村上氏によると「長年」小説家としてメシを食っている人物を職業的小説家という。そう言う意味ではチャンドラーも永井荷風も職業的小説家である。しかし「生業としている、あるいは、メシを食っている・・という条件を小説だけでメシを食っているという意味を含意するととるなら、チャンドラーも荷風も職業的小説家にはあてはまらない。
村上氏のいう意味は小説執筆だけで生計をたてている、という意味にとれないことがないから、確認するわけである。あえて異をとなえることもないのだが、前にも書いたがチャンドラーは20年間に長編7冊、それも大した部数が売れた訳ではない。これだけで生計をたてるのは困難ではないか。
ビジネスマンからスリラー作家になったチャンドラーにとって収入的には小説は生計の一部を満たしただけではないか、全くの推測である。ビジネスマンといっても『勤め人』の美称ではない。彼は石油販売会社の重役であった。金融、金銭運用の知識もあったに違いない。
永井荷風は銀行員であった。作家になってもその交友関係は財界関係が中心である。また、株等の資産を大規模に運用していたことでも知られている(戦前)。
戦後もブームで作家収入が増えると利殖にせいをだしていた。作家収入がどの程度の比重を占めていたのか。残念ながらその方面の評伝はないので分からないが。
もうひとつ、村上氏が論じている「小説家」というのはどういう種類の小説家なのか。小説家ならエンタメ関連であろうと、純文学であろうと関係なく当てはまると考えているのだろうか。まだ全部読んでいないが、目次を見るとこの点には触れていないようである。すこし鈍感なのではないか。
村上氏自身の作風がジャンルのごった煮を思わせる。芥川賞との関連で話題になるからには一応「純文学」、古くさい言葉だが、なのだろう。また、オカルト、怪奇、ファンタジーなどのエンタメ味もふりかけている。だから小説ならなんでも彼の理屈はあてはまる(勿論体験的理論だが)というつもりなのか。
このあたりははっきりと述べた方が良いのではないか。あえて「職業的」と「非職業的」作家を区別するくらいなら*、シリアス系かエンため系かぐらいは(あるいは両方)明言すべきではないか。
*この区別はきわめて特異で、あるいはユニーク、独創的で村上的である。ジャンルについても一言あるべきだろう。ジャンルに関係ないか、あるかでも。
私の印象では無意識のうちに「純文学」に限った話をしているように見える。
うそか本当か、村上氏が書中で引用しているチャンドラーの手紙ではチャンドラーはノーベル賞をぼろくそにけなしているが、これは少なくともチャンドラーはノーベル賞を意識していたということなのだろうか。この辺ももう少し膨らましてもらえるとよかった。おもしろく、かつ、意外な話題なのでね。