説家は長い間筆一本で遣って行く苦労を知っているから、異業種からの新規参入者にも寛大であるという。そうなのだろう、芸人が芥川賞を取ってミリオンセラーになっても「やあ、いらっしゃい」と暖かく受け入れるというのである。すごく説得力のある説明だね。どうせすぐに去って行くだろうと思っているから寛大なのである。

この考えは昔からの村上氏のものらしい。どこかで似たようなことを書いていたような。

しかし、この基準でいくと、チャンドラーも永井荷風も「職業的小説家」でなくなる可能性がある。長くなったね。その説明は次回。この「めざまし執筆」は一息で書けるところでしめている。大体A4一枚である。このごろは何か書かないと脳が活性化してこないんだよね。朝の行事みたいになった。